本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

(別紙)

 いまの若い人は、私と佐藤との間の、家庭問題など知らないだろうが、この際はっきりさせておきたい。私の妻が私とわかれて、佐藤夫人になるについては、佐藤が始終私の家に出入りしていたので、妻との間に間違いがあって、私とわかれ、佐藤のところへ行ったと思っている人が多いが、そんなことはなかった。
 (略)その時分(昭和4,5年〔1929-30〕頃か。筆者註)、私はまだ阪急の岡本に住んでいた。佐藤は郷里が新宮辺で、当時は大阪から、船で国へ帰っていたから、大阪へは始終来ていた。来れば私のところへ泊っていた。この話(谷崎夫人千代が谷崎と別れて、佐藤の妻になる。筆者註)がきまってからも、佐藤は、私のところに泊まっていた。
 (略)
 いま、よくおぼえていないが、ある晩、佐藤が神戸に出て、アカデミーというバーに行った。このバーは、場所はかわったが、いまの加納町にあるなかなかいいバーで、当時は阪急の終点の上筒井にあった。私はそこがひいきで始終行くので、佐藤も行ったが、その晩、佐藤はここでひどく酔って帰って来た。彼は酒は飲まない男で、少し飲んでも赤くなって、息苦しくなったが、その晩はブランデーを、一ビンの半分くらい飲んだらしい。どうしてそんなに飲めたか、不思議だが、翌日に軽い脳出血を起した。顔がゆがんで、なにかいうことがわからない。ふだんは非常に、しゃれやこっけいなことをしゃべったが、このときは、ろれつのまわらないままに、こっけいなことをいっていて、気味が悪かった。妻はもう佐藤夫人になっているはずであったから、これは随分彼女を苦しめたことであろうと、気の毒に思った。
 佐藤は、若い時から才気煥発で口が達者で、気骨もあり、けんか早いところがあったが、この時電報をうつと、すぐお父さんがとんできて、「少し無遠慮過ぎるところのある男だから、いくらか気が弱くなったほうが、よござんすよ」といっていた。
 しばらく私のところで静養し、顔の曲ったのは、一日か二日でなおったので、安心したが、完全に回復するのに、一、二年かかった。その間は、書くものも、全然間が抜けていたし、佐藤はどうしてあんなにボケたのかと、いうものもあった。回復するにしたがって、また才気煥発になり、機鋒の鋭さももどったが、でも、もう若いときのような、おそろしい鋭さはなかった。
 この時のことは、佐藤の文学によほど影響していると思う。私としては、若いときのもののほうがなつかしいし、私が影響を受けたのも、それ以前の佐藤の文学にあるという気がする。

(了)

(谷崎潤一郎著『佐藤春夫のことなど』より)