本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
マドリードの旅(1)
![]() ゲルニカ(Gernika,Guernica,パブロ・ピカソ作) |
さて、今回からは数回に亘りマドリードをご案内することにいたします。
私たちは街の中心部にある「カスティーリア・プラザ・ホテル」に夜中の到着となってしまいましたが、荷物をおろし、ぐっすり休んで旅の疲れをとることができました。ホテルでの朝食(ビュッフェ・スタイルの朝食が美味い!このホテルでの快適な様子は後ほどお話しいたします)を済ませロビーで待っていると、間もなくキロスさんが迎えにこられて、いよいよマドリードでの行動を開始しました。自然と気持ちが昂ってきます。私たちはマドリードの探訪に敢えて車を使わずに、バスと地下鉄を利用して、足でもって歩き回ることにしました。 ![]() 外国を知るということは、そこから知識を学びとるばかりではなく、何よりもまず、このように土地の景観、空気の匂い、水の味等を自分の眼と耳と鼻と口で確かめ、自分の足で稼いで歩き回ることから始まるはずです。17世紀のフランスの哲学者デカルトが、「確かに風景こそは生きた書物であり、土地の風物を味わったり体験したりすること以上に効果的な勉強方法はない」(『方法叙説』)と述べていることに納得がいきます。ただ、それはその土地に実際に生活してみてはじめて分かることであり、数日間のみの滞在で果たして本質が分かるかはちょっと疑問ですが、兎も角、あるがままに素直に感じ取っていきたいと思います。スペインの歴史も、歴史というものは読むものではなくて見るものであることを、ここスペインに来て改めて教えられたような気がします。 前回述べました通り、首都マドリードは、元来1,000人ほどの住民がいるだけのカスティーリア地方の寒村にすぎませんでした。 ![]() 「スペインがヨーロッパの異端児としての魅力を失ってもらいたくない」と、あるスペイン語学者が何処かで述べていたように記憶していますが、スペインにおける何がヨーロッパの異端であるかということは、首都のマドリードで数日間過ごしていても、無論分かりようもありません。街路の両側に現代的な高層建築物が建ち並んでいて、地下鉄等の交通機関が発達しているといった東京と変わらない近代都市で、この街を歩いている限り、「ヨーロッパの異端児」という実感はなかなか湧いてきません。ただ、スペインを「世界の美術館」と呼ぶ人がいるように、スペイン国王は美術品の蒐集に財を惜しげもなく使ったことです。マドリードはヨーロッパの都市の中で美術館と博物館が最も多いといわれ、収蔵されている絵画のコレクションは質量ともに世界一です。その象徴がプラド美術館です。絵画の天才、エル・グレコ、ベラスケス、ゴヤ、ピカソ、ミロ、ダリ等を生みつづけたこの国の偉大さは、既に国力の衰えきった19世紀になって、スペイン国王が大掛かりな美術館の建設を思いたち、私たちにすばらしい街並みと美術品を残してくれたことでしょう。そしてまた、彼らの画家としての独自性というか特異性は、何よりもスペイン的で、異端といってもいいのではないかと思います。プラド美術館の他に、ソフィア王妃芸術センター、ティッセン・ボルネミッサ美術館等、絵画に関する限り、この首都のもつ重さは東京などに比べものになりません。 ![]() ここでのジョアン・ミロの作品群には久し振りに心惹かれるものがありました。真っ白でやや暗い、古い構造を残すどっしりとした石造建築の中で見るミロの鮮やかな色彩と形体には、その表現力の強さ激しさに強く印象づけられました。 ![]() ミロについてもう少し語ってみたいと思います。ミロはもともと厳密な意味でスペインの画家ではないともいえます。バルセロナ近郊で生まれた生粋のカタルーニャ人であったが、フランコ独裁下には長く異端扱いを受け、カタルーニャ語でジョアン(カスティーリャ語ではホアン)と発音することもままならなかったのです。カタルーニャは久しくスペインからの独立を求めてきた地方で、中央とは違う意識を持った人々の集まりであったため、バスク語同様にカタルーニャ語も話すことを禁じられていました。ミロもまた非スペイン人の自覚をもって生きてきたと考えられます。ミロは生涯を通じて何かを探しつづけ,求めつづけた画家のように思えてきます。ミロの作品に宿る自由は、事実、自由を求めることの自由と無関係ではなかったのです。そんなミロの絵のイメージがマドリードのあちこちに領していることに不思議な感慨を覚えました。「子供のように単純で、無邪気ではある」、だが実態は「底知れぬ自由さ」をたたえ、旧カトリック病院の薄暗い白い壁をも一挙に光り輝かす「魔術師のような」エネルギーに満ちていたのであります。 ![]() ![]() 1937年4月26日、その日はゲルニカに市の立つ日でありました。小さな町もいつになく賑わっておりました。午後4時30分、フランコ政権を支持したヒットラーの命令によりドイツ空軍が突然無差別爆撃を行ったのです。ゲルニカの古樫は無傷でありましたが、無防備であった街は3時間に及ぶ爆撃によって殆ど壊滅してしまいました。この無差別爆撃の報道は即刻全世界に発信されました。ピカソはこの惨劇の報道を目にして憤慨し、「ゲルニカ」の制作を始めたのです。発表の場が、先述した通りパリ万国博覧会であったから、この作品は一層センセーショナルに注目を浴びることになりました。絵画がイデオロギーをもった始まりであり、これによって人々は20世紀の新たな芸術の役割を認知することになったのです。「ゲルニカ」を更に有名にしたのは、それ以降、この絵画が故国に帰ることができず、旅をしつづけたことにあります。北欧やイギリスでの巡回展を経て、ニューヨークの近代美術館に展示され、 ![]() 最後に、ピカソと同時代を生きた『嘔吐』等の著者の哲学者サルトルの話をご紹介して、この章を終わりたいと思います。第二次世界大戦中に、ドイツ軍がパリを占領した時、あるドイツ人の将校がピカソのアトリエを訪れて、ピカソにこう言いました。「お前があの『ゲルニカ』(などという怪しからぬ絵)を描いたのか?」、ピカソは「描いたのはおれだが、(ゲルニカ爆撃を)やったのは、お前たちだ!」と。この挿話が被占領下のパリ市民をどれだけ元気づけたか、計り知れぬものがあったと実存主義者サルトルは回想するのです。 |
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