本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

閑話―「仏蘭西学事始」(2)


『三語便覧』村上英俊(義茂)著
 「仏蘭西学事始」のつづきをはじめます。
 先ずは、興味ある2つの話からはじめることにしましょう。(1)フランス人と会って話をした初めての日本人は誰でしょうか―(答):それは天正少年使節の皆さんです。1584年(天正12年)、今から430年前にスペイン・マドリードでフランス大使に謁見した時です。大使からフランス国王の旨を奉じてガリアの国へ少年たちを案内したいと申し入れたことが記録に残されております。この時が日本人として初めてフランス語なるものを聞いた人たちということになります。でも、少年使節がフランス語をしゃべったわけではなさそうです。天正少年使節につきましては、後日マドリードまたはトレドの訪問記の途次に詳しくお話ししようと思っております。(2)次に、日本人で最初にフランスの土を踏んだのは誰でしょうか―(答):それは支倉常長(1571-1622)の一行です。1613年(慶長18年)に伊達政宗(1567-1636)の命により、支倉六右衛門常長の一行は奥州牡鹿郡月の浦からメキシコ経由でローマへと旅立ちました。この遣欧使節派遣が図らずも日本人として最初にフランスに足を踏み入れる機会をもたらそうとは、誰一人として想像しなかったのではと思います。一行はメキシコからイスパニア艦隊に便乗してキューバを経てイスパニアの西南のサンルカールに上陸し、セビリアで歓待を受けたのち、マドリードに到着します。1615年(元和元年)のことでした。常長は国王フェリペ3世(1578-1621)に謁見し、伊達政宗からの書状と贈物を呈上しました。なお、常長は謁見のあと洗礼を受け、ドン・フィリッポ・フランシスコの教名を与えられます。その後、支倉常長一行はマドリードを出発し、サラゴサを経てバルセロナに到着します。そして一行はバルセロナ市の議会の協力を得て、イタリアに渡る船の手配を受けることになりました。ところが、一行の乗船したフリゲート船は、悪天候のために南フランスのサン・トロペに避難すべく寄港し、2,3日そこに滞在したという事実が発見されたのです。このことにより、今日では、支倉常長一行こそが最初にフランスの地を訪れた日本人であったということになっています。現在、南フランスのカルパントラ市のアンギャンベルティーヌ図書館に羊皮紙6葉に記された支倉常長一行に関する文書が所蔵されています。そこには、サン・トロペ領主夫妻や連絡係のファーブルなどの報告によって支倉常長のフランス滞在の様子が克明に記録されています。フランス人が初めて日本人に出会った時の興味深い印象も綴られていますので、2,3ご紹介しましょう。
 サン・トロペ領主は、日本人の容姿に触れて、一般に日本人は短躯で日焼けし、低い鼻の持ち主であると述べています。ファーブルも、いずれも小男にして、顔は比較的大なるも、顔色は悪く、鼻は低く、鼻孔は大きく、眼は小さく且つ窪み、額は広く、顎鬚はなく、頬髯は淡かりし、とまるで醜男のような形容をしています。
 日本人はイスパニア人の服装をまとい、腰には長短二刀を帯びて、それはトルコの新月刀のように細身で鋭利なものであった、と領主とファーブル両者の報告として記されています。また、領主夫妻とファーブルの3人が共通に取り上げていることに「食事の作法」があり、とりわけ、“箸”の使用について極めて大きな興味が寄せられたようです。ファーブルは、料理を、自国より携えてきた非常に清潔なる2本の小さき棒を用いて口に運びたり、と。領主夫人は、彼らは支那風に指に小さき棒を挟みて食事せり、その棒をもって彼らは我らが匙を使用するが如く、巧みに米粒を挟むなり、と描写しています。
 また、日本人が懐紙で洟をかむ習慣をもっていることに、領主夫人の報告の中でセンセーショナルに叙述されています。フランス人はハンカチーフを用いて洟をかむが、それは決して一度だけで捨てられることはない。日本人が懐紙で洟をかむごとにそれを捨てることに大変驚いたのです。そして、この違いは単に風俗・習慣に根ざすだけのものだろうかと不思議に思ったようです。領主夫人は使節一行が紙を多数日本から携行してきたことを指摘し、紙の生産量の豊富さがそのような習慣の背後にあることを示唆しているのも面白い観察です。因みに、ローマの人種博物館の日本の部屋に、支倉常長の使用した懐紙についての説明があって、懐紙1枚が大切に保存されています。これは現在の宮城県白石市でつくられたものらしいです。
 支倉常長一行がイスパニアでキリスト教の洗礼を受けたことは、サン・トロペにおいても敬虔な信仰の日々となって反映しています。ファーブルは、使節の街路を行くや、その様甚だ荘重なりしが、一度教会に入るや、使節も家臣も夫々が敬神の態度を示し、福音書を読誦する時のほかは、常に跪座せり、と報告しており、領主夫人も、而してアベ・マリアの鐘の鳴るや、一同直ちに跪座して神に祈禱を捧げたり、と記しています。このような姿はフランス人には奇異に見えたのでしょう。
 日本人の使用する文字については、絹をもって製した紙に、上から下に向かって筆で文字を記す、とサン・トロペ領主の報告書に遺されております。
 以上のように、フランス人が自分たちとは全く異なった容姿の日本人に接した時の印象を書き綴ったこの記録は、支倉常長のローマ訪問への途次の一事件を記したものという以上に、フランス人の日本人に関する最初の記録として貴重且つ重要であるように思います。そして様々なことが、2,3日という頗る短い滞在期間のうちに具に観察、記録されていることにも驚かされます。なお、昨年は支倉常長率いる慶長遣欧使節団が派遣されてから日・西交流400年になることを記念して、日本とスペイン各地で様々な行事が催されました。
 さて、本題に戻って、村上英俊のその後について語ってまいります。英俊はフランス語で書かれた『化學提要』を読破した後、佐久間象山に火薬の製法を教え、やがて化学界においても大きく地歩を占め、1844年(弘化元年)には鍍金(メッキ)の術までも紹介しています。英俊は学者としての野心に燃え、真田家の侍医くらいで満足する気は毛頭ありませんでした。ついに草深い松代を離れて江戸に出る決心をしたのです。1851年(嘉永4年)のことでした。こうして10年振りに江戸に戻った英俊は、深川小松町にあった松代藩邸の片隅に住むことになります。そして、ようやくにして松代の地で自ら苦心惨憺して修めたフランス語の知識を広く世の中に伝えようと考えはじめたのです。
 英俊はオランダ語が鎖国中の唯一の公用ヨーロッパ語であり、洋学者の大半がこれを修めている事実を踏まえ、更に極めて少数の者が英語を学んでいることを考えて、フランス語とオランダ語に加えて英語の三か国語を対照させた字書を編む計画を立てたのでした。仏英蘭の3語の対照字書です。こうして編纂されたのが『三語便覧』で、英俊の最初の字書であるということで非常に重要なものとなりました。それは三か国語対照辞典という構成法に加えて、三か国語にそれぞれ振仮名を付けて発音を記していることでも大変貴重な字書であったのです。
 英俊がフランス語の字書として三語対照の方法をとったのは、後進の学習の便利さを考慮に入れてのことにほかなりません。尤も、英俊がフランス語の字書の編纂を思い立ったのは何も後進への思い遣りばかりからではなさそうです。それはフランス語そのものの価値を認識してのことでありました。当時、他に学ぶ者のいないフランス語を苦心惨憺して学んだのだから、それをそのままに終えてしまっては勿体ないというような単純な動機からでもなさそうです。英俊は、きっとフランスが世界の中で占める役割の大きさを認識し、その国を知るにはまず最初にその言葉―フランス語を知らなくてはならないのだと考えたのだと思います。その上で後進の勉学の一助にと字書の編纂を思い立ったと考えるのが自然でしょう。『三語便覧』の刊行年については、前回述べましたように1854年(嘉永7年)説が有力です。
 『三語便覧』の内容は、[初巻]:天文、地理、身体、疾病、家倫、官職、人品、官室、飲食、衣服、器用(1,075語)。[中巻]:兵語、時令、神仏、徳不徳、禽獣、魚虫、草木、果実、金石、医薬、采色、数量、地名(1,131語)。[終巻]:言語(陪名詞、附詞、前置詞、附合詞、動詞)(1,168語)の構成と、合計3,374語という語彙数からなります。
 [初巻]の冒頭に近い箇所から『三語便覧』記述の2つの例を引用してみましょう。
仏蘭西語(フランスコトバ) 英傑列語(エゲレスコトバ) 和蘭語(オランダコトバ)
自然(シゼン) nature(ナテュレ) nature(ナテュレ) natūūr(ナテュール)
世界(セカイ) monde(モンデ) world(ウヲルド) wereld(ウェーレルド)

 この2つの語彙についてみる時、特に目に付くのは発音にあてられた片仮名です。フランス語に限ってみても、natureは[naty:r]と発音されるから「ナテュール」と振仮名して欲しいし、mondeは[mɔ̃d]、即ち「モンド」と記されるはずです。これは英俊がまず蘭学を修めたという事実に根ざす問題で、フランス語の発音がオランダ語的になってしまっていたようです。フランス語の発音の不正確さは『三語便覧』の各所に散見されますが、大胆にも片仮名の読みを振ったことで、その誤りまでもが今日に伝えられているのは何とも皮肉なことです。単語の読みが不正確であるということは致命的で、その会話に至っては、やがて「英俊先生のフランス語はフランス人に通じない」という評判がたてられるほど、怪しげなものであったらしいのです。
 なお、どうしても気になるのは、英俊と佐久間象山との関係です。『三語便覧』ができた時の象山のそれに対する批評は余り良くなかったと伝えられているからです。それは、象山が松代藩主の侍医であった倉田左高に当てた2通の書簡から読み取れます。英俊が『三語便覧』を象山に贈呈しなかったこと、そして、象山が倉田左高から借用してそれを読んでみると、誤りが多かったと記されていることです。でも象山は誤りを問題にしているものの、具体的な指摘は何ひとつしていないのです。英俊はかつて象山に奨められ、苦学の末に修めたフランス語であるのに、『三語便覧』をどうして象山に献呈しなかったのか不可思議です。それにもまして『三語便覧』の刊行に際して、「序」を象山に頼まずに何故小林至静に頼んだりしたのでしょうか。象山としてはまずそのあたりのことから腹を立て、自分に『三語便覧』を贈ってこない英俊を中傷するような書簡を書いたのではと推察されます。そのことからも、既に英俊と象山との友情は冷え切っていたことを窺い知ることができそうです。象山という御仁は非常に傲慢な人で、頗る自信家でもあったので、英俊に無視されたことに大変衝撃を受けたとも考えられますが、英俊と象山がそれなりのライバル関係にあったことを示唆するものとして、象山の立腹は興味深いのであります。
 その後も英俊は精力的に字書等の著述に取り組みます。仏・英・蘭語のうち、蘭の部分を独に替えた形で、仏・英・独語の『三語便覧』を、次いで、1855年(安政2年)、『洋學捷径 佛英訓弁(全)』を刊行します。前半はフランス語についての記述で、特に発音論です。1857年(安政4年)、今度は洋学者の論文作成の一助として『五方通語』三巻が編纂されました。これはフランス語、英語、オランダ語、日本語だけでなくラテン語までも入っている五か国対照字書で、『三語便覧』とほぼ同じ分類で構成されています。この年、英俊は松代藩主に最初の仏和字書である『佛蘭西詞林』一冊を呈上しています。これは藩主から幕府に献上されたようですが、残念なことにその所在はつきとめられていません。いずれにしても、英俊の語学の才には驚くばかりです。
 この『佛蘭西詞林』献上は、幕府に英俊の学才を認めさせる又とない機会になったようで、2年後の1859年(安政6年)になると、英俊は蕃所調所(わが国唯一の洋学研究機関、後の開成所)の教授手伝として任命されることになります。英俊は、今や一人の松代藩の英俊ではなく、時代の要請に基づいて中央学界にその存在が知られ、いわゆる仏蘭西学の第一人者として注目されるようになりました。そして、本邦初の本格的仏和字書『佛語明要』四巻を刊行します。英俊の最初の字書『三語便覧』に比べる時、そこには著しい進歩がみられるのでした。英俊のフランス語の知識は、1858年(安政5年)の五か国通商修好条約の締結にあたって、仏国へ手交した条約文作成に活用されたのではないかともいわれています。英俊は日仏外交の裏舞台で活躍していたのかもしれません。
 その後、晩年に至るまでの村上英俊の足跡と、もう一人の主人公となるフランス人宣教師のメルメ・ド・カションについては次回以降で述べていきたいと思います。