本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

ボルドー展(2)


『ボルドーのミルク売り娘』
 さて、今回はゴヤの最晩年の作品をご紹介したいと思います。1827年、ゴヤが81歳の時に3点の作品を描くことになります。このうち2点(『修道士』と『修道女』)は、個人蔵のため残念ながら本物を見ることはできませんが、素晴らしい出来映えと伝えられております。もう1点はスペイン・マドリードのプラド美術館で見ることができます。これが有名な『ボルドーのミルク売り娘』(1825-1827年)です。この3点が事実上、ゴヤの絶筆といわれているものです。
 プラド美術館の2階のゴヤの部屋で、『わが子を食うサトゥルヌス』(1821-1823年)をはじめとする14枚の連作「黒い絵」の陰惨とも暗鬱ともとれる重苦しい作品群を見た後で、この『ボルドーのミルク売り娘』の絵の前に立った時、何とも言えぬ爽やかさを感じてしまいます。ここでは、ゴヤの作品に漂っていた影や風刺めいたものは一切見られず、只々静謐な、安息の表情を浮かべた女性に思わず見とれてしまいます。先ずは80歳を超えた老人にこれほど精緻で情緒豊かな描写力が残されていたことに驚かされます。前回述べた通り、この頃ゴヤの視力はめっきり衰え、眼鏡をかけた上に拡大鏡も必要とする状態での創作です。視力が衰えた画家にとっての一番の難題は光の微妙な違いを判別できなくなることでしょう。しかし、この作品はゴヤの肖像画の中でも一、二を争うと言っていいほど、微妙な光の表現がなされているといわれています。あの「黒い絵」の作品群を通過した画家の手法とはとても思えないのです。五感のうち聴覚を既に失い、視覚も失いつつある老画家がこの絵を描いたとは・・・。その手法は、半世紀後にやってくる印象派を十分予感させるものでした。アンドレ・マルロー(1901-1976年、フランスの作家、政治家)が『ゴヤ論』の結びに、「かくて、近代絵画がはじまる」と語った有名な言葉に納得がいってしまいます。
 このゴヤの82年に亘る波乱の人生の最期を飾った作品は、マハ像とも、王妃像とも市民戦争に参加した逞しいスペイン女性とも違っているし、ましてや『わが子を食うサトゥルヌス』などの陰惨とした「黒い絵」でもなく、優しい光に満ちた女性の姿であったことに救われます。ゴヤが長い闇を抜けた末に、人生の最期には光に辿り着けたことに安堵してしまいます。娘の微笑みには、悲しみと喜びが微妙に入り交じっているように思えます。この娘は毎朝、驢馬の背に乗ってミルクを家々に届け、ゴヤもまたおそらく毎朝、窓から見掛けては挨拶を交わしていたのでしょう。そして、ある時、そのミルク売りの娘を呼び止めポーズを取らせたのかもしれないし、その顔を心の眼に焼き付けたあとに、一人で絵にしたのかもしれません。
 この絵はどこか安定感を欠いた構図です。やや小首をかしげ、物想いに耽っているような表情は恋する乙女の憂いにも見えますが、娘に注がれている朝の爽やかな陽射しには希望さえ感じてしまいます。最後にゴヤはこうして若い女性を描いたのです。うら若い娘に憧れの眼を向けているかのようにも感じます。それがいかにもゴヤらしいところです。若いままの生命力が老画家の中に生き続けていたのでしょう。ひょっとするとゴヤが残した宗教画かもしれません。こうしてゴヤは全ての人間を描ききったのであります。ゴヤという恐るべきリアリストの、死を前にしてロマンティシズムがあり、このミルク売りの娘が吸い込みつつある空気は、ゴヤが死を前にして吸い込んでいる空気と等しいのかもしれません。この絵を眺めていると彼女の息遣いが聞こえてくるようです。ゴヤの死後、内縁の妻であったレオカーディアはこの絵を最後のぎりぎりまで手元に置いていたといいます。
 ゴヤは晩年に、「私には3人の師匠がいた。自然とベラスケスとレンブラントだ」と言っております。ゴヤはベラスケスと並んでスペインを代表する画家であり、2人の代表作品を数多く所蔵しているプラド美術館はスペイン絵画の至宝である証でもあります。ゴヤはベラスケスから構図を学び、そしてレンブラントからは光と闇の対比を学んだといわれております。最晩年の、この『ボルドーのミルク売り娘』は、正にゴヤが崇めてきた「自然」と「ベラスケス」と「レンブラント」への3つの想いの集大成として描かれた作品のように思えてなりません。
 絵は人生を語る、というべきでしょうか。反対に、私たちは絵に人生を見る、というべきなのでしょうか。私たちはこうして優れた絵画と巡り合い、人生を重ね合わせて、限りなく生を見守ってゆくことを忘れてはならないと思います。ゴヤの人生と心の遍歴を、18世紀末から19世紀初頭のスペインの恐るべき歴史を、そして全ての人間存在の、心の闇と欲望と、尊厳と美を。
 ゴヤの最期を看取ったレオカーディア(右図、『レオカーディア』(1821-1823年))がパリの友人へ出した手紙に、連れ添った厄介な老人の死に至るまでの様子と死を迎えた様子が冷静に描写してあります。「4月の2日、かの聖人の日に、朝5時に目覚めた時、口がきけませんでした。それは1時間後に治りましたが、体の右半分が不随になりました。13日間、そのままの状態がつづきましたが、死ぬ3時間前まで、まわりの者を見分けることができました。ゴヤは、自分の手を見つめておりましたが、意識はすでに朦朧としていたようです。・・・15日から16日にかけての午前2時に亡くなりました。とても静かで、眠っているような死顔でした。医者でさえが彼の気力に感心していました。そして医者はまったく苦しまなかったと申しておりますが、私は、そうとは言いきれなかったと思います」と。最後にゴヤが朦朧とした意識の中で自分の手を見つめていたという件(くだり)には胸を打たれるものがあります。何を思って自分の手をじっと眺めていたのでしょうか・・・。ボルドーの医者には平静に映っていても、長年連れ添っていたレオカーディアにはゴヤの苦しさが分かっていたのではないでしょうか。
 こうして、1828年4月16日午前2時に、フランシスコ・デ・ゴヤは82年の生涯に幕を下ろしたのであります。
 ところが、生前何かと周囲を騒がせたゴヤは骨になってからも静かに眠ってはいなかったのです。ボルドーのノートル・ダム教会で葬儀を終えた、この偉大な画家ゴヤの遺骸は、彼自身の墓ではなく、3年前にボルドーで亡くなった息子ハビエールのお嫁さんの父親、マルティン・デ・ゴイコエチェアの墓の中に葬られたのでした。スペインの大画家はその後50年間、他国ボルドーの地で息子の岳父と同居というか、間借りしつづけたことになります。そして1878年になって、漸く祖国を代表する大画家の遺骨をマドリードに迎えて墓を建てるべきとの声が湧き上りました。ところがスペインという国は物事を決めるのに時間が掛かり、たとえ何かが決まっても次にそれを施行するには更に歳月を必要とするようです。どうやらその事情は当時のフランスでも同じでした。結局、両国の交渉だけで10年も要し、1888年7月、ボルドーにおいてゴヤの、正確にはゴイコエチェアの墓が開かれました。ところが、墓石をのけてみて、皆驚いてしまったのです。2人の棺は既に腐敗し果てていて、お互いの骨は、どれがゴイコエチェアかゴヤなのか、弁別不可能なほどごちゃごちゃになっていました。その上、驚いたことに頭の骨がひとつしかなかったのです。その頭蓋骨はゴヤのものではないことが判明しました。当時、ヨーロッパでは骨(脳)相学というものが流行していて、偉人、英雄の頭の骨を盗む不届き者が続出していました。スペインとフランス両国の当局者は頭のない骨を見て困り果て、再び墓の蓋を閉めてしまったのです。そうしてまた13年の歳月が経ち、ゴヤとゴイコエチェアの骨はマドリードに戻りました。ところが、さて何処に納めるべきか、相応しい場所が見つからず、聖イシドロ教会に仮に安置されることになります。その18年後になって漸く、ゴヤが1798年に天井にフレスコ画『聖アントニオの奇蹟』を描いたサン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ教会(マドリード市内にある小さな聖堂ですが、ローマ法王庁の直属の教会です)に安住の地を見つけたのであります。実にゴヤが亡くなってから、91年目のことでした。いかにアスタ・マニャーナのスペインとはいえ、随分と長くかかったものであります。

 このフロリダ教会のフレスコ画はゴヤの作品中でも傑作といわれるもので、この天井に描かれた自作画をゴヤとゴイコエチェアのごちゃまぜの遺骨が、その真下から眺め上げているのです。しかもその遺骨にはゴヤの頭がなくて、ゴヤに代わってゴイコエチェアの頭が見上げているという構図です。そして、その教会の背後の丘が、ゴヤの描いた『1808年5月3日』(1814年)の銃殺刑の舞台になったプリンシペ・ピオの丘というのも妙な巡り合わせです。それは82年に亘る波乱に満ちたゴヤという怪物の生涯に相応しいと思えば妙に納得してしまう気がいたします。

 『ドン・キホーテ』の終章で、セルバンテスはこう書いております。「人間にまつわる事柄は全て永久不変ではない。常にその初めから、最後の結末まで下降をつづけてゆくもので、こと人の命に至っては、なおさらである」と。かくて、ドン・キホーテの命も、またゴヤの命も、その過程を押し留める神様の特別のご加護を頂戴していたわけではなかったのです。だから、ゴヤは「おれはまだ学ぶぞ」と憤慨しつつも死んでいったのでありましょう。
 ローマ時代より多くの人に愛されてきた箴言、《MEMENTO MORI(メメント・モリー、死を忘れるな)》をここでもう一度思い起こし、命の儚さ、大切さをかみしめる必要がありそうです。
 Adiós Goya(さようなら、ゴヤ)!

 今年も一年間に亘り駄文《ボルドー便り》をお読みくださりありがとうございました。本駄文が原田先生の栄えあるHPに掲載をはじめてから早や11年が過ぎ去ろうとしています。大変感慨深いものがございます。
 Je vous présente mes meilleurs vœux pour l'année 2016 ― 2016年があなたにとって良い年でありますことをお祈り申し上げます ―