本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
スペインの旅(ブルゴス)
![]() <サンタ・マリア・ブルゴス大聖堂> |
|||
私たちは高速道路を快適に走り、所々のサービス・エリアでコーヒーを飲んだりしながら目的地ブルゴスへ向かいます。ブルゴスへ着く頃には、もう日は暮れつつありました。このブルゴスにある大聖堂は、キロスさんがお母様から私ども夫婦を案内して必ず立ち寄ってみるようにと言われていたところだそうです。海抜900メートルの高地にある街は光に浮かび上がり実に美しいのですが、冷たい風が吹きまくり、何ともはや耐え難いほどの寒さです。夏は聖サンティアゴの日(7月25日)と聖アナの日(7月26日)の2日しかないといわれているほどですから、この性悪な気候がスペインの運命のひとつを決定したのも頷けるような気がします。
![]() ![]() そして、チャールトン・ヘストン(エル・シッド)とソフィア・ローレン(ヒメーナ)の演じた「エル・シッド」(1961年制作)のスクリーンを通して、世界中の多くの人々に知れ渡ったのです。この映画は伝記作家ラモン・メネンデス・ピダールの代表作『エル・シッドのスペイン』(1929年)に基づき制作されました。この本はエル・シッドの時代だけでなく、スペイン中世全体、またスペイン、ヨーロッパ、キリスト教世界の歴史におけるその意義についての見方を形成するのに大きな影響を与えたともいわれております。 ![]() そして、スペインにとって一層非道な運命となって襲いかかってきたのは、この美貌の若者の突然の死によって、28歳の女王ファナまでが気が狂ってしまったことです。ここからファナの悲劇が始まるのです。いや、既に始まっていたといっていいかもしれません。愛による狂気、というのは確かに存在します。愛で正気を失ったものは、辛くともその境遇を享受しているのだから、時には狂気は快楽であるといわれるかもしれません。しかし逆に、女王ファナは不幸のどん底にありました。澱まで苦杯を飲み干したこの現世は、彼女にとっては究極の憂き世であったのです。このファナの運命を考えるにつけ、対照として想い浮かべるのは、シェークスピアの戯曲『ハムレット』の中のオフィーリアのことです。オフィーリアはハムレットに恋して狂い、水死してしまうのですが、ファナは美麗王フェリペだけでなく嫁ぎ先のフランドルの文明にも狂ってしまったのではないかと思うのです。 ![]() 遡って1469年、カスティーリア女王イサベル1世(1451-1504)とアラゴン国王フェルナンド2世(1452-1516)の結婚によってスペイン統一が実現し、カスティーリア・アラゴン連合王国(スペイン王国)が成立しました。地方には秩序と平和が、都市には繁栄がもたらされました。そして両王はイスラム教徒最後の砦グラナダを陥落させ、モーロ人のイベリア半島領有についに終止符を打ったのです。これによりヨーロッパ全土が安堵の息をつき、真の信仰のために征服を行うという時代の気運に乗って、豊かな資源の眠る広大なアフリカ大陸に目が向けられるようになります。一方、大西洋では、イサベル女王自身の女の直感が功を奏し、夢想家のジェノバ人コロンブスが新大陸を発見し、莫大な富をスペインにもたらすことになりました。
このゴシック風な町の中心、ブルゴス大聖堂からほど遠からぬところにカサ・デル・コルドン(Casa del Cordón)と名付けられた城館があります。今回は残念ながら行けませんでしたが、この城館こそはフェリペが亡くなり、ファナが発狂したところです。そうして悪いことに、この狂った女王に、ある修道僧が今に必ず王は復活されます、と吹き込んだのです。そのために、ファナはそれ以降片時もフェリペの棺を身辺から離さず、随所にその蓋を開けさせ、中を覗き込むという不気味な習慣がついてしまいました。しかし死者は死者であり、その遺骸はファナの母、イサベル女王の眠るグラナダへと最終的に送られる決まりになっていて、ここから狂女王ファナと美麗王の遺骸を納めた棺とカスティーリア王室の廷臣たちの彷徨が始まったのです。棺を載せた馬車がおそらく先に立ち、四頭の馬に引かせた黒い馬車(現在マドリードの王宮付属の馬車博物館にあります)が続き、その葬列はのろのろとカスティーリアの荒野を日がな一日彷徨って行く・・・。この一木一草もないところの多い高原の秋、冬は、霧、雨、雪、泥濘に轍がはまり込み、ピレネーおろしの寒風が吹きすさび、それは耐え難いところであったことでしょう。かくてこの黒い馬車と棺の一行は、秋、冬の、一転して日の短くなった野と丘を彷徨することになりました。しかもファナはお腹に亡き夫の6人目の子を孕んでいます。馬車を止めては、その野原の真ん中で、棺を開けさせる。それは正に鬼気迫るものがあったでありましょう。この彷徨が3年近くも続いたのであります。 ![]() 而して後、カスティーリアのドゥエロ川の畔にある丘の小さな町、トルデシーリャスのサンタ・クララ修道院に隣接した城館へと連れ出されたファナは、その後46年間もここに幽閉されたのです。46年間といえば、それは半世紀に近い気の遠くなるような長さであります。その間も、公式にはファナがカスティーリアの女王(イサベル女王の死後、王位を継ぐべき長女、長男が早逝したため)であったことには変わりはなかったのです。しかもこの間はスペイン国の名は世界史上で最も高らかに轟きわたっていた時でもありました。父親のアラゴン王フェルナンドとファナの長男のカルロス5世の双方にとってトルデシーリャスの城館に46年間も閉じ込めておいたのは、父親も息子も、互いに抗争をしながらも、カスティーリアの地を専断するためにはファナを“ラ・ロカ(狂女)”ということにして閉じ込めておくことが利にかなったのでありましょう。ファナが長い暗黒の生涯を全うし終えたのは1555年4月のことでした(享年75歳)。人間の為すことの浅ましさというものも底なしであって、このくらいのことは当時各国の王室にとっては殆ど日常茶飯のことであったといいますから、ヨハン・ホイジンガが「中世の秋」で描き出してくれた栄華そのものとは、誠に際立って対照をなす残酷無比なスペインの宮廷世界であったのです。 ブルゴスの城館はまた、コロンブスが2回目の航行から帰ってきて、ここでイサベル女王にその報告をしたところでもありました。この2回目の航海の時にコロンブスはカディス港(アンダルシア州)に上陸しましたが、彼はそこから900キロも馬か馬車かで遥々ブルゴスまでやって来たのです。そしてもうひとつ付け加えれば、このブルゴスはかつて内戦時にフランコの総司令部が置かれたところでもありました。 今、以上のような数々の出来事を断片的ではありますが書き終えて思うことは、教師を長年務められ歴史に詳しいキロスさんのお母様が、この地ブルゴスを必ず訪ねるように言われた意味がよく分かるような気がしてまいりました。 さて、このような数奇な歴史を有するブルゴスの町を出て、私たちは一路キロスさんの故郷マドリードへと向かいます。果たして今日中に到着できますかどうか。 | |||
![]() |
|||
|
![]() |