本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
閑話―「仏蘭西学事始」(1)
![]() 『三語便覧』村上英俊著 |
最近、大変興味深い本と巡り合いました。「マドリード訪問記」の途中で申訳ないのですが、ここで敢えてご紹介をさせていただきたいと思います。それは毎週ラテン語の授業を終えて立ち寄るのを楽しみにしている東京・神田神保町の西洋古書店で、店主と古書談義をしている時のことでした。
![]() これは実に面白い本に出合ったものだと、私は興奮してしまいました。まさに幕末期の貴重な『三語便覧』の原本を手に取って拝見できたのですから。この本をきっかけにいろいろな事柄(日仏出会いの最初は誰か、初めてフランスの土を踏んだ日本人は誰か等々)を自分なりに発見し、また新たな興味ある数々の本に出合いました。そして、帰りの電車の中で、随分前にある古書展で同様な本に出合い、購入したことをふっと思い出したのです。それは幕末期に来日したフランス人宣教師メルメ・ド・カションが編纂した『佛英和辞典』(1866年、慶應2年)で、帰宅して書斎の本棚の中から探し出しました。この辞典については後ほどご紹介したいと思います。 先ずは、『三語便覧』の話から始めましょう。『スタンダード仏和辞典』の序で、鈴木信太郎博士は次のように述べています。「日本で初めてフランス語を修めた学者は村上英俊(1811-1890)であろう。英俊は親友の佐久間象山(1811-1864)から仏文習読を勧められ、1848年(嘉永元年)から蘭仏辞典を筆写して独習し、3年の後に漸くフランス語を解読し得るようになった」と。 さて、「仏蘭西語事始」には、幕府の系統(長崎のオランダ通詞)と今回本稿の主人公となる村上英俊の2系統がある ![]() でも、鈴木信太郎博士が述べていますように、やがてそんな先人の営為を全く知らずに、ゼロからの出発でフランス語の修得に一人取り組むことになる村上英俊が、どうやらフランス語の先覚者、わが国の「仏学始祖」であることは周知の認めるところでありましょう。 それではこれから、村上英俊の人となり、そして佐久間象山との係わりなどを語っていきたいと思います。村上英俊は、1811年(文化8年)に下野国佐久山(現在の栃木県大田原市佐久山)で生まれました。ここはかつて奥州街道の宿場町のひとつとして随分と賑わったそうです。この旅籠が建ち並ぶ中で、ひときわ眼をひくのが英俊の実家である本陣(江戸時代に設けられた大名、公卿など貴人が休憩、宿泊する旅館)「佐野屋」でした。英俊の父松園は「佐野屋」の主人でありますが、幕府の医官について医術を修めた医者でもあり、その志は単なる本陣の主人で終わろうとするような小さいものではなかったようです。そして、わが子に大きな希望と期待を抱いておりました。医者なら能力次第で将軍の脈さえとるまでに出世できると考え、英俊にも医学を修めさせることにし、そのために先ずは江戸に出なくてはならないと、その準備にとりかかったのです。しかし、一家をあげて佐久山を離れるとなると大きな問題が立ちはだかります。本陣という先祖代々の家業を簡単に廃業するわけにいかなかったし、医者としての信望も篤かったからです。あれこれ思案の末、佐久山の近くに住む縁者に本陣「佐野屋」を譲る相談をまとめて、漸く江戸に旅立つことができることになりました。英俊14歳の時のことでした。父親の期待通り、英俊は漢学を唐津藩の儒学者に、医学は篠山藩の侍医に学び、そして18歳になると津山藩侍医について蘭学を修めました。当時、西洋の学問を知るにはオランダ語はどうしても修めなくてはならない必須の言語であったからです。 ![]() チエが真田藩主の居城である信州松代の地に兄の移住を盛んにすすめてくるようになると、英俊の心は動揺します。それと同時に、英俊には松代の地に別の大きな魅力があったのです。それはほかでもない、佐久間象山がいることです。象山は1811年(文化8年)生まれであり、英俊とは同年齢でありますが、既に藩主に認められているのみならず、「江戸名家一覧」に載るほどの学者として高い評価を受けておりました。英俊は象山との学問的な繋がりに強く惹かれたのでありましょう。やがて医師としても、これで十分といえるほどに修業を重ね、蘭書にも通じたという自信をもてるようになった1841年(天保12年)、30歳の英俊は江戸を離れて松代へ行く決心を固めるのです。 ![]() さて、前置きが大分長くなってしまいましたが、いよいよここからが本論です。象山は、外敵の侵入に対抗するには、最も効果的な武器である大砲、それも新しい大砲をつくらなくてはならないと考え、そのためには先ず新しい火薬を製造することが絶対に必要だと考えたのです。それには何か良い手引き書なり、参考書がないものかと、あれこれ尋ね回わりました。そして予てからオランダ書に詳しいと評判の村上英俊のもとを訪ねてきて、新しい火薬製造について書かれたオランダ書がないかと相談したのです。 ![]() 象山は英俊の推奨を得るや、直ちにベルセリウスの『化學提要』を購入するべく藩に掛け合い、その手続きを取ります。1846年(弘化3年)末のことでした。それから1年半余り経って、ついに待望の『化學提要』の書物が届いたのです。ところが、・・・です。代金150両という高価なものでしたが、それを紐解いてみて、象山と英俊は絶句したのであります。一字一句も読めないのです。何ということか、それはオランダ語の本ではなかったのです。オランダに発注して取り寄せたベルセリウスの『化學提要』はフランス語訳のものでありました。既に1834年にオランダ訳も出ているのに、どうしたわけか、フランス語訳の本が届いてしまったのです。 蘭学を修めただけの英俊にはとうていフランス語を読めるはずもなく、かといって今更再注文するなど出来る相談ではありませんでした。時間もないし、再び大きな出費をしなくてはなりません。英俊も象山もすっかり頭を抱えてしまいました。手許にあるフランス語訳『化學提要』を読むには、フランス語が分からなくては埒が明かない。二人はあれこれ考えあぐねた末、ひとつの解決策に思い至ったのであります。それは、英俊が新たにフランス語を学び、しかる後に『化學提要』を読むように象山は頼んだのです。英俊は象山の提案を受け入れて、フランス語を学び、フランス語訳『化學提要』を読破することを決心しました。こうして英俊の「仏蘭西語事始」がスタートを切ったのであります。 1848年(嘉永元年)5月から10月に掛けて、英俊は先ずフランス文典についてフランス文法を学びましたが、それだけでは『化學提要』には到底歯がたちませんでした。 ![]() そして、江戸に10年振りに戻った英俊は自ら苦心惨憺して修めたフランス語の知識を広く世の中に伝えようと考えはじめました。そして、英俊は字書の編纂こそが第一番目に着手すべき仕事であるとの考えに至り、これまでに書き記したノートやカードの類を整理し、字書の編纂に取り組んだのです。それが冒頭ご紹介しました『三語便覧』です。 日本において「蘭学事始」の故事来歴については世に知られていますが、「仏蘭西学事始」ともなると殆ど知る人もいないし、先人がどのように苦労して仏蘭西語を学んできたかを考えることも余りないように思われます。漸く50代になってフランス語に出合った私としては、仏蘭西学の黎明期を代表する村上英俊の人となりと、その著書『三語便覧』を通して、英俊の「蘭学事始」のあの苦行にも似た涙ぐましい努力があったからこそ、今日のフランス語の目覚ましい発展に繋がったことを皆様に知っていただきたく、ここに尊崇の念をもってご紹介させていただきました。次回以降は更に『三語便覧』の内容をはじめ幕末から明治にかけての「仏蘭西学のあけぼの」について述べてみたいと思っております。 |
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