本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

中世の城塞物語―《シャトー・ド・ファルグ》を中心に


ファルグ枢機卿

 《シャトー・ド・ファルグ》の城塞を見て、またまた生来の好奇心に火が付き、中世のヨーロッパの城について調べてみたい気になりました。 それは、《シャトー・ド・ファルグ》の中庭に立って、風雨に晒された城壁や塔、今や消えてしまった建物の間を当時の人々が ― 領主、奥方、騎士、弓兵、客人、葡萄栽培者、召使、荷馬車の御者、馬、それに鷹や狩猟犬、牛や豚や鶏も ― 行き交う様を思い浮かべながら、騒々しく、物騒で、それほど心地良かったとはいえないまでも、それでも堪らなくロマンをかき立てる、魅力溢れる中世の城の暮らしを垣間見たくなったのであります。今となっては時すでに遅しですが、リュル・サリュース伯爵からもう少し城塞の由来等をお聞きしておけばよかったと只々悔やまれます。
 これから私の勝手な推測を含めて物語っていきたいと思います。《シャトー・ド・ファルグ》の城塞(Forteresse)は前回述べました通り、14世紀初めのローマ教皇であったクレメンス5世(1264-1314、ローマ教皇在位1305-1314)の甥、レイモン・ギレーム・ド・ファルグ枢機卿によって、1306年に創建されました。
 先ずは当時の時代背景から見てまいりましょう。《シャトー・ド・ファルグ》が生まれた14世紀というのはボルドーにとって正に大変な時代であったことが分かります。それはボルドーの運命を大きく左右した3つの大事件が起こったからです。
 第1の事件とは「英仏百年戦争」です。1337年に始まり、一時的な中断を経て、1453年にやっと終わりました。その原因は、かのアリエノール王妃がルイ7世と離婚し、イングランド王のヘンリー2世(在位1154-1189)と再婚したことに遡ります。このことでワイン貿易問題、なかんずく領有問題で、フランスはノルマンディー地方とアキテーヌ地方(ギュイエンヌとも呼ばれます。ボルドーはその一都市)を失うという大打撃を受けることになりました。カペー朝が絶え、傍系のヴァロワ朝のフリップ6世(在位1328-1350)が即位すると、イングランドのエドワード3世(プランタジネット家第7代国王、在位1327-77)は、母后がフランス王フィリップ4世端麗王(在位1285-1314)の娘であったことからカペー朝相続の権利を主張して、1337年にフランス王に挑戦状を送り、翌年にはこれを口実にノルマンディー地方に上陸しました。これが「英仏百年戦争」の始まりでした。 序盤は圧倒的なイングランドの優勢で進みました。ポワティエの戦い(1359)、クレーシーの戦い(1364)、を勝利に導き、この快進撃の立役者となったのが黒太子エドワード(黒い甲冑を着用していたことからこう呼ばれました。エドワード3世の長男。在位1330-1376)です。フランスは国土の半ばを占領され、いよいよ国家存亡の危機に見舞われ、もしオルレアンの攻防(1428-1429)に敗退すれば、もう対局が決するという場面に突如として現れたのが、あの救世主ジャンヌ・ダルク(1412-1431)であったのです。お蔭で憎きイングランドを放逐し、フランスは祖国防衛の輝かしい勝利を収めることができました。
 中世ヨーロッパ、それも「英仏百年戦争」が新しい潮流をもたらす以前は、国の感覚など稀薄であり、むしろ家や領地の感覚の方が優先にしていた時代でした。中世ヨーロッパの主役は長らく、フランス王でもイングランド王でもなかったのです。イタリアのローマ教皇と、ドイツのローマ皇帝(神聖ローマ皇帝)こそが、舞台中央の主役の座を占めておりました。人々は小さな家にしがみつき、領地を必死に守りながら、同時に教皇を頂点とするキリスト教の共和国、皇帝を頂点とする世界帝国、つまりはヨーロッパという、一層大きな空間を強く意識していた時代であったと考えるのが妥当であろうと思います。その一方の雄であるローマ教皇の座がフランス枢機卿に奪われるという事態が生じたのです。
 つまり、第2の事件とは、フランスのアキテーヌ出身で、ボルドーの大司教であったベルトラン・ド・ゴが、 ローマ教皇の地位に就き、新教皇はボルドーのサン・タンドレ大聖堂で「クレメンス」という名前を選び、1305年6月5日に第195代ローマ教皇クレメンス5世(在位1306-1314)として、正式にローマ教皇に選出されたことでした。そしてフィリップ4世(在位1285-1314)の要請を受け、1308年には教皇庁が南フランスのアヴィニョンに移され、1309年にクレメンス5世はアヴィニョンに座所を定めたのです。これが古代のバビロン捕囚になぞらえ、「教皇のバビロン捕囚」と呼ばれた大事件でした。このアヴィニョン捕囚期には多くのフランス人枢機卿が任命されました。その一人が、《シャトー・ド・ファルグ》を創建したレイモン・ギレーム・ド・ファルグ枢機卿その人でした。
 第3の事件は、イングランド王エドワード3世が、その長男エドワード・オブ・ウドストク(前述の黒太子)のために、1362年にアキテーヌ大公国という領地を創設したことです。黒太子は、その政治的経歴の絶頂期にボルドーを一つの国の首都にしたのです。
 14世紀はこのような時代背景の中で動いていきました。この時代はボルドーにとって正に激動期の真っ只中にあったのです。
 本来の城塞の話に入ります。 《シャトー・ド・ファルグ》の城塞は、東西に長々と伸びる長方形の大きな建造物であり、銃眼を設けた城壁は三つの多角形の小塔と一つの大きな長方形の主塔で支えられています。使われている石材は灰色の石灰岩と思われます。今見ると荒々しい石のむき出しになっていますが、中世の頃の城塞においては全くそのようなことはなく、あまり念入りにつくられたようには見えない外壁も、当時はきれいな漆喰で塗られていたといいます。封建権力の中枢を意味する主塔(大きな塔)は「ドンジョン((仏)Donjon,(羅)Dominiumが語源)」と呼ばれました。主塔は、領主と領主をとりまく人々の間に新たな権力関係を確立するうえで、大きな役割を果たしたのです。私はこの壮大な<シャトー・ド・ファルグ>の城塞を間近で見上げた時、その存在感に只々圧倒されてしまいました。
 城塞内に一歩入りますと、中庭(クール、Cour)が現れます。中庭は全部で三か所あったようです。 城塞内には大広間や居室等いろいろな部屋があったのでしょうが、1687年5月24日から25日にかけての火災のため400年近くも営々と維持されてきた城塞内部はあえなく焼失してしまい、今や床も屋根もなく、上階も殆どが消失して外郭しか残っていない廃墟と化してしまっています。でも前回述べましたように、伯爵とオルレアン公のご案内により主塔に残された威厳のある大螺旋階段を上ると、大きな石づくりの暖炉が昔のままの形を留めており、ここには確かに住居としての痕跡が色濃く残されていて往時を偲ぶことができます。何故このような堂々たる城塞内部が戦火ではなく、一夜の火災のために殆ど焼失してしまったのでしょうか。疑問が残ります。これは当時石壁の内側に、あるいは主塔の中に居館を設ける様式で、居館はたいていが木造であったのではと推察されますが、残念ながらこの点について伯爵に確かめることはできませんでした。城塞は、その中心である大広間(2階にあったと想定されます)にはじまり、私的な居室、礼拝堂、中庭(クール)、大螺旋階段に至るまで、何よりもまず領主の居住であり、領主が日常生活を営む空間であったことが想像できます。
 このように中世の城を理解するためには、 その軍事的性格だけを見ていては片手落ちになります。当時書かれた物語や年代記を読むと、軍事的性格だけが城のイメージを支配していたわけではないことがよく分かります。城館の暮らしの日用の品々は、軍事的権力を示す事物と同じ位の重要性をもっていたのです。何故なら城の暮らしは、戦争よりも平和な時間の方がはるかに長かったからです。城は戦争の際に使われる砦としての役割よりも、むしろ本来は平時の行政・司法の中心地として大きな役割を果たしてきたのです。それでも、堅固な城塞の《シャトー・ド・ファルグ》は、フランスの「宗教戦争」(「ユグノー戦争」と思われます。1562-1598)や「フロンドの乱」(1648-1653)の戦時には、軍事的役割はもとより領民の避難所としての役割も果たしてきたそうです。
 さて、どのような時でも、行政権と司法権を行使するためには、ある程度の広さを備えた公的な空間が欠かせません。いつの時代も領主たちは、人々に自らの権力を認めさせるための、裁判や儀式、祝典などを行う場所を必要としました。すでに封建制の初期の頃から、城の中に領主が食事をとり、裁判を行い、会議を開く大広間が存在していました。食事が終わると、テーブルは片づけられ、必要な場合には裁判のための座席が準備されました。 夜になると、娯楽のための台が置かれ、その後その台もしまわれ、重要な滞在客のためのベッドが用意されました。このようにひとつの大広間を用途に応じて臨機応変に使う様子は、ありとあらゆる中世の物語の中で描かれています。大広間はまさしく領主たちの生活の場であり、行政や司法の中心であると同時に、人々をもてなす空間でもあったのです。城の公的象徴性としての大広間は、時代と領主の社会的地位に応じてその役割は変化していきましたが、大広間の広さこそは領主の身分を示す一番確かなしるしでありました。《シャトー・ド・ファルグ》の創建者は枢機卿であったので、大広間をはじめ居室や書斎や中庭、そしてワインや香辛料や必要な食糧の貯蔵室の他に、勿論、立派な礼拝堂が備わっていたはずです。そしてその後を継いだリュル・サリュース家は武勲で爵位を得た家柄ですので、軍事的象徴としての塔や城壁には弓や石弓(機械仕掛けの大型な弓)などを射るための矢狭間(やざま)という穴があけられています。矢狭間は15世紀になると火器を発射するための銃眼へと移行していきました。石落しもあったことでしょう。
 城塞自体は本質的に地味で荒々しいものですが、冷ややかな顔に浮かぶ微笑みのように、 その極めて厳格な姿の中にも親しみを見出すことができます。リュル・サリュース家代々の領主の住居の残骸、目のない眼窩のように単なる窓が、あちこちの壁の中に残されています。そして中世の荒々しくも好感のもてる光景がそこに浮かび上がってまいります。リュル・サリュース家が1472年~1687年まで6代に亘って住んだ《ファルグ城》は、ファルグの丘の砦として生まれ、厚い城壁に囲まれた堅固な城塞へと成長し、火災で居館が焼失し、やがて廃墟となって時代に取り残されていくという大きな歴史の流れの中で、今日なお《ファルグ城》はその美しい姿をとどめております。フランス人の歴史的建造物ないしその廃墟に対する考え方は、そのまま保存するか、徹底的に建て直すか、どちらかだといいます。果たしてリュル・サリュース伯爵は最終的にどのような城塞修復の構想を描いているのでしょうか。ますます興味が湧いてまいります。
 最後に中世のワイン事情ついてちょっと触れてみます。中世前期全体を通して、ワインは聖務や客人の歓待ばかりでなく文化の点からも神聖な飲物でありました。食事や快楽のためにワインを日常的に飲むことは、高度に洗練された豊かな状態と同時に、健康に対する配慮を象徴していました。ワインの追及には快楽と感動、さらには知と富と権力の肯定、多少とも見栄を張りたいという願望が入り混じるものです。客人を迎える時に、領主は鷹揚なところを示さなければならいこともあったでしょう。相手が滞在している間ぐらいは良いワインを出すということが、修道院だけでなく在俗の領主の居城でも、敬意と尊重の証となりました。さらに下ると、ワインは民主化されると同時に、全ての文化的創造物と同様、階級分化されていきます。中世後期になると、葡萄をつくる農民や都市周辺住民は、凡庸で安価なワインを大量に生産するようになり、それによってヨーロッパ南西部全体にワインの日常的消費の道が開かれていったのです。
 そして、ヨーロッパの封建制の屋台骨が安定化しますと、大陸南部のあらゆる城は《シャトー・ド・ファルグ》同様に葡萄の樹を集め、ワイン生産の核と化していきました。ワインの品質と評判は、領主、国王、皇帝らの権力と富をはかる基準となっていきます。15世紀ベリー公の所領だったソミュール(ロワール地方)の城下で行われた葡萄の収穫を描いた絵は、『いとも豪華なる時禱書』の中にあって大変有名ですが、この絵は葡萄と城が隣りあわなければならない必然性を見事に象徴しているように思われます。
 ところで余談ですが、中世の城塞を調べている時に、『バスティード』(中世に出現した南西フランスの一群の都市集落)という研究書の執筆者の一人に、ボルドーで知り合った、当時ボルドー第3大学大学院に留学されていた若き研究者の名前が目に留まりました。現在、彼は某有名大学の文学部准教授(ヨーロッパ中世史)になっておりました。いつか機会があればお会いして、「フランスの中世と城」について教えを乞おうと楽しみにしております。本とはありがたいことに、知識だけでなく、こういう出会いの場も提供してくれるのです。
 3月に訪れた《シャトー・ド・ファルグ》の興奮いまだ醒めやらず、門外漢の私が恐れ多くも、つい中世の城塞のさわりまで物語ってしまいました。フランス中世が残した、歴史的建造物に指定されている、この《ファルグ城》の荒々しくも美しい城塞に接した喜びを皆様に少しでもお伝えできましたなら幸いであります。
 《シャトー・ド・ファルグ》の一刻も早い修復の完成が待ち望まれます。そして、そこでマエストロ・オザワの指揮のもと、繊細な優雅さと脆い美しさをそなえた名器ストラディバリウスの妙なる音色が奏でられることを夢見ております。
 次回は今春訪れたボルドー・メドックの有名な<シャトー・マルゴー>、<シャトー・コス・デストゥルネル>そして<シャトー・ランシュ・バージュ>について語ってみたいと思います。

 追って、リュル・サリュース伯爵から6月21日に<シャトー・ド・ファルグ>の晩餐会で催された《Lumière et Musique― 光と音楽》のスペクタクルの写真が、開催された翌日にその時の様子を綴ったメールと共に送られてきました。当日は雨のようでしたが、幸いスペクタクルが始まる頃には止んだそうです。当日の招待客は、いろいろな光の模様や文字が彩る壮大な城塞のファサードをバックに音楽が奏でられるという、正に非日常の幻想的な雰囲気に暫し酔いしれたことでしょう。折角、このようなステキな晩餐会にお招きいただいたのに参加できなくて誠に残念でした。
 城塞の大広間が完成した暁にはパーティを催しますので、その時は是非出席くださいとのうれしいお言葉が添えられておりました。ストラディバリウスの天使の音色を聴くことができるのでしょうか。リュル・サリュース伯爵のワインづくりと共に夢の集大成である《ファルグ城》の修復された姿を拝見できますことを今から楽しみにしています。