本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
閑話―「仏蘭西学事始」(3)
![]() 晩年の村上英俊 |
村上英俊のその後の人生を追ってまいります。時代は日進月歩であり、英俊が苦労して修めたフランス語の知識も日を追って色褪せていくように思われてきました。
![]() なお、「達理堂」(この名称は『三語便覧』に既に達理堂蔵と記されているように、 ![]() しかしながら、前述したように仏蘭西學の主たる指導的立場は英俊から箕作麟祥へと移っており、英俊はついに明治10年(1877年)になると、「達理堂」を閉塾してしまいます。門人をとらないようになると、たちまち困るようになったのは、その経済生活です。明治5年には妻を亡くしており、一子榮太郎は放蕩三昧の生活で家に寄りつかず、とうてい頼れる状況になかったのです(榮太郎は明治16年に33歳の若さで逝去)。もはや英俊には昔日の姿はなく、フランス語を教えるという気力すら萎えてしまっておりました。生計を立てるには英俊のフランス語はあまりにも旧式なものになっていたのでありましょう。だが、フランス語の知識そのものはまだ十分に活用できるとの希望だけは捨てていませんでした。そこで英俊はフランス語と共に長年かけて修めた化学、とりわけヨード(沃度)の研究を完成しようと考えたのです。これが成功すれば、生計の心配も消えてしまうかもしれない。英俊は医薬品の分野で、このヨードの研究を役立てようとしたのです。明治12年(1879年)にはその研究を仕上げ、内務省から製薬免許證が与えられるまでになり、英俊は老躯に鞭打って製薬場の設置に奔走しましたが、残念ながらヨードの製造販売の事業は計画倒れに終わってしまったようです。そして、ついに英俊は生涯でもっとも不幸な状態に陥ってしまいました。英俊の生活は窮乏を極め、かつての仏蘭西學の大家の面影はどこにも見当たらないほどの落魄ぶりでありました。 しかし、英俊の運命の星は強かったのです。英俊の窮境をいつまでも放っておくほど、かつて世話になった門人たちは薄情に過ぎることはなかったのです。門下生の一人は、当時英俊が一室を借りて侘び住まいをしていた寺を訪れて、そこの8畳間で独り黙々と食事をとっている老いた英俊の姿に接して驚き、旧師のあまりの悲惨な生活ぶりを仲間たちに知らせました。みなで相談の結果、家賃のための拠金をして、これを英俊に届けることになりました。やがて英俊もかつての門下生宅へ足を運ぶようになり、時には料亭で門人たちと食事を共にすることもあったようです。こうして、英俊の身辺は少しばかり賑わいをみせるようになっていきました。 ![]() ![]() この頃、英俊は北豊島郡金杉村(現在の東京都台東区金杉町)で静かに余生を送っておりましたが、明治23年(1890年)1月10日、肺炎により78年に亘る生涯を閉じました。宮内省からも特使が派遣され、仏蘭西學の功績を讃えて祭粢料が下賜されました。葬儀は青山墓地で執り行われ、英俊の門に学んで、既に明治の政界、学界などでしかるべき地位をしめている旧門下生が多数会葬したといわれております。 これまで3回に亘って、世にあまり知られていない、わが国仏蘭西學の始祖と讃えられた村上英俊の波乱万丈の人生について物語ってきました。少しでも村上英俊という人物に思いを馳せていただけましたら幸甚に存じます。 それでは次に、昔々購入していたことを忘れかけていましたが、村上英俊の『三語便覧』をきっかけに思い出したメルメ・ド・カション著『佛英和辭典(FRANÇAIS-ANGLAIS-JAPONAIS)』について語ってみようと思います。メルメ・ド・カション(Mermet de CACHON,1828-1871(?))は、1828年にスイス国境近くの「ヴァン・ジョーヌ(vin jaune,黄色いワイン)」や「ヴァン・ド・パイユ(vin de paille、麦藁のワイン)」のワイン産地として有名なジュラ地方にある、ラ・ベッスのショードザンブルという集落で生まれました。ラ・ベッスはパイプの産地として知られているサン・クロードから20キロほど離れたジュラ山中の寒村です。カションはそのサン・クロードの神学校に学び、聖職者としての生涯を歩み始めました。1852年になると、カションはパリに赴き、パリ外国宣教会神学校に入学しています。ここは、海外へ多数の宣教師を派遣し、カトリックの布教に尽力している神学校です。そこで司祭となり、1854年に日本に向けて勇躍パリを出発することになりました。 ![]() 1855年に、カションは2人の宣教師を伴って沖縄那覇に到着し、やがて松尾という町に住み、日本語の学習に専念することになります。ところが、宣教師として使命を果たすためには様々な障害につきあたったようで、宗教上の反感から結局僅か1名の日本人を洗礼させたにすぎず、翌1856年には健康を害し、静養のために一時香港に渡らなくてはなりませんでした。 そして、1858年(安政5年)には、日仏通商条約締結の全権公使としてグロ男爵の来日に際し、カションも通訳として同行し、初めて神奈川・下田の地を踏んだのであります。奇しくも、英俊がこの日仏通商条約の締結にあたって、仏国へ手交した条約文作成に係ったのではないかともいわれているように、英俊は日仏外交の裏舞台で、そしてカションはその表舞台で活躍していたとは、何とも面白い歴史の巡り合わせのように思います。 ![]() ![]() さて、カションは条約締結後、一旦香港に戻りましたが、翌1859年には開港直後の箱館(函館)へ赴任することになりました。そして寺の境内に家を借り司祭館とし、教会堂を建て、塾を開きフランス語を教え、更に病院をも設立しようとしたのです。カションが箱館に滞在したということは極めて注目される事柄で、とりわけ、この地で栗本鋤雲(1822-1897、外国奉行、勘定奉行、箱館奉行を歴任。思想家。パリ万博に随行)をはじめ塩田三郎(1843-1897、外交官。清国特命全権大使)、立廣作(文久遣欧使節通訳)などの幕末から明治にかけて外交舞台で活躍した人たちにフランス語を教えたことは、その後の日仏関係の展開を促す上で大きな意味をもつことになっていきます。更には本題の『佛英和辞典』(1866年)をはじめ『アイヌ。起源、言語、風俗、宗教』(1863年)の編纂、そして今年世界文化遺産に登録され、国宝にも指定答申された富岡製糸場の先駆けともなる、栗本鋤雲が殖産興業の一環として熱意をもって取り組んだ養蚕育成の事実が、カションをして日本における養蚕への関心を深めさせたことは、『養蠶秘録』(1866年)の翻訳となって現れています。カションの『佛英和辞典』の編纂やアイヌ語語彙の蒐集、養蚕事業に対する関心などは全て箱館滞在時の成果でありました。 次回はカションの『佛英和辞典』等の著述をはじめ幕末から明治維新期にかけて、日本での活動の足跡とその人となりについて語ってみたいと思います。 |
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