本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

マドリードの旅(2)


<Casa Alberto(カサ・アルベルト)>
 マドリードの話をつづけます。ソフィア王妃芸術センターでキロスさんの友人のホセさんが途中で合流しました。彼はスペインの古典家具修復士でしたが、このスペインの不況の影響をもろに被り、古典家具の修復などという仕事は皆無となってしまい、現在は景気回復を待って、不本意ながら別の仕事をしております。かつては10人ほどの弟子たちを抱え、いい仕事が沢山入ってきたようです。彼はさすが絵画にも一家言をもっており、スペイン絵画についていろいろ説明をしてくれました。キロスさんと同様に合気道の有段者でもあり、2年前の秋に初めて日本を訪れ、本場の本部道場で修業を積むために1ヶ月ほどキロスさんのマンションに居候をしておりました。その時に彼とキロスさんを箱根に招き、一緒に旅をしました。二人は大涌谷から眺める富士山の美しさと黒い卵と仙石原のススキにすっかり感激し、露天風呂と日本料理も大いに楽しんでくれました。浴衣姿も不思議ときまっていました。
 さて、「ゲルニカ」をはじめ数々の名画を有するソフィア王妃芸術センターをあとにして、午後のやわらかな春の陽射しを浴びながら、取敢えずカフェに入り一服しました。 これから、遊び人でもあるホセさんの案内でマドリードのバル(Bar)巡りです。一軒目に入ったのは「Los Gatos(ロス・ガトス)」、スペイン語で“猫たち”といった意味でしょうか(看板の絵はネズミのようにも見えますが)。丁度シエスタ(昼寝)が終わった頃なのか、満員の盛況です。入り口の部屋はカウンターとワインの大樽をテーブル代わりにして、みなさん、立ち飲みですが、奥に入ると椅子の席が並んでいます。子供連れの家族も来て楽しんでいます。不景気だというのにそんなの何処吹く風とばかりに、平日の昼日なかからビールやワインをあおって大いに賑わっています。さすが、ここはスペインだなと感心してしまいました。観光客は私たち夫婦だけで、あとは地元の人たちばかりのように思えます。早口のスペイン語が満ち溢れていましたので。目下、スペインは失業率の悪化に歯止めがかかりつつあるようですが、それでも依然25%を超す高い水準にあり、若年層に限れば50%を超えています。それなのにこの立錐の余地もないほどの賑わいぶりは一体何でしょうか。実際のところ、周りが思っているほど、スペイン人たちは悲惨な生活を強いられているわけではなさそうです。 スペインでは最大2年間失業保険がもらえるそうですし。それにしても、いかにもラテン民族らしいスペイン人の大らかさというか屈託のなさに脱帽です。
 カウンターにようやく隙間を見つけて何とか入り込んで場所を確保し、先ずは、初めてスペイン・ビールを味わいました。冷えたビールはなかなか旨い!ホセさんがいろいろ美味しそうなタパス(Tapas,小皿料理)を見繕っては注文してくれます。ハウス・ワインの白(Vino blanco,ヴィーノ・ブランコ)と生ハム(Jamón Serrano、ハモン・セラーノ)をはじめニンニクとオリーブ・オイルをきかせた魚介類のタパスは絶妙に合い、杯がすすみます。スペインでは何を口にしても、大概はニンニクとオリーブ・オイルの風味が溢れています。スペイン料理からニンニクとオリーブ・オイルをとったら、つまらないものになってしまうのではないでしょうか。ここにきて、スペインはニンニクとオリーブ・オイルの国、フランスはバターの国という図式が見えてくるように思えてきました。
 この「ロス・ガトス」の店内は、マタドール(Matador,闘牛士)の服装が飾ってあったり、あちこちにいろいろな姿をした大きな人形が置いてあったり、骸骨がビールを飲んでいる奇妙なタイル絵が貼ってあったり、天井を見上げるとフレスコ画まで描かれています。実に楽しいところです。いつまでもグラスを片手に語り合っていたいと思わせる店でした。ピカソが訪れた時の写真も飾られているのをみると、ここはマドリードのみなさんや有名人にも愛されている、かなりの人気店なのかもしれません。
 「スペインでは、人が住むところに教会とバルは必ずある」と言われていることに納得してしまいます。兎に角、バルは楽しい。ワインもビールも安く、タパスが旨く、喧噪の中にあっても妙に居心地がいい。自分の食べたいものを目で選べるし、その量も自分でコントロールできる。それに何よりスペインのバルは近所の人びとの集会場の様相を呈し、素顔のスペイン人と隣り合わせることができます。今回は日本語の堪能なキロスさん、そしてバルに詳しいホセさんがいましたので不自由なく安心して楽しめましたが、バルにいるスペイン人はすこぶる人が優しそうなので、こっちの片言にも心を開いてくれそうです。それもまた、ワインのなせるわざかもしれません。この次にスペインを訪れた時には、またバルで楽しい日々を過ごそうと思ったものです。
 いい気持ちになって外に出ますと、今までの天候が変わり小雨が降り始めていました。雨の中を、暫くそぞろ歩きを楽しみながら、もう一軒ホセさん好みの店に入りました。ここは「Casa Alberto(カサ・アルベルト)」という創業1827年という老舗中の老舗で、マドリードで最も伝統的な家庭料理を味わえる店だそうです。前菜は、例によって生ハムをはじめトルティージャ(Tortilla espaňola,ジャガイモ入り、スペイン風オムレツ)、イカのフリット(Calamares fritos)、シシトウ(Pimientos de Padrón)といったタパス類,それに合わせてスペインのスパークリング・ワインのキリッと冷えたカバ(Cava,シャンパン方式でつくられている)を飲む。そしてメインはここのお薦め料理であるマドリードで最も美味しいと評判のオックステール・シチュー(Rabo de vaca guisado al vino tinto)を注文しました。実は、ヘミングウェイもスペインで、このオックステール・シチューをこよなく愛したといわれています。このシチューに合わせるのはホセさん推薦のRibera del Duero地方(リベラ・デル・ドゥエロ)でつくられた赤ワイン(Vino tinto,ヴィーノ・ティント)、「Matarromera Crianza 2005年」です。
 赤ワインはスペイン・ワイン界の王座に君臨しています。その中でも、有名なリオハのワインに匹敵すると高い評価を受けているのが、リベラ・デル・ドゥエロの赤ワインです。どうやらスペインの赤ワインは、スペイン人が長く熟成させた、しなやかな味と健全なオークの風味が入っていることを好むことを理解する必要がありそうです。この点を理解すれば、Bodegas(ボデガス)と呼ばれるスペインのワイナリーの大半が、大きなオークの発酵槽で長期間熟成させてからワインを出荷することに合点がいきます。こうして、リベラ・デル・ドゥエロ地方では、幅広いドゥエロ河の谷間で、スペインの2大高級赤ワインのひとつがつくられているのです。ワインの特徴は、ベリー系の果実の際立った純粋さです。極めて熟した葡萄を最低3年間オーク樽に漬けることで、スパイシーで、甘くて、焦がしたようなバニラの香りのするオークの風味をたっぷり含んだ、力強く、しなやかで弾けるほど豊かなワインに仕上がります。この「Matarromera Crianza 2005年」も、濃いルビー色をしており、よく熟した果実やバニラの香り豊かなワインで、タンニンもようやくまろやかになってきつつあり、オックステール・シチューとの相性は見事でした。
 隣の席には南フランスからやってきたという可愛らしい男女の学生とスペインの女性がおり、すっかり意気投合して語り合い、彼女らにもリベラ・デル・ドゥエロの赤ワインを振舞ってやりました。ここのデザートもなかなか美味で、店側の粋な計らいで甘口リキュールをサービスしてくれたのですが、残念ながら名前を失念してしまいました。ひょっとすると、ヘミングウェイの『日はまた昇る』で、主人公ジェイクの飲んだアニス酒「アニス・デル・モノ(Anís del Mono)」の大甘で、きついリコレス(Licores,リキュール)だったかもしれません。
 19世紀はじめの開店当初、マドリードの人たちがここ「カサ・アルベルト」に立ち寄っては、一杯のワインとゆで卵、鱈一切れをつまみにして飲んでいたそうです。ささやかな市民の楽しみであったのでしょう。後で知ったことですが、「カサ・アルベルト」のある建物は歴史的建造物で、『ドン・キホーテ』の作者として誰でもご存知のセルバンテスがかつて住んでいたところだそうで、2階には大作家の遺した所持品や思い出の品々が展示してあると聞いて、拝見する機会を逃してしまったことを悔いています。
 この店にはいかにもスペインの美男といえるきりっとしたバーテンダーと愛想の良い、サービス精神に溢れた中年のウェイターの対照的な取り合わせがまた面白かったです。
 ところで、こうしたバルやカフェでは、原則としてウェイトレスはおりません。みんなウェイター(ギャルソン)です。通常、白服黒ネクタイのウェイター(「カサ・アルベルト」のウェイターはこの店の白の制服と前掛け姿でしたが)が、銀盆片手にきびきびした動作で、テーブルからテーブルを縫いながらにこやかな笑みをふりまいています。殆どが40代、50代の中年男性で、その年齢からくる安心感が何ともいえません。スペインに限らずフランスでもそうでした。バルやカフェのサービス係りは年配の男性が圧倒的に多く、それが、みんないい顔をしているのです。私服に着替えたら、何処かの大会社の重役か、と思えるような堂々たる風格の御仁も少なくないように思いました。日本でも最近は良くなったように思いますが、かつて、ろくに口のきき方の知らない若いウェイターや、笑顔を見せたら損だといわんばかりの仏頂面ウェイトレスに馴らされていた頃は、外国に来ると、酸いも甘いも噛み分けたような中高年ウェイターの存在がひどく新鮮で眩しく感じたものです。食は文化なり、という考え方が正しいとすれば、少なくとも若者と中高年ウェイターでは、文化の厚みが違うように思うのですが、老人の勝手な思い込みでしょうか。日本でも中高年ウェイターが増えれば、中高年の活性化にも繋がるように思うのですが・・・、如何でしょうか。

 雨もあがり、満ち足りた気分で「カサ・アルベルト」をあとにして、夜の帳のおりる通りに出ました。ホセさんから、スペインはこれからが本番で、ますます賑やかになるのでもう1軒ハシゴしませんかと誘われましたが、今日は朝からソフィア王妃芸術センターで熱心に名画を見て回り、さすがに少々疲れて明日もあるため諦めることにしました。スペインに来て、毎晩酔っ払わないような酒飲みは、酒飲みとはいえないようですが、名画とワインにすっかり酔いしれたマドリードの一日でした。人をして酔わしめるものが、確かにスペインにはあるのです。スペインそして2人の友に乾杯!