本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

恩師と一冊の本の思い出(1)

「熊本地震」の犠牲者と被災者の方々に心からお悔やみとお見舞いを申し上げます。
被災地の一刻も早い復旧・復興をお祈り申し上げます。

 「オバマ米大統領が88年ぶりにキューバを訪問した」と、2016年3月22日付け朝刊一面トップに大きく報じられました。オバマ大統領はカストロ国家評議会議長とハバナ市内の革命宮殿で共同記者会見し、今回のキューバ訪問について「米大統領がハバナにいる光景は半世紀以上に亘って想像もつかないことだった」と述べ、歴史的節目だとの認識を強調しました。こうして東西冷戦の傷跡ともいえる両国の対立に終止符を打ち、かつての敵との関係改善は大きく前進したのであります。
 ここで真っ先に思い起こすのは、1962年10月の「キューバ危機」です。全世界が、核戦争の危機に直面し第三次世界大戦勃発の恐怖に固唾をのんでキューバを見守っていました。では、何故私が唐突に今、この駄文《ボルドー便り》の中でキューバ問題に言及したのかといいますと、「キューバ危機」を思い出したとたんに、わが大学の恩師のことが懐かしく蘇ったからなのです。実は、私が慶應義塾大学の4年生の時に、恩師であられた佐藤亮一先生(1907-1994、毎日新聞記者を経て、慶應義塾大学、慈恵医大、共立女子大学教授、後に日本翻訳家協会会長、1984年に国際翻訳家連盟から翻訳家のノーベル賞ともいわれる国際翻訳賞を受賞)から、就職も決まり、あとは卒業論文を仕上げるだけで少々暇にしていたのか、勉強のために翻訳をやってみないかとお声を掛けてくださったのです。そのタイトルは『ペンコフスキー機密文書(The Penkovskiy Papers)』(1966年、集英社刊)というものでした。その謎に満ちたタイトルにも惹かれ、己の浅学菲才を顧みずに、是非やらせてくださいとお願いいたしました。この『ペンコフスキー機密文書』こそは、オレグ・ウラジミロビッチ・ペンコフスキーなるソ連陸軍参謀本部中央情報部陸軍大佐が西側にもたらした機密情報によって、時の米大統領ケネディ(1917-1963)が核戦争の現実的な危機を回避することに成功する大きな原動力になったのです。
 本論に入る前に、恩師佐藤先生と私の関係を少し述べてみたいと思います。私は慶應へ入学した時に、父親の趣味で、わが家が東京から若草山や大和連山を眺められる奈良郊外の近鉄「学園前」というところに引っ越して、末っ子であった私一人が東京に下宿することになりました(父は引っ越して半年後に他界)。この下宿先(新宿区下落合)が実に環境のいいところで、目の前は大日本印刷社長北島織衛邸、その奥は石橋湛山元首相邸、右斜め前は安倍能成元学習院院長邸、左斜め前は銀座ワシントン靴店社長邸と大きな屋敷が軒を連ねていました。当時人気TV女優であった磯村みどりさんの実家も近くにあって、学校の行き帰りにひょっとすると会えるのではないかといつも密かな楽しみとしていました。そして下宿から7~8分ほどのところに、通称「目白文化村」と呼ばれた緑一杯の場所に佐藤先生宅がありました。週に2,3回はお邪魔して、多感な大学生時代に大きな影響を受けました。その後の自分の生き方にも大きく影響していったように思います。そこには絶えず大学の先生をはじめ編集者、新聞記者、写真家、翻訳家そして学生たちが屯しておりました。茶の間の掘りごたつはいつも先生を囲んでぎっちり詰まる盛況振りでした。すき焼き等のご馳走があると先生の奥様から下宿によくお誘いの電話があり、喜んでほいほいと出掛けたものです。
 先生は正に慶應出身を絵に描いたような白髪の紳士でありました。ところが、青森のご出身であったので東北訛が最後まで取れなかったようで、それが却って親しみを益し愛嬌でもありました。先生は青森弁を楽しんでいらっしゃった感もありました。そして、先生のトレードマークといえば絶えずピースを左唇に挟んでいる姿で、ヘビースモーカーでもありました。授業中でも「学生は吸うな、わしは教師だから吸う」という始末です。でも試験の時などは「そんながつがつと直ぐに書き始めずに、ゆっくりと一服吸ってから答案に向かえ」と言われましたが、誰一人としてその通り煙草を吸う余裕のある者はいませんでした。先生ご自慢のプラチナ色に輝く白髪も、休みなく立ち昇る煙に、一か所だけ金色に染まっていたように記憶します。
 さて、前置きはこの位にして本論に入ります。佐藤先生から当時TBSブリタニカ社長であった知日家であり知識人としても知られていた米ジャーナリストのフランク・ギブニー(1924-2006)の編纂された一冊の本、『The Penkovskiy Papers』(英文)のうち50ページほどを原稿用紙と共に手渡してくれました。初めての翻訳ゆえ緊張して受け取ったことを覚えています。暫くは夢中で辞書と首っ引きで只管訳し続けました。漸く自分なりに推敲を重ねて納得いく翻訳ができあがり、原稿を先生にお持ちしました。先生は実に丁寧に原稿を添削してくださり、朱書きで原稿用紙は真っ赤になってしまいました。この原文はこのように訳すべき、この単語はこの訳の方がいい等々、細部に亘り懇切丁寧にご指導をしてくださいました。恐らく先生がはじめからご自分で訳された方が遥かに楽だったし、時間の短縮になったと思われます。それを私の勉強のためを思って、敢えて初めて翻訳をやらせていただいたことに心から感謝しております。学生にとって、またとない貴重な経験となりました。あの時は先生宅にタス通信の現役の記者も集まって、アメリカのCIAやFBIと違い、当時ではまだ珍しかったソ連のKGB(国家保安委員会)やGRU(ソ連陸軍参謀本部中央情報部)等のソ連軍の略語をどう日本語に訳すか議論したことも、今となっては懐かしい思い出です。
 常日頃先生がおっしゃっていましたように、単に辞書をひきながら訳すだけでなく、翻訳とはその著者の内面に如何に近付くか、なりうれば著者と一体となることであるという教えを身をもって体験することができました。一体となることが至上であることは頭で理解できても、大変至難であることを。『北京好日』等の著者として高名な中国が生んだ偉大な作家林語堂(1895-1976)は、かつて佐藤先生にお会いした時にこう言われたといいます。「翻訳の極意は女性の脚に絹のストッキングをはかせる気持ちでやりなさい」と。兎も角、一応訳し終わりました。先生は朱書きで直された原稿を記念として私にくださいました。そして遂に、1966年11月25日に立派な装丁の『ペンコフスキー機密文書』(368ページ)が、集英社から出版されたのです。それはもう嬉しかったです。少しだけでも私の文章が初めて活字になったのですから。

 ここで、『ペンコフスキー機密文書』の概要を述べてみたいと思います。「キューバ危機」が最高潮に達した1962年10月22日に米大統領ケネディは、テレビとラジオで演説をし、ソ連がすでにキューバにミサイルをもっていること、キューバの海上封鎖をすることを発表し、ソ連に既存のミサイル撤去を求めたのでした。偶然にも、この日ペンコフスキーはGRU(ソ連陸軍参謀本部中央情報部)の外で逮捕されました。そして、翌年5月11日、モスクワのソ連最高裁判所の法廷で、オレグ・ペンコフスキーなる44歳のソ連陸軍の情報大佐が、反逆罪で銃殺刑を宣告されたのです。西側各国でも暫くの間、新聞の記事や論説の大きな注目を集めました。それもその筈、1961年4月から1962年8月まで、ペンコフスキーは、当時のソ連の政治上軍事上の極秘情報に関する中でも、特に最重要な情報を西側に提供し続けてきたからです。ペンコフスキーがこの情報活動についていた間の16か月は、フルシチョフ体制とジョン・F・ケネディの新政権との間がとりわけ緊迫した危機の時期でした。思い起こせば1961年は、ベルリンの壁の年でありました。フルシチョフの脅しは、必要とあればベルリンや東ドイツの平和条約を巡って、軍事的対決を迫るというほどになりました。1962年は引き続きベルリン危機とソ連の長距離ミサイルのキューバ持ち込みの年であり、1962年10月モスクワとのミサイル対決ではアメリカの成功裡に終わったものの、神経をすり減らす策謀の年でありました。この成功の鍵となった要因は、キューバ領内に置いたソ連ミサイル基地の規模と内容を見抜くことができるという、アメリカの偵察能力にあったのは確かです。しかしながら、この対決のあと安堵のため息をついた当時の全世界の人々も、 その陰に一人のソ連人将校の貴重な通報がアメリカの成功を可能にし、核戦争を忌避させたという事実を知るよしもなかったのです。アメリカの偵察によって、ペンコフスキーのもたらした情報が正確であったことを裏付け、特にソ連のミサイル陣地の配置図はその有用性を発揮し、ケネディ大統領の対ソ連への強硬な発言に繋がったのです。実際に、ペンコフスキーの機密情報は、西側に偉大な貢献をなしたのであります。
 この機密文書は急いで書いた一連のメモ、説明、論評などで、これを書き始めたのは1961年の初め、ペンコフスキーが最初の西側情報機関との接触を求めていた当時のことです。そして、1962年の秋、ペンコフスキーが逮捕された頃、この機密文書はソ連から密かに東ヨーロッパのある国へ持ち出されたのです。この文書の中にある個人の記録、家族の写真、共産党員としての党員証、公式命令書の写し等は、ペンコフスキー自らが提供したものです。ペンコフスキーの情報の幅は、文字通り百科事典にも匹敵します。この機密文書は、自ら単独の、絶望的な、殆ど勝ち目のない勝負と知りながら、それに挑んだ孤独の男が書き綴ったものです。この文章は怒りに燃えた抗議、訓戒、冷静な説明が奇妙に組み合わされたもので、順序には殆ど配慮せず、文体には全く頓着なしに書かれております。著名な人物に対する極めて個人的な論評のあとに、戦術や武器に対する技術的な観察に言及するということもあります。しかしこれが、どうみても、誰にも打ち明ける相手がいないという人間の政治的な意見、警告、観察を表したものであったことは明白です。この文章は意識的な遺言というべき性格のものでありました。最後の部分は、ペンコフスキーがKGB(国家保安委員会)の監視下におかれ、逃れる見込みは殆どないことを自分で知りながら書き綴ったものです。
 では何故、軍人としてエリートの道を歩み続け、出世を望む野心家でもあり、ソ連の権力の座に近い地位にあった一人の情報将校が、国を裏切ったのかという疑問が絶えず付き纏います。この人物が普通のスパイと違っているのは、自ら自由意志で西側のスパイになることを決心したことであり、そしてスパイ映画によくあるように、この事件にはボンドガールのような女性が一人も係わっていないことです。ペンコフスキーは、忠実なる家庭人でもありました。最後の危機が身に迫った時、彼の頭に浮かんだのは、自分の家族を何とかしてソ連の国外へ救出させることでした。ペンコフスキーは金銭欲のためにスパイを働いたとは到底考えられません。ペンコフスキー大佐をしてソ連政府に対して積極的な反逆者に仕立てたものは、敢えて単一要因を挙げるとすれば、何よりも、恐らくフルシチョフ(1894-1971)の冒険主義によって触発されるかもしれない、突発的な核戦争への恐怖だったと考えるのが正しい答えのように思います。ペンコフスキーは、ソ連の核戦争準備だけでなく、フルチショフが核戦争の脅威を利用しようとする無謀さについても、その真相を知る数少ない一人だったからです。彼は明らかにフルシチョフとソ連の指導部を憎んでいました。そして「わが共産主義社会」と呼ぶものは、ひとつの欺瞞に過ぎないものだと信ずるに至ったのでした。何とかしてエネルギーを絞り出し、ソビエト連邦の偉大なる要素と生活力を平和的目的へと転換させることが必要である。大きな世界的闘争を引き起こさせないためにも ― これは私が、私の観察したことを、アメリカ合衆国とイギリス国の人々に対して書いた真の理由である、とペンコフスキーは述べています。
 ソ連の真実のスパイ活動、命を賭してまで自国の機密情報を西側に提供しつづけた、その手記の一部を訳し終えた時、私は何かずっしりと重いものを感じました。まさに“事実は小説よりも奇なり”です。ペンコフスキーの情報によってケネディ大統領が「キューバ危機」に攻勢に出、やがてそれがフルシチョフの失脚に繋がっていったのです。だが、ケネディは、フルシチョフが国内での批判に晒されて暴発を防ぐため、この対決でアメリカが勝利したなどとは、決して口にしてはならないと周囲にクギを刺したといいます。ケネディの卓越した交渉能力と人間性を物語っているエピソードとして興味のあるところです。やがて1990年にソビエト連邦はあっさり消滅し、今やロシア国になってしまいました。21世紀初頭の今では、ペンコフスキーは正しいことをしたと思えますが、歴史的な評価はまたいずれ変化するかもしれません。
 2016年4月1日に53か国の首脳級が参加してワシントンで開かれていた「核安全サミット」が閉幕し、オバマ米大統領は議長として、「世界の核物質がテロリストの手に渡らないよう保護する取り組みにおいて、重要で意味のある進展があった」と述べています。今やソ連、アメリカという2大核保有国の脅威に代わってテロリストという新たな大きな脅威が出現しています。
 また、4月10日、11日と2日間に亘って広島で開催された主要7か国(G7)外相会合では、最終日の11日に初めて核保有国の米・英・仏を含むG7外相が揃って広島の平和記念公園を訪れ、原爆死没者慰霊碑に献花し、広島平和記念資料館(原爆資料館)、更に急遽原爆ドームの視察も実現しました。そして、核軍縮・不拡散に向けた決意を示す「広島宣言」を採択し、閉幕しました。このように世界で「核兵器のない世界」を実現する機運は徐々に高まりつつありますが、一刻も早い具体的な“真の実現”を願ってやみません。
 『ペンコフスキー機密文書』とは、僅か半世紀ほど前に起こった一人のソ連軍情報将校の“死を賭した勝利の記録”です。この孤独な一連の活動が核戦争を止める役割を少なからず果たしたことに思いを馳せていただければ幸いであります。
 Adieu,Monsieur Penkovskiy!

 次回も折角の機会ですので、恩師佐藤亮一先生についてもう少し語ってみたいと思います。