本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

奈良の思い出(1)―東大寺「結解料理」

東大寺「結解料理」

 14年に亘り当駄文をHPに掲載して貰っています高校時代の友人、原田義昭氏が今次衆議院総選挙で目出度く8回目の当選を果たされました。同期の一人として誠に誇らしく嬉しい限りです。心から御祝い申し上げます。今後国政での更なるご活躍を祈念しております。
 
 今回は古都奈良についてご案内してまいりましょう。
 実は、私が大学一年生の時に、父の半ば趣味というか道楽のようなもので、住み慣れた東京から奈良市郊外の近鉄「学園前」に移り住みました。遥か彼方に大和連山と若草山を望み、裏手に松籟を聞く高台にあって、座敷から四季折々の眺めを楽しむことができました。父が日頃から家の設計図を独り黙々と書いていた、その望み通りの和風建築の家を奈良の大工職人に頼んで建てたのです。大きな生駒石の生垣で、枯山水の庭を配し、ゆったりとした家でした。奈良の冬は寒かろうと、スイス製の特注の大きな暖房装置まで備えましたが、和風建築の家を全室暖房するのは当時の技術では難しかったようで余り上手くいきませんでした。ところが、これから庭の造作等をして余生を楽しむはずだった父が半年足らずで急逝してしまいます。享年62歳でした。東京から唯一運んできた、父が丹精込めてつくった形と枝ぶりのよい大きな躑躅が庭の中央で静かに見守っていました。
 右も左も奈良の事情が分からない母は途方に暮れ、正倉院近くの空海寺(正倉院傍にある東大寺の菩提寺。志賀直哉著『蘭斎没後』や司馬遼太郎著『街道をゆく』にも登場する古刹)の森川住職に葬儀の一切をお願いし、その後も大変お世話になりました。私は大学と社会人になってからの新婚時代を含めると彼是8年ほど父の遺した奈良の家に母と一緒に住むことになりました。
 それが縁で、ある時東大寺で催された「結解(けっけ)料理」の宴に母を招いてくださり、私も同席することが許されました。予てから「結解料理」という名前だけは聞いておりましたが、まさかそのお振舞いに私までも与かれるとは夢にも思っていませんでした。はからずも、東大寺並びに空海寺のご厚意により、文化人等とご一緒にその饗宴に参加するという幸運を得ました。

 「結解料理」とは余り聞き慣れない料理だと思いますので、その時の様子を、私の『食べ歩き帖』と記憶を辿りつつ、『東大寺辞典』を参考にして語ってみたいと思います。東大寺の行事のなかでも、大変趣のあるといわれる「結解料理」をはじめて食してから早や半世紀ほど経ってしまいましたが、その時の味覚と情景はいまだに私の脳裏を去ることなく、昨日のように蘇ってまいります。
 先ず、「結解料理」の起源自体ははっきりしないようですが、その料理の内容からして、恐らく室町時代頃のことと思われ、江戸時代の中頃に至って今日の料理の体裁が整ったらしく、中世的な僧院の食礼を今日に伝える貴重な料理といわれております。この料理の謂れはいろいろあるようですが、荘園よりの年貢米が無事に収納され、寺の倉が豊かになった喜びのお祝いとして、庄官名主たちに東大寺独特の料理を振舞って、その労をねぎらうために催されたとする説が有力のようです。
 季節は晩秋でありました。母と共に東大寺南大門をくぐり大仏殿へ向かう道すがら、 右手に見えるのが今宵の宴の場所である、白河上皇の行幸以来、天皇・上皇の御所となり、源頼朝も滞在したという由緒ある東大寺本坊(875年創建)です。時刻は夕刻。昂りを覚え、緊張感が走ります。案内された部屋は30畳ほどもある細長い大きな座敷で、開け広げられておりました。上手と下手には屏風が立てられ、下手の方は屏風で配膳の間が仕切られております。そして屏風と屏風との細長い宴席に、招かれた客が八人ずつ向かい合って座ったと思います。片側に三つずつ燭台が客席の間に配され、百匁蝋燭(ひゃくめろうそく)が灯されてあります。暮れやすい晩秋で、宴がはじまる頃には外は既に暗くなり染めていましたが、室内の灯りといえばそれだけです。瞬時に夜の世界に変わり、幽玄の中で古式に則り粛々とすすめられていきました。何から何まで昔のままの演出で行われますので、暖房といえば小さな手あぶりのみで寒気がみなぎりわたります。緋毛氈は敷いてありましたが、座布団はありませんでした。
 一番の上座には、この宴席の主である上司海雲(かみつかさ・かいうん)師(東大寺住職、華厳宗管長、文学・芸術を愛し、東大寺観音院で文化人のサロンを形成し、志賀直哉(小説家)、杉本健吉(画家)、会津八一(歌人)、入江泰吉(写真家)等が出入りする。1906-1975、空海寺に眠る)が座られ、住職自らが終始この料理の説明や解説にあたってくださいました。
 初めに、袴、白足袋姿をした二人の給仕人によって、手向山(たむけやま)八幡宮に供えた御神酒を入れ、奉書をさした大きな二つの錫の瓶子を載せた三寶が、上手の屏風の前に供えられます。それが終わると、同じ二人の給仕人が左右に分かれて、夫々座敷の左右に居並ぶ八人ずつの客の一人一人に丁寧に食膳を運んでまいります。それもゆっくりと時間をかけて、折り目正しく重々しく給仕され、そして御酒が鄭重にお酌されていきます。驚くことに、食膳が運ばれてくるたびに、座るにも、立つにも、隣の客の前に移るにも、二人の給仕人は完全に動作を揃えて行い、客に一々丁寧に挨拶をする手順も一つとして省かないのです。それでいて、二人の無言でいながらも、ものやわらかに和やかな物腰と仕草が母と私の緊張した心をいつの間にか和らげてくれていました。ゆっくりとゆらめく蝋燭の灯に、人影が黒く大きく動く様がとても印象的で新鮮な感動を覚えました。まさに影と形の芸術のごとく、しかも絵にかいたように同じ動作を繰り返して、荘重な調子で進められていく様は実に見事で、これが古式に則った中世の僧院の食礼なのかと只々感心し、まるで夢の中にいるような気分でした。
 それではここから、料理の内容について述べていきます。当日配られた献立を見ますと、「初献」、「貮献」、「参献」と分けられております。即ち、これは「一の膳」、「二の膳」、「三の膳」のことでありましょう。夫々に料理名が記されてありますが、その凝った献立の料理名からだけでは、果たして如何なる料理が供されるのか見当もつきません。御酒は折り目正しい冷酒で、白い土器(かわらけ)を用い、驚くことに客は勝手に飲むことはできず、給仕人から料理の間々に瓶子から順々に注いでもらうので、その注ぐ時もちゃんと献立に「御酒」と書いてある時でなければお酌してもらえません。
 「初献」では根来塗(ねごろぬり)の平膳の真中の猪口の上に、よく料理屋などでやる盛鹽(もりじお)の形で、白砂糖が山盛りに盛られていました。これは砂糖が貴重な存在であった頃の名残なのでしょう。それと一緒に四ツ目椀に「小豆餅」が三つ出てきたのに度肝を抜かれてしまいましたが、これも後の酒杯を傾ける時の漢方的に必要なことらしい。その他三つ目椀には揚豆腐に胡椒をかけた澄まし汁。左上には豆子(まめこ)に季節の野菜の酢味噌和えが置かれ、右上の隅には椿皿という根来塗の椿の花の形をした小さな木皿に奈良漬を五斗俵の形にして、五つ積んであります。献立にある「二石五斗」で、五斗俵五つで二石五斗というわけなのでしょう。これも年貢米収納に関係があるのかと思いました。また肴の御重には氷豆腐。そして「初献」の御酒は漆塗の酒入れを用いていますが、これは赤く取手が長いことから天狗といいならわされているそうです。

 「貮献」に移ります。平膳に木皿、飯椀、胡椒包がのせられて運ばれてきました。ここで「堂の峰」と称されるものは、法蓮草(ほうれんそう)のおひたしが堂の屋根型に積まれてあるのです。その横に梅干と芥子の団子がそえられて、これに折かぶとの型をした胡椒包があります。これは後に配られる四ツ目椀の素麵(そうめん)の調味料にあてられるのです。この「素麵だしかけ」は実に美味しく、皆様お替りをしていました(給仕人から「御替」といわれて勧められるものがあります)。お吸物は片木盆にのせられて御坪が出され、これに煎餅麸と針生姜が浮かされています。また御重には薩摩芋の揚物を持ち運んで進められていきます。御酒は「初献」と同様に、献立に「御酒」と書いてある時でなければお酌してもらえません。

 「参献」では、平膳に浅草海苔をのせ、根来塗の椿皿に短冊形の「陳皮(ちんぴ)」、平椀に「水仙の胡桃だしかけ」の汁物が出されます。「陳皮」とあるのは、蜜柑の皮に砂糖をまぶしたもので、なかなか乙な味でした。今では蜜柑なぞ珍しくもないですが、昔は異国から渡来したばかりの貴重極まる珍果だったことでしょう。その蜜柑は皮さえも重んじて、貴人の食膳にのぼったのかもしれません。「陳皮」は食欲をすすめ、香りもまた珍しかったのではないでしょうか。「水仙胡桃だしかけ」というのは果たして何だろうかと見当がつきませんでしたが、これは水仙の根の澱粉を葛のように使ったものらしく、その中に胡桃が入っています。薄青い色が蝋燭の光で見ると実に美しい。そして三つ目椀に松茸の吸物をつけ、更に酢蓮根が出されます。御酒は「初献」、「貮献」と同様に、献立に「御酒」と書いてある時しかもらえません。

 最後に「紅白朧(おぼろ)饅頭」と「結昆布」そして「抹茶」が出されて終宴となります。万事ゆっくりと運ばれ、宴は三時間ほども掛かったと思います。母にとっても私にとっても、それこそ貴重この上ない三時間でありました。「結解料理」をご馳走になっている今宵東大寺本坊の夜はまるで異次元の出来事のようで、ただひたすらに静かで、最後の抹茶が出てしまうのが惜しいくらいでありました。完全に古(いにしえ)の世界へ没入し、そこにいつまでも浸っていたい気分になっていました。今でもあの時の百匁蝋燭の灯影に浮かんで、静粛に、和やかに、沈黙のままで粛々と動いていた二人の給仕人の姿は忘れられません。蝋燭だけの灯りの奥ゆかしさ、穏やかな美しさというものをしっかりと教えてもらったように思います。

 結解(けっけ)というのは、そもそも寺の行事などの後に結を解くという、今でいえば慰労といった意味での料理であったようで、私は物珍しさで儀式張ったご馳走に感じてしまいましたが、実はもっと寛いだ宴であるのが本来の性質であったのかもしれません。ご説明した通り、なべて料理自体の材料も料理法も今ではそれ程珍しいものが用いられたわけでもないように思いますが、しかし、夫々の料理のもつ自然の味わいと香りのみが静かに主張しているのを感じとることができました。何よりも一つ一つの料理に真心が込められている「結解料理」は、すばらしいご馳走であったことは全く疑う余地もありません。塩も砂糖も醤油も油も酒も当時では如何に貴重なものであったかを思い知らされました。そして使われている漆器類が実に吟味されて美しいこと、更に料理の出し方にまで気持ちが配られていることなど、今にして思えば、現在の高級料亭でも決して味わい得ないのが、この古式を守り抜いて調理された「結解料理」の「結解料理」たる所以であったのでありましょう。
 辞去する時には、月も空に高く煌々と輝き、晩秋の肌寒い風が、いただいた御酒で上気した頬に快く感じました。東大寺本坊を出て南大門をくぐっても、今宵の宴にいまだ興奮覚めやらず、母と大宮通りをあれこれ語り合いながら近鉄奈良駅へ向かいました。途中、奈良公園の暗い樹間のところどころに鹿の目が光るばかりで、もう人影もまばらになっていました。今は亡き母と歩いた、独身時代の大変懐かしい思い出です。忘れられない晩秋の夜の一時となりました。このような貴重な機会を与えてくださった東大寺そして空海寺のご住職には只々感謝の気持ちで一杯であります。誠にありがとうございました。
 
追記 この「結解料理」は、かつて読んだ谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』(1939年刊)を思い出させてくれました。 その中で谷崎は、「その時私が感じたのは、日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりとした燭台の薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。(中略)その穂のゆらゆらとまたたく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。そしてわれわれの祖先がうるしと云う塗料を見出し、それを塗った器物の色沢に愛着を覚えたことの偶然でないのを知るのである(中略)事実、「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられないと云っていい」と。東大寺本坊の百匁蝋燭だけの灯りを通して、煎餅麸や水仙の根の澱粉をかためたものとか、胡桃だとかが、根来塗の漆器の中に入って、ぼんやりと美しく見えるのを思い浮かべました。確かに、蝋燭のもとで漆椀のふたをとると、椀の内側の黒さが最小の空間の暗さをつくりだし、陰翳の中の澄まし汁やお吸物を一層美味しく見せることに気付かせてもらったようにも思います。
 この駄文を綴りながら、東大寺本坊の光と蔭が織りなすあの柔らかであいまいな光が、生きものとしての人の生活の感性に合っているのではないかと改めて思うようになりました。暗がりの中にこそ美があり、蔭があるから、人間らしい、と。今は昔の日本人が知っていた陰翳の美しさを忘れるに至ったのではないか。失ったものを取り戻して、もう一度美しい灯りと一緒に暮らすことを思い返してもいいのではないか、と。
 暗さは妙に人にものを考えさせるのかもしれません。