本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 日本葡萄酒の黎明期(2)-


渡仏時の二青年と葡萄樹
 皆様、あけましておめでとうございます。そして原田義昭先生には見事に国政復帰を果たされましたことを心からお祝い申し上げます。この駄文も今年は101号から始まります。新たな気持ちでワインに関する諸々のお話をお伝えしていこうと思います。引き続きご笑覧くださればうれしい限りでございます。今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 さて、前回から<日本葡萄酒の黎明期>と題して語ってまいりましたが、実は、2003年にボルドーへ留学することが決まった時に、小学校の担任の女性の先生(当時80歳)にお手紙を差し上げましたところ、届いた日に即電話がありまして直ぐに拙宅にまいりますとのこと。こちらからお伺いしますと言っても聞き入れられず、遥々神奈川県の鵠沼からリュックを背負って飛んで来られました。そして3つのことを私に言い残し、金一封の餞別をくださいますと、爽やかな一陣の風のように去って行かれました。
 その一つ言葉が「ボルドーでフランスのワインを学ぶのであれば、先ず日本の葡萄酒と日本酒について歴史を含めてしっかりと勉強していきなさい。そして健康第一を考えてくれぐれもワインを飲みすぎないこと」でした。因みに、あとの2つは「言葉には文化があることを学んできなさい」と「フランスでは老若男女を問わずストレスを軽減できる友をもつこと」でした。夫々が含蓄のある先生らしい優しいお言葉であったと今でも感謝しております。そのことを時たま思い出しては、当時蒐集した資料をもとに、いつか駄文《ボルドー便り》の中で先ずは日本の葡萄酒について語らなければと思っておりました。
 それでは高野、土屋の二青年のその後の足跡を辿ってみたいと思います。実は、二青年はフランスへ出発するに当り会社側と渡航上の契約を取り交わしておりました。その「契約書之事」とする文面がふるっていますのでここでご紹介しておきます。
 右者両人フランス国旅行ニ付而者彼ノ国葡萄栽培方者無論葡萄酒醸造方法満一ヶ年ヲ以テ修業帰国致シ右栽培方葡萄醸造吃度成功可致候万一右期限ニ而修業不行届候ハ自費ヲ以テ尚修業帰国致シ葡萄酒成功此会社盛大ニシ我皇国ノ御報恩ヲ可尽事
                   明治十年十月四日
                          山梨県第廿四区祝村渡行人
                               土屋 助次郎 
                               高野 正誠
  山梨県第廿四区
    祝村葡萄酒醸造会社 社中御中
 これは額面通り解釈すれば、会社側は高野、土屋に対し「もし一年の修業期間に醸造の勉強をちゃんとしないで帰国したら、今度は自費で再度渡仏してもらうから左様心得よ」という極めてきついお達しの契約内容でした。葡萄酒づくりに全く無知な村の青年に「一年間で葡萄の栽培と葡萄酒の醸造の全てを学んでこい」というのは、フランス語すら満足にしゃべれない、そして聞き取ることもままならない二青年に対して土台無理な注文であったと考えるのが自然でありましょう。それでも県内で初めての西欧への旅立ちに胸を弾ませる二人の青年は、海外伝習生として旅装を整え、勇躍横浜をめざして草鞋履きで旅立ったのであります。明治時代の大志に燃えた青年は勇気凛凛です。
 話が後戻りしました。二人の青年の帰国後の話に戻しましょう。実は、日々努力に努力を重ねた研修も全てが終了した時、会社との約束の期間一年をとうに過ぎてしまっていたのです。横浜の港に着いたのは明治12年(1879年)5月8日でした。渡仏の時、いわゆるスポンサーであった祝村葡萄酒醸造会社(のちの大日本山梨葡萄酒会社)と契約を交わした「修業一ヵ年」は果たされなかったのです。つまり、予定より7か月も超過して、1年7か月ぶりの帰国になってしまいました。延長した費用は自己負担で補う約束でしたので、高野家では会社側から違約金をごっそり取られる破目に陥り、借財に苦しんだといいます。現代と違って、片道だけでも50日を要した130余年前のことです。日本とフランスの距離的な感覚を少しも知らない当時の会社そして村民は、7か月遅れたことに拘って、高野、土屋の二青年が苦労の挙句に習得した西欧の葡萄栽培と醸造技術の大きな成果を真っ当に評価できなかったようです。特に、年長者であった高野は、その責任を一手に被りました。歓迎会どころか謹慎を命ぜられ、その秋に始まった葡萄酒生産の会社の名簿から高野正誠の名前まで消されてしまったのです。当時の人たちには彼らの苦労が理解できなかったのでしょうか。残念至極です。それでも、この二人の青年がフランスに派遣され、大きな成果を上げたことが、その後官報で取り上げられたことはせめてもの救いでありました。
 ところで、彼らが渡仏中に、国内の情勢が激動しました。明治11年5月14日に、葡萄酒をはじめ多くの殖産興業の一番の推進者であった内務卿の大久保利通が刺客に襲われ命を落としたのです。運命の日の朝、自宅に訪ねてきた福島県令(知事)山吉盛典に語った言葉は大久保利通の心情をよく伝えております。「維新以来10年を経たけれど、昨年までは兵馬騒擾が頻発して、仕事らしい仕事はできなかった。しかもその間、海外の出張もあり、東西に奔走し、職務の実あがらざること恐懼に耐えない次第である。しかし、それも時勢でやむを得なかったと思う。今や事ようやく平らかとなり、これからが本当の仕事である。思うにこれをやり抜くには30年かかる。明治元年より十年までが一期で、兵事多くして創業の時であり、十一年より二十年までが二期で最も肝要なる時間であり、内治を整え、民産を殖する時である。そして二十一年より三十年までが三期で守成の時であり、後進賢者の継承修飾するを待つ時である」と。大久保は“いざこれから”という時に倒れてしまったのです。大久保が20年、30年の長期スパンで殖産興業を考えていたことは記憶すべき重要なことだと思います。司馬遼太郎は『明治という国家』の中で、大久保利通を評して、「才能、気力、器量、そして無私と奉公の精神において同時代の政治家からぬきんでていました。私は、こんにちにいたるまでの日本の制度の基礎は明治元年から明治十年までにできあがったと思っていますが、それをつくった人間たちについて、それをただ一人の名で、代表せよといわれれば、大久保の名をあげます。沈着、剛毅、寡黙で一言のむだ口もたたかず、自己と国家を同一化し、四六時ちゅう国家建設のことを考え、他に雑念というものがありませんでした」と述べております。
 話を二人の青年に戻します。彼らの帰国で、国産葡萄酒の本格的な醸造が始まったのですが、彼らを派遣した大日本山梨葡萄酒会社は発足当時の明治12年、13年は順調に生産が伸びていったものの、明治14年以降は伸び悩み、栽培に困難な欧州種の葡萄栽培をあきらめて米国種の醸造用葡萄を選定したりと試行錯誤を繰り返しましたが、ついに明治18年には工場を閉鎖する事態に至ってしまいました。やはり醸造用葡萄の改良と醸造設備の不備があったものと思われます。しかし、その後勝沼ではこの試みをしっかりと受け継ぎ、葡萄酒醸造事業が様々な形で展開し、今日の隆盛を築いていったのであります。
 二人の青年を国際的に名を馳せていたトロワの園芸研究家に紹介したあの前田正名は、奇しくも帰国後暫くして山梨県令(知事)となるのです。着任早々、高野、土屋の二人の案内で県内の葡萄栽培の実情や葡萄酒醸造の現場を具に見て歩き、「まだまだこれからだな」と感想を述べたそうです。その通りで、ある程度の水準に達した葡萄酒が生産されるには明治30年代まで待たねばなりませんでした。ただ、二人の1年7か月のフランス・トロワでの滞在は余りにも短く、せめて3年乃至4年みっちり腰を据えて勉強していたら、日本のワイン発達史の速度はもう少し速められたのではと考えるのは私だけではないでしょう。高野正誠は明治23年に名著『葡萄三説』という立派な指導書を出版しています。
 ところで、「葡萄栽培をしたいなら山梨へ行け」― 明治10年代にはこんな風潮が全国に広がっていました。明治20年9月、新潟から来たという一人の青年が祝村の土屋龍憲(助次郎)の醸造所を訪れました。青年はまだ19歳でした。この男こそは、後に「岩の原葡萄園」を創設し、日本で初めて醸造用葡萄品種マスカット・ベリーAを生み出した、“日本のワインの父”と呼ばれる川上善兵衛(1868-1944)だったのです。「郷里新潟で葡萄を栽培したい。できれば葡萄酒の生産もしたい」と熱心に語り出しました。その心意気に応えて、土屋は醸造所を案内し説明しました。青年はそれを丹念にメモして、圧搾機や器材をスケッチしました。葡萄品種や結実後の経過なども具に調べたといいます。そして青年は1週間ほど土屋の家に寝泊まりして、土屋から日本の葡萄栽培の長所と短所をしっかりと聞き取りました。その後、全国の葡萄栽培地を歩き回り、半年に亘る研究の結果、「雪の多い新潟でも葡萄は栽培できる」と確信するに至りました。こうして川上善兵衛は文明開化、殖産興業の大きなうねりの中で西欧に負けない葡萄酒をつくろうという夢を描いたのでした。新潟(上越市)の自宅の広大な庭園をつぶして23ヘクタールの葡萄畑をつくり栽培を始めたのは、明治23年のことでした。明治25年の秋には土屋龍憲のもとを再度訪ね、3か月ほど長逗留して葡萄酒醸造の実際を学びました。翌26年9月には、自園の葡萄でもって初めて葡萄酒5石余を醸造するまでになりました。明治33年の記録では、600余石(110.4キロリットル)を生産しています。これは同年の甲州産葡萄酒の生産石数200余石の3倍の生産量です。善兵衛の周到な計画が物の見事に開花したのです。そしてこの葡萄園を「岩の原葡萄園」と名づけ、葡萄酒を「菊水」印として売り出すのです。しかしながら、川上家の所有地の大半を葡萄園に広げた岩の原の立地条件は、やはり葡萄栽培に適していなかったようで、度重なる豪雪で葡萄樹に大変な被害が相次ぎます。それに日本全土を襲った経済恐慌も経営難に追い打ちをかけました。その経営に苦しむ善兵衛のもとに突如現れたのが関西訛りの紳士、寿屋(のちのサントリー創始者)の鳥井信治郎(1879-1962)でした。
 明治36年には東京・浅草の神谷伝兵衛が売り出した「蜂印香竄葡萄酒」が甘くて美味いというので評判になりました。関東の“蜂ブドー酒”に刺激された関西の寿屋の鳥井信治郎は、明治40年に「赤玉ポートワイン」(現在の赤玉スイートワイン)を売り出すのです。赤玉の原酒はスペインの輸入赤ワインでした。それにシロップを加え、とろりとした甘さを加えました。この「赤玉ポートワイン」は全国的に大ヒットしました。それに大いに貢献したのが、赤玉をワイングラスに注いで微笑む、当時としてはめずらしいヌードポスターでした。鳥井信治郎は赤玉で儲けた資金で、川上善兵衛と手を組んで「岩の原葡萄園」を正統派の本格的な醸造用葡萄園に育て上げ、やがて山梨の登美高地(現在のサントリー山梨ワイナリー)で、川上善兵衛が思う存分に腕を揮う場を提供したのです。「死んだら灰を葡萄園に撒いてくれ。葡萄園はいつまでも生き、葡萄樹の中にいつまでも生き続けたい」、善兵衛が常々洩らしていた言葉です。文字通り葡萄に賭けた一生でした。川上善兵衛が岩の原に1本の葡萄の苗木が植えられてから120余年が過ぎました。善兵衛は「岩の原葡萄園」に、そして日本の葡萄とワインの世界に今も生き続けているのです。
 高野正誠、土屋龍憲、川上善兵衛、鳥井信治郎、更には葡萄酒の殖産興業を奨励した大久保利通、藤村紫朗、そして国際的な視野から国産葡萄酒の推進力になった功労者、前田正名 ― 葡萄と葡萄酒がとりもつ奇しき因縁とでも申しましょうか、人と人との不思議な繋がりが今日の我が国のワイン発展の礎になったことを忘れてはならないでしょう。
 ここに、「日本葡萄酒」の黎明期の一端をご披露させていただきました。文明開化の時代にあって、殖産興業の名のもとにいくつもの苦難を乗り越えて、西欧に負けない葡萄酒をつくろうという壮大な夢、坂の上の雲をめざして夢中で突き進んでいった明治時代の気概ある先駆者の物語です。まさに日本ワインの発達史そのものでありました。今、私たちは明治創業時のあの「溌剌たる元気」と「目の覚めるような断行力」を学び直す必要があるように思えてなりません。この続きはまた機会があればご紹介したいと思います。