本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

シャトー訪問記(その30)


<Château Margaux(シャトー・マルゴー)>

 《シャトー・ド・ファルグ》で夢のような至福の一時を過ごした後に、ボルドーの空はまだ明るかったので、懐かしいボルドー大学に立寄ることにしました。 ボルドー第3大学付属フランス語学校は、私が通っていた当時の瀟洒な佇まいのままであり、中に入るとまだ数人の学生がホールで談笑していました。ここは世界各国からフランス語を学びに来ている若者たちでいっぱいで、休憩時間になるとホールには各国の言語が飛び交い正に人種の坩堝の様相を呈していました。目の前にあった学生食堂も懐かしい。昼になると長い列に並んで待ったものです。大きなキャンパスのボルドー第3大学を散策してから、少し離れたところにあるボルドー第2大学醸造学部に向かいました。ここは本来ボルドー第1大学のキャンパスでありますが、どういうわけか第2大学では醸造学部だけがここにありました。理工学部や研究所群があったためか、他のキャンパスと違って立派な正門があり、周りには塀が廻らされております。残念なことに醸造学部は工事中で中に入ることができませんでしたが、校舎を眺めていると走馬灯のように懐かしい想いが次々に甦ってきます。ここで私は学生として還暦を迎えたのだなと思うと感慨深いものがあります。定年前に会社を辞し、ワインのメッカ、ボルドー第2大学醸造学部に留学したのは、私の長い平坦な人生の中で初めての大きな試みであり、大きな夢でもありました。あの時思い切って実行して良かったと今でも思っています。ラテン語の『寸鉄詩』(アウソニウス著)の中の一言、“INCIPE(インキペ、まず着手せよ!)”の気持ちでした。ボルドーの地で若い優秀な若者たちにたくさん巡り会うこともできたし、会社生活では味わえなかったいろいろな面白い体験もできました。そして今回リュル・サリュース伯爵にお会いできたのもボルドーで学んできたからこそ実現できたものと思っております。ただ、願わくば若い時に留学していたら、もっと面白い世界が広がったのではと思いますが、今となっては詮無いことです。
 ホテル「ブルディガラ」に戻ると、留学時代の友人のSさんが奥様とお子さんとご一緒に会いにきてくださいました。彼はワインの本場ボルドーで立派にネゴシアン(ワイン商)としての確たる地位を築き、今や「ボルドー日本人会」の重鎮として活躍しております。Sさんとは日本に帰国された時に東京で一度だけお会いしたことがありますが、奥様とはコニャック地方を旅して以来9年振りの再会となりうれしかったです。ご子息とは初めてお会いしましたが、利発そうで実に可愛いお子さんでした。ホテルのバーでボルドー名産のリレ(LILLET)を飲みながら歓談しましたが、その間静かに一人で遊んでいました。大人たちの交わりにも、ちゃんとしたフランス流の躾ができているのに感心しました。Sさんの語るボルドー・ワインに纏わる話はどれも興味深く、特にネゴシアンしか知りえないシャトーの内幕に至っては滅多に聞けない正に秘話でした。奥様がキロスさんと顔見知りであったことも吃驚しました。世の中は狭いです。アッという間に時間が過ぎ、レストランのディナーの予約時間はとうに過ぎてしまいました。レストランに場所を移して話の続きをと誘ったのですが、お子さんもいたことから遠慮されたのでしょうか、残念ながらホテルでお別れすることになりました。いつまでもご家族揃ってお元気で、ボルドーの地でご活躍されますことを祈念しています。
 キロスさんの運転で、美しいピエール橋(ナポレオン1世の命により1822年に完成)を渡り、 ガロンヌの川床に建つレストラン「レスタカード(l'Estacade)」に着きました。車を降りると、川から吹く風が冷たく何しろ寒い夜でした。日本で予約しておいたので、対岸の美しい夜景が見渡せる窓側のいい席を取っておいてくれました。ここはシーフードが美味しい店で、早速にアルカション産の生牡蠣とシャンパンで乾杯し、美味なる魚介料理とグラーヴ地区の銘酒シャトー・ド・フューザルのセカンド、<ラベイユ・ド・フューザル2008年>(ナポレオン1世が皇帝になる前のミツバチ(ラベイユ、l'Abeille)の紋章の入ったラベル)とのマリアージュを堪能しました。こうして思い出に残る楽しいボルドーの2日目は瞬く間に過ぎていきました。
 ボルドー3日目は、待望のメドック地区にある有名な<シャトー・マルゴー>、<シャトー・コス・デストゥルネル>そして<シャトー・ランシュ・バージュ>の3つのシャトーを訪問します。実は、シャトー・ラフィット・ロートシルトも訪問したかったのですが、生憎工事中ということで諦めました。
 さあ、これから1855年格付け第1級の銘酒中の銘酒、ボルドーの誇る<シャトー・マルゴー>へご案内いたしましょう。予約は10時でしたので、ホテルを9時前に出発して、いざボルドー・メドック地区の銘酒街道に向けひた走ります。10時前に無事到着しました。このシャトーは何度訪れたことか。でも、ここはコネがないと訪問できませんので、シャトー内に入るのは今回初めてです。神田神保町でボルドー・ワインの輸入専門商社を経営しているボルドー留学時代の友が全てアレンジしてくれました。その日は太陽が時折顔を覗かせますが、何しろ寒い。街道沿いの大きな温度計を見ると零下2度を指していました。体感温度はもっと寒く感じたほどでした。
 プラタナスの並木道の奥深くに鎮座している<シャトー・マルゴー>の美しさは何度見ても格別です。パラディオ式ファサードの大理石の円柱が朝日を浴びて美しく輝き、優美で、貴族的な佇まいを見せています。森の妖精たちの棲家のようでもありました。早速、可愛らしいお嬢様が出迎えてくださり、1時間ほどシャトー内を案内していただきました。
 先ずは、いろいろなエピソードに彩られたシャトーの歴史から入ってまいりましょう。このシャトーの起源は遠く12世紀まで遡ることができます。その当時はラ・モット・ド・マルゴーと呼ばれていました。それが今日の姿を想像できるまでになったのは、16世紀末にレストナック家が所有してからです。18世紀初めには、<シャトー・マルゴー>は今日と同じ262ヘクタール(その3分の1が葡萄畑)の広大な土地を所有していたといいますから、この頃には既に<シャトー・マルゴー>としての名声が確立していたものと思われます。
 <シャトー・マルゴー>はフランス革命の渦中に差し押さえられ、1802年にド・ラ・コロニヤ侯爵の所有となり、1815年には名建築家ルイ・コンブに依頼して今日の壮麗な城館が完成しました。その後フランス革命を機に所有者が流転しながらも1855年には第1級の格付けが与えられ、しかも、そのほぼ100年後の1950年に所有権を得たのが、ボルドーきっての名ネゴシアンとして遍く知られていたジネステ家でありました。 しかし、<シャトー・マルゴー>に有りうべからざる一大事が生じたのです。それは1960年代と70年代の多くのヴィンテージが隣人の格付け第3級のシャトー・パルメより劣っているとの厳しい評価をされたからです。ジネステ家による<シャトー・マルゴー>の破滅のプロセスは、ワインづくりへの情熱の喪失となって現れたものの、様々な問題を抱えた挙句の結末であったのでしょう。一言では語り尽くせぬことがあったに違いありません。そして、ついにジネステ家はシャトーを手放さざるを得なくなり、1977年にギリシャ出身の実業家アンドレ・メンツェロプーロスに売却しました。彼はメドック始まって以来といわれる多額の投資と、ボルドー第2大学の高名なエミール・ペイノー教授を醸造コンサルタントとして招くことによって、<シャトー・マルゴー>を瞬く間に甦えらせました。1978年は素晴らしい出来となり、それ以降も第1級に相応しい高い質を維持し続け今日に至っております。1980年にアンドレ・メンツェプーロスが亡くなってからは、彼の娘のコリーヌが単独所有者となって現在も栄光の道をひた走っております。
 ルイ15世(1710-1774)の時代から歴史に名を残すワインであった<シャトー・マルゴー>。 この時にボルドーの逸品がフランス宮廷の華になり始めます。その大物ぶりは、好んで口にした人物のキラ星のような輝きの中にも垣間見ることができます。なかでも、ルイ15世の公妾としてポンパドゥール侯爵夫人の後釜についたデュ・バリー伯爵夫人の愛したワインが<シャトー・マルゴー>だったのです。デュ・バリー夫人の目に留まったというよりか、シャトー・ラフィットを愛したポンパドゥール夫人への対抗意識が多分にあったのかもしれません。いずれにしても絢爛豪華な宮廷の中で、銘酒<シャトー・マルゴー>は栄光の舞台にその晴れ姿を見せ、確固たる地位を築いていったのです。ナポレオン3世が1870年に退位した時、宮殿のカーヴには<シャトー・マルゴー>の1858年ものが、テュイルリー宮殿に3,356本、フォンテーヌブロー宮殿に3,398本、コンピエーニュ宮殿に1,671本が残されていたといいます。
 これまでシャトーの歴史を徒然なるままに書き綴ってきましたが、最後に現代の傑物たちが<シャトー・マルゴー>に如何に魅せられてきたかをいくつかご紹介しておきましょう。公私に亘ってマルクスを支えた社会学者エンゲルスは、「あなたにとって幸福とは?」という問いに、「シャトー・マルゴー1848年」と直ちに答えた話は有名です。


 文豪にして酒豪でもあったヘミングウェイは、孫娘に「このワインのように女性らしく魅力的に育つように」とマーゴ(Margauxの英語読み)と名付けたほどの溺愛ぶりは広く世に知られています。彼女がのちに女優となったのは、<シャトー・マルゴー>のご利益(りやく)が多少なりともあったのかもしれません。第2次大戦後、アメリカのマーシャル・プランによる援助の第一船がフランスに着いた時、フランス政府はパリから特別列車を仕立てて、このミッションの要人たちを歓待するために選んだ先が<シャトー・マルゴー>でした。さぞ感激されたことでありましょう。また、仇敵ドイツへの憎しみも薄れ、西ドイツ(当時)のアデナウアー首相が大戦後初めて公賓としてフランスを訪問できるようになった時、最初に発した言葉は、「シャトー・マルゴーに立ち寄らせていただけないか?」ということでした。この首相の言葉は、何よりもフランス人の心をくすぐり、和らげるものでした。首相が大歓待をうけたことはいうまでもありません。
 そして、パリの有名なレストラン「タイユヴァン」にギョロ眼で威圧感のある一人の名優がやってきたのは、1954年のことでした。190センチの巨体と太い指に似合わず、スマートな身のこなしで次々に料理を平らげ、時々かすれた声で味を褒めては、こまめにナプキンで口のまわりを拭き、ワイン・グラスに汚れがつかないように気配りをみせたこの人物こそは、映画界きっての知識人として知られたオーソン・ウェルズでした。彼が魅せられたのは<シャトー・マルゴー1900年>でした。この年はひときわ可憐清楚な味わいを秘めた当り年でした。ボルドーの女王を飲むオーソン・ウェルズ、それは正に美女と野獣のイメージをかき立てる一場面であったことでしょう。
 1966年には映画界に不滅の灯をともした77歳のチャーリー・チャップリンが、「タイユヴァン」にやって来ました。そして、「私より少しばかり若いところがいい」と、<シャトー・マルゴー1893年>を所望したといいます。それにしても77歳のチャップリンが飲んだ73歳の<シャトー・マルゴー>は、どんな味だったのでしょうか。1893年のボルドーは風味豊かな極上ワインがつくられた偉大な年で、飲み頃は20年後とされていましたので、その<シャトー・マルゴー>は、爛熟期をやや過ぎ、スミレのようなブケを漂わせながら、落花しきりの風情があっただろうと想像されます。
 ここまで書いたところで紙数が尽きてしまいました。<シャトー・マルゴー>の続きは次回に回すことにします。
 


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