本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

マドリードの旅(4)


Museo del Jamón(ムセオ・デル・ハモン)
 さて、大分寄り道をしてしまいましたが、今回から再びスペイン・マドリードの旅を続けます。ローマ時代の格言、「食べろ、飲め、遊べ ― EDE(エデ)、BIBE(ビべ)、LUDE(ルーデ)」を,ここマドリードで実践してみました。
 マドリードに着いた翌日、キロスさんが夕食に案内してくれたのが、スペインが誇る生ハムを気軽に味わえる人気の店、「ムセオ・デル・ハモン(Museo del Jamón)」です。この店はガイド・ブックに必ず載っているので観光客向けかなと思いがちですが、さすがキロスさんが奨めるだけあって、マドリードっ子たちにも大人気の美味しい店でした。先ずは、店に入って圧倒されたのは、壁一面にこれでもかと埋め尽くすように吊り下げられている生ハムの数。そして店内の押し合いへし合いの混み様に吃驚。ドアの中にさえ入りこめない人がいて、外に行列と人だかりができているほどです。1階はカウンターで気軽な立ち飲みスタイル、2階はレストランでゆっくり食事を楽しめるようになっています。カウンターで立ち飲みというのがスペイン流でしょうが、ここは既に立錐の余地もなく満杯。2階に上がることにしました。すると幸運にも、1階が見下ろせる絶好の位置の席が空いていました(キロスさんが予約をしていたのかもしれません)。さあ、これから生ハムとワインを楽しむぞ、と意気込みます。 この店の名:「Museo del Jamón」、訳せば「ハム博物館」というだけあって、メニューにはいろんな種類の生ハムが載っていて、見ているだけでも楽しくなってきます。キロスさんが、普通の白豚のハモン・セラーノからイベリコ豚のベジョータなる高級生ハムに至るまで、いろいろな種類をオーダーしてくれました。それに合わせるワインは、リオハの赤ワイン<Marqués de Cáceres Gran Reserva(マルケス・デ・カセレス・グラン・レセルバ)2005年>です。どの生ハムも実に美味い!特に、ベジョータは絶品!テンプラニーリョ種のリオハのワインとのマリアージュは絶妙です。フランス・バスクを訪ねた時に、キロスさんが生ハムはスペインの方が遥かに美味いので、もう少し我慢をしてくださいと言われたことが改めてよく分かりました。その他に、小エビのニンニクオイル煮(Gambas al Ajillo)やバレンシア風パエリア(Paella Valenciana)、モルシーヤ(豚の血と脂などでつくった腸詰)やチキンやヒヨコ豆などの入ったパエリア(Paella Embutidos)などを、時折、賑やかな声が飛び交う階下の様子を眺めながら楽しみました。スペイン料理はどれも日本人の舌に合うので嬉しくなってしまいます。
 生ハムと共にスペインらしさを感じるのは何といってもサフラン(Crocus Sativus)に彩られたパエリアです。中でもバレンシア風パエリアは発祥地バレンシアの最もオーソドックスなもので、白く煮たイカの筒切り、セピア色に焼き上げたイカ、エビ、ザリガニ、ムール貝、魚、鶏などを散らし、レモンを並べてまるで菜の花畑のようです。それを両手のついた鍋で、熱いまま運び、ドカーンとテーブルの真ん中に据えるのです。 するとサフランの美しい黄の色と匂いがテーブルいっぱいに広がって、今まさにスペインにいるのだなという気持ちになってくるから不思議です。スペインの家庭で主婦たちが、鍋でぐつぐつと貝や魚を煮る時に、先ず絶対に欠かせないのが、オリーブ・オイルとワインとニンニク、そしてサフランではないでしょうか。あのサフランの黄色い色と匂いがなくなったら、まるで、スペインから火が消えてしまったように寂しく感じるだろうなと思ったものです。因みに、サフランはアヤメ科のクロッカスの仲間で、10月頃に紫の美しい花を咲かせます。この花の雌しべを乾燥させたのが香辛料の王様といわれているものです。夜明けに開花し、夕方には萎んでしまうので、早朝に花を摘んで雌しべを取り出します。1gのサフランを採るのに160個ほどの花が必要なため、当然貴重で高価なものとなります。帰国する時に、キロスさんのお母様から瓶入りのサフランを頂戴しました。
 ここで、キロスさんの話を含めて生ハムの薀蓄話をいくつかご披露いたしましょう。イベリコ豚の話です。日本でイベリコ豚が話題になったのは今から10年ほど前のことだったように思います。何といっても「どんぐりを食べる豚」というキャッチフレーズが注目を浴びたことを憶えています。では、イベリコ豚とは何ぞやといいますと、スペインの黒豚のことです。もう少し詳しくいいますと、イベリア半島の中部から南部で飼育されているイベリカ種の豚を指します。因みに、豚のことはスペイン語で「Cerdo(セルド)」といいます。これに続けると、[o]で終わる語尾変化によって「Ibérica(イベリカ)」が「Ibérico(イベリコ)」となり、「Cerdo  Ibérico(セルド・イベリコ―イベリコ豚)」となるのです。つまり、イベリコ豚とはイベリカ種の豚で、イギリスのヨークシャ種と同じく豚の種類です。豚は血統、飼料、飼い方で味が決まるといわれています。イベリコ豚は、脂の味が格別で、特にどんぐりを食べているベジョータ(Bellota)は脂肪を食べると木の実の香りがするというのも、今回初めて食して納得しました。かすかにナッツのような香りを感じ取ることができます。 つまり、イベリコ豚の中でもベジョータの美味さはどんぐりを食べることと、放牧で時間をかけて育てるところからきているようです。日本でどんぐりというと細身で紡錘形をした椎の実を思い浮かべますが、イベリコ豚が食べるどんぐりは樫の木の実です。それも2種類しか食べないといいます。エンシーノというセイヨウヒイラギ樫とコルク樫の2つだけです。その中でも熟した実しか食べません。他の樫は見向きもしないそうです。一頭のイベリコ豚のベジョータを育てるには1トン以上のどんぐりと2~3haの樫の森が必要だと聞いて吃驚しました。
 イベリコ豚はヨーロッパに残る唯一の放牧豚で、一般的には黒い皮膚の色と毛が硬いのが特徴で、イベリア半島において昔からの食文化に深く根付いていました。ただ、当時は冷蔵保存の技術がなかったため、常温でも保存の効くように塩漬けされ、水分を除去した後に、保存食である生ハムにするのが主でした。専門的にいうと、イベリコ豚は脂肪を筋肉組織内に滲透させる能力に長けているといわれ、肉繊維のなかに脂肪交雑が多くみられることが、通常の生ハムのハモン・セラーノよりも遥かに長い熟成期間(2年~3年)に耐えうるのだといいます。そのことがどんぐりと放牧に加えて、イベリコ豚の生ハム独特のナッツのような風味をもたらしてくれる要因になっているそうです。またイベリコ豚は体内の肉や脂肪に高い濃度でオレイン酸、ビタミンB群、抗酸化物質を蓄積できており、オリーブ・オイルの組成に近いことから、“脚のついたオリーブ(の実)”ともいわれています。
 『宝島』とか『ロビンソン・クルーソー』を子供の頃に読んだことのある人は、船中の食料として「塩漬け豚が20樽」といった文章が記憶に残っているのではないでしょうか。あれは、どうやら生ハムのことのようです。ベーコンではないらしい。スモークしたベーコンよりも時間をかけて熟成発酵させた生ハムのほうが遥かに貯蔵に耐えるからです。
 イベリコ豚の味の最大の特徴は何といっても噛んだ時の食感です。普通のハモン・セラーノの場合、筋肉の硬さを感じますが、イベリコ豚はすっと歯が食い込んでいくくらい柔らかいのです。2番目の特徴は脂の甘さです。マグロのトロが美味しいのは、そこに脂の香りと甘さが入っているからであり、同じようにイベリコ豚は脂が香り高く、そして甘いのがよく分かります。他の生ハムとは比較にならないくらい、風味をもっているのです。
 生ハムの最高級品といわれる純イベリカ種のベジョータは、イベリコ豚のうち10%前後しかいないというから大変貴重なものです。更に、生ハムはスペインで年間3000万本以上も生産されていますが、ベジョータは僅か70万本といわれ、生ハム生産量の2%強にすぎません。高価なわけです。黒毛和牛の最上級(A5級)精肉とほぼ同じくらいでしょう。ところで、日本に来ているイベリコ豚の殆どはセボであって、ベジョータではないらしい。ということは、セボはどんぐりを食べないので、殆どが“どんぐりを食べる豚”ではないことになります。真正のベジョータの生ハムは非常に少ないといえそうです。
 それと食べ方ですが、生ハムは常温で脂肪が溶けてから食べるものだそうです。確かにキロスさんをはじめ周りのスペイン人たちは、生ハムの皿が届いても直ぐに手を出さずに、3分ぐらい経って生ハムが少し汗をかいたくらいの状態になってからはじめて悠然と一枚を取って口の中に入れています。こうすることで脂が溶けだして甘みと塩のバランスがよくなるそうです。やはり美味しく食べるには作法があるのですね。食べ慣れてくると、厚い切り身よりも、薄く切った身の方が美味しいそうです。厚いのをがぶりと食べるものではなく、薄い切り身を延々と食べ続けるのが生ハムの美味しい食べ方だといいます。このことは、数年前にフランス・ジュラ地方の貴族の館を訪ねた時に老貴婦人が、コンテ・チーズは厚切りにしないで、特製の削り器で薄くスライスするのが美味しい食べ方ですよ、と教えてくださったことを思い出しました。「食」とは正にその国・その地方が生んだ文化なのですね。
 ところで、外国の畜産物のなかでもイベリコ豚だけは特異な位置にいるように思われます。日本が輸入している畜産物は、ほぼ全て安いことが重要なポイントになっています。外食産業などは日本産よりも安価だから外国産畜産物を買い求めます。でも、イベリコ豚やフランスのブレス産の鶏などは、バッグの世界でいえばルイ・ヴィトンやエルメスみたいなものですから、ごく少量とはいえ高くても輸入されています。冷凍の輸入ものだけれども国産品よりも確実に高価です。しかも、こうした輸入畜産品を購入しているのは日本だけでなく、アメリカやカナダ等でも、イベリコ豚の生ハムを輸入しています。銘柄豚ではなく、正真正銘のブランド豚であれば高価であっても買い付けるのです。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に参加すれば日本の畜産物は海外製品とは競争できないとよく言われています。しかし、ここにひとつの回答があるように思います。イベリコ豚は世界中の何処へ行っても、その国の豚よりは確実に高い。しかし、欲しい人は確実にいるのです。エルメスのケリーバッグが世界中で引っ張りだこになっているのと同じ理由で、希少価値があり、しかも高品質のものは国境を越えて売ることができるからです。日本にも世界に誇れる畜産物、例えば松阪牛や神戸牛等があります。イベリコ豚に習って、よく考えてみる価値はありそうに思うのですが、如何でしょうか。
 こうして美味いイベリコ豚の生ハムを味わっていると、昔も今もイベリア半島の中部や南部に暮らす人々や動物は樫の木の恵みで生きてきたのが何となく分かるような気がしてきました。イベリコ豚はそういう土地で生まれ、スペイン人はその豚と共に生きてきたのでしょう。そのことは、この店でスペイン人たちが生ハムを食べる時の嬉しそうな笑顔を見るにつけ、スペイン人にとっての生ハムとは、フランス人にとってのチーズ、ノルウェー人にとってのサーモン、日本人にとってのマグロのように切っても切れないものなのだと思いながら、喧噪のなかのソル広場近くの「ムセオ・デル・ハモン」を後にしました。すでに11時を回っていましたが、この時間はまだ宵の口、マドリードの夜の賑わいはこれからのようです。
 今回はあまりにも美味しかったイベリコ豚の生ハムに魅了されて、その話だけで終始してしまいました。次回はキロスさんのお母様にご案内いただいた、絵タイルの装飾が見事で、仔羊料理の美味しいレストランテとチューロスとチョコラーテの老舗そしてマドリードの夜を楽しんだタブラオの名店、最後に子豚の丸焼きで有名な世界最古のレストランテをご紹介したいと思います。