本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

ピカソの版画


ミノタウロマキア(Minotauromachia,パブロ・ピカソ作)
 前回、ピカソの描いた世紀の大傑作「ゲルニカ」をご紹介したことをもって、一旦ピカソの話は終わりにして、バルセロナで大変感銘を受けた「ピカソ美術館」のところで再びピカソに登場して貰うことにしていました。ところが、先日町田市立国際版画美術館(東京)で開催された「パブロ・ピカソ―版画の線とフォルム―」展で「ゲルニカ」に密接に関係する版画に巡り合い、このまま「ゲルニカ」を終わらせてしまいたくないと思い、つづきを語ることにいたしました。
 その版画とは、ピカソが「ゲルニカ」の苛酷さを予見するような「フランコの夢と嘘(Sueňo y mentira de FrancoⅠ,Ⅱ)」という名の2枚1組の9コマ×9コマの政治的カリカチュア(齣漫画)と大作「ミノタウロマキア(Minotauromachia)」の2作品です。
 2つの版画を語る前にピカソの版画なるものをここで少し概括してみたいと思います。ピカソが初めてエッチングを試みたのは1897年、16歳の時のことでした。それから1973年に生涯を閉じるまでにピカソが制作した版画の数は、2千点にも及ぶというから驚いてしまいます。因みに、ヨーロッパ版画史上最大の巨匠のひとりであるレンブラントのエッチングは3百点足らずでしたので、その数の多さが分かります。しかもそこに用いられた技法は、エッチング、ドライポイント、アクアチント、木版、リノリウム版、リトグラフ、ポショワール(ステンシル)と実に多様です。今回の版画展で、ピカソがビュフォンの『博物誌』に独創的な挿絵を描いていることも初めて知りました。
 さて、「フランコの夢と嘘」(1937年、エッチング)ですが、そこにはピカソの反フランコの態度が明らかに表現されています。ドン・キホーテよろしくグロテスクに描かれた独裁者フランコは見るもおぞましいポリープの形をした怪物として描かれています。この怪物は腸のはみだした馬に乗ったり、綱渡りをしたり、時には女装をし、あるいは豚にまたがって登場します。古典的な女性の胸像を破壊しようとするかと思えば、1ドゥオロ(1ドル)と書かれたマイクロフォンに向かって祈り、また太陽に向かって突進する一方、逞しい牡牛の角にかかって空中に放り出されてしまいます。この続き漫画のような風刺画は2枚の銅板に描かれ、1937年1月8日という日付が書かれています。エッチングは普通の版画同様、その仕上がりは左右反転しますが、ピカソは銅板を反転させなかったようで字は裏返しのままで、絵は右から左へ見ていかなければなりません。また2枚目は5コマで一旦中断されています。残りは「ゲルニカ」の制作が終わってから仕上げられたようです。

 ピカソはカリカチュアと一緒に、絵の下にシュルレアリスム風の詩を書いています。この詩は版画とセットにしてパリ万国博覧会のスペイン館で販売されたといいます。また、絵ハガキとしても売られ、内戦の資金援助に回されたそうです。共和国政府側はピカソにこのような直接的な右派非難、あるいはフランコ非難のプロパガンダ絵画を期待していたふしが見受けられます。熱烈に自由を求めるピカソ自身が一番憎んでいた、あの時代の黒い、ファッショという権力に対する挑戦であることがこの版画をみると一目瞭然です。絵の下に添えられた自筆による攻撃的なこの詩は、あの「ゲルニカ」の中にある沈黙の絶叫を予告していたように思われます。―子供たちの叫び、女たちの叫び、小鳥たちの叫び、木材たちのそして石たちの叫び、煉瓦たちの叫び、家具たちのベッドたちの椅子たちのカーテンたちの、土鍋たちの猫たちの、そして紙たちの叫び、大鍋の中で煮えたぎる叫びたちの肩を突き刺す煙の叫び―、と。ピカソは内戦の戦慄を正確に予感していたのでありましょう。
 次に今回の版画展で注目したのは、大作「ミノタウロマキア」(1935年、エッチング)です。「ミノタウロマキア」は、ピカソの制作した最大の版画(縦49.8センチ、横69.3センチ)です。何故関心をもったかといいますと、それは「ゲルニカ」を先取りするような面をもち、構図は「ゲルニカ」の構図を鏡にあてて左右入れ違いにしたもののように見えたからです。「ミノタウロマキア」とは、牛頭人身の怪物ミノートルと闘牛技を意味するタウロマキアを合わせた言葉です。
 クレタ島のミノス王は、海神ポセイドンから牡牛を贈られ、それを捧げると約束しながら別の牡牛を捧げました。ポセイドンは怒り、王妃パシパエが牡牛に欲情するように仕向けるのです。王妃が牡牛と交わって誕生したのが、“ミノスの牡牛”ミノートルです。ミノス王は怪物を迷宮に住まわせ、アテナイの少年少女を定期的に生贄としますが、アテナイの英雄テセウスはミノス王の娘アリアドネの助けを得て、ミノートルを退治するという物語です。牡牛は、地中海世界一帯の神話の中に古くから登場する動物です。その一種の『変身物語』(Metamorphoses、オウィディウスのラテン詩)でもあるミノートル伝説は、20世紀にはシュルレアリストたちに好まれました。
 1933年にフランスの詩人アンドレ・ブルトンがシュルレアリスムの雑誌『ミノートル』の創刊号の表紙をピカソに依頼したのをきっかけに、ピカソはこの主題に一層の関心を寄せはじめることになります。主として版画において、そのイメージをさまざまに展開させていきました。そして、「ゲルニカ」に登場する牡牛と馬の象徴的な内容を複雑で多義的なものにしていきます。この牡牛と馬の対抗という主題は、スペインの国技ともいうべき闘牛と結びついているだけに、生涯を通じて絶えずピカソの気持ちを惹き付け、創作意欲をかき立てたものと思います。牡牛は獰猛な獣として表現されるにせよ、飼い馴らされた動物として描かれるにせよ、常に勝利者であり、これに対して馬は常におとなしく清浄な存在として現されていますが、いつも犠牲者です。
 「ミノタウロマキア」の舞台は海岸です。右手を前にさしだし、歩を進めるミノートルがいます。画面中央に怯えた様子の馬、その背中には闘牛士の衣装の胸をはだけた女性を、ミノートルが襲おうとするのを画面左側で光り輝く蝋燭と花束を手にした愛らしい少女が遮っています。その横で梯子に足をかける髭を生やした男の姿があります。背後の建物の窓越しに、2人の若い女性と2羽の鳩。ピカソが「ミノタウロマキア」を描いた時期はピカソにとって、家庭内の葛藤に悩む非常に苦しい時期でもあったらしい。とすると葛藤から逃げ出そうと梯子を上る男はピカソ自身であるかもしれません。ミノートルの暗い沈んだ表情もピカソの内面の懊悩を表現しているようにも見えます。でも作品の解釈は様々で、左側の男をキリストとする説や、盲目のミノートルが少女に導かれる場面とする説もあるようです。
 以上の2つの作品は「ゲルニカ」の作成にあたって、当初から牡牛と馬、それに蝋燭を差し出す少女という主題を持っており、同時に、ピカソ年来のテーマの一つである闘牛を「ゲルニカ」の主題作として想定していたことが分かるような気がしてきました。ゲルニカの悲劇は、その事件の細部を正確に写し取る形ではなく、闘牛の悲壮な情景に置き換えられたのです。言い換えれば、ゲルニカの悲劇は、具体的な事件から象徴的な情景に、直接的な告発よりも「闘争」、「暴力」という普遍的なテーマに置き換えられたと言ってよいかもしれません。つまり「闘牛」というピカソ年来のテーマに見られる暴力性、狂気、セクシュアリティ、死と崇高がゲルニカの悲劇を媒介として表現されているのです。だから、「ゲルニカ」はピカソのファシズムへの怒りから生まれたという一行だけの解説では大切なものがみんな抜け落ちてしまう気がします。それは、ピカソが「ゲルニカ」を描いた時の、その心の揺れ、そして年月を経た後での感情、すべてが機械的な一行からはこぼれ落ちてしまうからです。

 極めて個性的で、エネルギッシュな創作活動をつづけた岡本太郎は、1937年当時、パリ万国博覧会のスペイン館を訪れ、次の言葉を残しています。「・・・入ったとたん、目の前に広がる圧倒的な大画面、アッと立ちすくんだ。「ゲルニカ」だった。私はそれまでに何度か、ピカソの絵に感動したことがあったが、この時ほど、ズシンとしたショックを受けたことはなかった。なまに、画面全体が炸裂している。単にゲルニカの事件を描いたというよりも、人間の引き裂かれた運命そのものが、そこに、むき出しになっている。泣き、叫び、手をつき出し、走りまくっている。しかし同時に、全体は強固にまとまって、むしろ残酷な静謐さが支配している。静・動の凝集。(中略)殆どモノクロームに近い画面、であるにも拘わらず、何という激しい彩りでおし迫ってくるのだろう・・・」と。
 私は「ゲルニカ」の絵を前にして、得体の知れないものに対する怖れや許しがたい不正に直面した時に、心底から湧き出る何かを感じ取ることができたように思います。それだけでも大きな収穫だったと思っています。
 私たちは、何故これほどまでに「ゲルニカ」にこだわり、惹かれるのでしょうか。それは、「ゲルニカ」が、今、すなわち21世紀の「今」も生き続けているからなのだと思います。それは、21世紀になっても紛争は相変わらず続き、私たちの中に20世紀の「不安」が依然として息づいているからなのでしょう。今に至るも世界は混沌の中にあります。しかし、「ゲルニカ」はその絶望から、よりよく生きるように私たちを鼓舞し、叱咤激励し、覚悟を与えているのかもしれません。だからこそ、「ゲルニカ」は、いつまでも光輝いて人々を惹きつけてやまないのだと思います。
 なお、今回の版画展で前2点とは全く趣を異にする「鳩(La colombe)」(1949年、リトグラフ)の作品には、心を揺さぶられるものがありました。このリトグラフは、ピカソの少年時代から愛してやまなかったといわれる平和のシンボルでもある鳩の姿を、解き墨を用いて描きあげた作品です。黒い地の上に横向きの白い鳩の姿を浮き出させただけの構図ですが、黒くつぶらな目や、ふんわりした羽毛の様子が巧みに表現されています。その優しい姿に大きな感銘を受けました。パリの由緒あるムルローの工房で制作されましたが、「最も美しいリトグラフの1点で、これほど見事なものは今まで見たことがない」と、ムルロー自身が編纂したリトグラフのカタログの中で称賛しています。

 ピカソがまだ幼かった頃、一家が住んでいた港町マラガのラ・プラサ・デ・ラ・メルセドではプラタナスの木々に多くの鳩が巣をつくっていました。画家だった父親のホセ・ルイス・イ・ブラスコは、町で見かける鳩の姿を好んで描いていましたが、ある日、息子に手伝わせた鳩の表現があまりにも優れていることに驚愕し、それからは二度と絵筆をとらなくなったといいます。これなどは天才画家ピカソ誕生を告げるに相応しいエピソードといえましょう。
 第2次世界大戦のさなか、ピカソは身の危険を感じながらもパリから一歩も出ることなく、只管戦争の終結を望んでいました。パリ解放後のピカソは、平和のための世界会議などに担ぎ出されます。リトグラフ「鳩」は1949年春、フランスの作家ルイ・アラゴンによって見いだされ、同年4月に開催された第1回世界平和会議のポスターの図版として採用されました。折しも、フランソワーズ・ジローとの間に第2子をもうけたピカソは、平和会議のさなかに誕生した愛娘に「パロマ(Paloma,鳩)」と命名したのです。
 今回は町田市立国際版画美術館で開催された「パブロ・ピカソ―版画の線とフォルム―」展に終始してしまいました。次回は再びマドリードに戻ります。