本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
恩師と一冊の本の思い出(2)
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恩師佐藤亮一先生の思い出をつづけます。先生が翻訳された本のタイトルの中で一番有名になったのは、 ![]() 『翼よ、あれがパリの灯だ』は映画(ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・ステュアート主演)にもなりましたのでご存知かと思います。ただ、大方の人は映画の題名をそのまま本のタイトルにしたと思っているかもしれませんが、先生の名誉のためにも、実際は本の方が先であったことをここで明言しておきます。本の反響が余りにも大きかったために、映画会社の方から是非このタイトルを使わせて欲しいと頼まれたのが実情なのであります。翻訳書のタイトルを決めるにあたっては、原題どおりかどうか、あるいは作品の本質を表しているかどうかがカギになると思われます。出版社側からみれば、 ![]() ところで、佐藤先生は青森県名久井岳の麓の静かなリンゴ園に囲まれたのどかな村で生まれました。村中が家族のように人情深い温かさがあって、純粋な東北の農村の香り豊かな時代であったと、少年の頃の思い出を懐かしそうにお話しくださったことを思い出します。中学生の頃は英語と野球に熱中したそうです。中学生になって初めて買った辞書は三省堂のコンサイスで、その後も研究社の英和、和英大辞典などを次々に、東京に頼んで送って貰ったといいます。何故か英語は先生に向いていて、不思議なくらい次々と英文法をスポンジに水が染み込む如く吸収していったと。そして、慶應義塾大学が特に英語に力を入れ、福沢諭吉先生の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という教えに感動し、大学は慶應一本に絞り、上京したといいます。先生は母校慶應をこよなく愛していたことが、当時塾生であった私たちにもよく分かりました。先生は少年の頃、翻訳の道を歩もうとは思っていなかったようです。しかし、飯よりも英語が好きだったこと、何故か英語が向いていたこと、好奇心が旺盛であったこと、視力が抜群に良かったことなど、いろいろの要素が重なって翻訳家の道を選んだそうです。 ![]() 前回も述べました通り、先生の御宅は茶の間を誰にでも開放していましたので、若い編集者や大学生らがいつ飛び込んできてもいいように、奥様は食事の献立を変幻自在に組み立てるコツを習得しましたと笑いながらお話ししておりました。さぞ大変だったことと思います。先生が翻訳の仕事をされている掘りごたつの周りにはいつもいろいろな職業に就いている人たちがぎっしり詰まって話が弾んでいました。先生は新聞社の騒々しい中、またどんな場所でも原稿を書くのに慣れていたようで、私たちの賑やかな話し声を気持ちよい伴奏くらいに思われていたのでしょうか、独り黙々と仕事を続けられて、途中疲れると仲間に入られ話したり、笑ったりされて結構楽しそうでした。 先生の座っておられる周囲には分厚い辞書類や資料が山積みされていました。先生は一冊の本を訳す前に、先ずその年代の考証から始めたそうです。大抵大学ノート一冊くらいの調査をし、その国の歴史、風俗、習慣、その頃の世界情勢、著者の略歴など、頭にしっかり叩き込んでから翻訳の仕事を開始されたと。翻訳の仕事には、徹底した調査に基づく謎解きの要素がかなりあるからなのでしょう。このことは偶々最近友人に奨められて読んだアジアで初のショパン国際ピアノ・コンクールの優勝者であった、ヴェトナムのダン・タイ・ソンのことを書いた『ショパンに愛されたピアニスト―ダン・タイ・ソン物語』(伊熊よし子著)の中で彼が、「ルバート(テンポ・ルバートのこと。意味が少しややこしいのでここでは略します)を本当に理解するためには、 ![]() 先生はよく知っている言葉でも辞書はおろそかにせずに丹念に引き、そしていくつかの言葉の中から、一番適した言葉を自分でつくり上げていくのが楽しみであったと。最終的にひとつの訳語を決めるのに1か月以上もかかったこともあったようです。翻訳という仕事は知識や判断力そして人生経験の全てをつぎ込んでおこなうものだということがよく分かります。翻訳のように、人生経験の何もかも反映できる仕事というものは、そう多くはないだろうなと漠然と思ったりもしました。そして同時に、翻訳の作業では、通常では考えられないほどの深さで調べ物をする必要があることも。何か先生を見ていると一日中辞書とにらめっこをしているようでした。キャリアが長くなればなるほど、思い込みによる誤読の恐ろしさが身に染みて分かるからなのでしょうか、調べ物には絶対に手を抜かない姿勢を感じたものです。先生は英和辞典、英英辞典だけでなく、国語辞典もこまめに引かれていたように思います。 ![]() ![]() 佐藤先生の自著、訳書は170点以上を超えます。優れた翻訳をするためには、優れた作品を訳さなくてはいけないとの思いが、数々の名作の翻訳へと繋がっていったのでしょう。 ![]() ここ迄で紙数が尽きてしまいました。先生には北京での従軍記者時代に過酷な収容所生活を強いられたことを記した、『北京収容所』という自著があります。佐藤先生の人生をご理解いただくためには避けて通れない事件ですので、次回に他のエピソードと共に述べさせていただきたいと思います。 補記 先日、私の主催する、《ワインと音楽》の会が青山の「ミュージアム1999 ロアラブッシュ」で開催され、先般パリ高等研究院から日本古来の“言霊”の研究で、栄えある博士号を授与されたキロスさんを皆様でお祝いしました。そして、彼の故国スペインに敬意を表し、スペインの生んだ20世紀前半で最も影響力のあるチェリストの一人であり、作曲家としても有名なガスパール・カサド(1897-1966)作曲の<無伴奏チェロ組曲 第一楽章 プレリュード・ファンタジア>の素敵な演奏をお聴きいただきながら、スペイン北部のガリシア州の名手ヘラルド・メンデスが樹齢300年以上の葡萄からつくった<アルバリーニョ・ド・フェレイロ“セパス・ベリャス”2013年>で乾杯しました。当日のワイン:Champagne Brut“Clavier(鍵盤)”,Albariño do Ferreiro“Cepas Vellas”2013,Château Trotanoy2003,Château Doisy Daëne2003 当日壇上で、キロスさんから私に博士論文『Sens et fonctions de la notion de《koto》dans le Japon archaïque-Actes de parole,parole des actes-上代日本における「コト」概念の意味と機能―言語行為と行為の言語』(500頁)を贈呈していただき大変感激し嬉しい気持ちになりました。キロスさん、ありがとう!良い記念になりました。今後益々のご活躍を期待しています。 ![]() |
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