ボルドー便り vol.35

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - スタンダールの見たボルドー(その1) -



『南仏旅日記』(スタンダール著)

 2回に亘ってわが国の二人の作家のボルドー観をみてまいりましたが、肝心の本家フランス人はボルドーを一体どう見ているのかを述べてみないと片手落ちというものでしょう。
て、誰が書いているかと考えてみたところ、スタンダール(Stendhal,1783-1842)が『南仏旅日記(Journal d'un voyage dans le midi de la France)』の中で、ボルドーについて書き記していることを思い出しました。スタンダールはご存知の通り、バルザックと並ぶ近代小説の開祖として知られている19世紀の文豪です。本名はマリ・アンリ・ベール(Marie Henri Beyle)といい、スタンダールはペンネームです。『恋愛論』、『赤と黒』、『パルムの僧院』等の有名な作品を数多く残しています。
この『南仏旅日記』はスタンダールが生涯の終わりに近づいた55歳の時に、ボルドーをはじめスペイン国境、南仏各地を訪れた様子を書き綴った日記です。ブルボン・オルレアン朝時代の七月王政の頃でした。
それでは、文豪スタンダールの慧眼を通して描かれたボルドーの旅日記をさっそく紐解いてみましょう。ボルドー 1838年3月11日 日曜日 と日記は始まります。
「パリを3月8日の午後4時45分に出発。ボルドーに、3月11日の日曜日、午前4時15分に到着した。ひどくくたびれ、ぐっすり眠ってしまったので、楽しみにしていた有名なボルドー橋の通過も気づかずじまいだった。4時半頃、乗合馬車はほぼ劇場の向かい側、トゥルニーの小道と呼ばれる壮麗な広場に止まった。<ホテル・ド・フランス>に着いた」と、何とパリから71時間45分(?)掛かってボルドーに着いたとあり、郵便馬車ならたったの43時間で来るそうだとも日記に記されています。因みに、パリ―ボルドー間の鉄道が敷設されたのは、それから14年後の1852年のことでした。
そして、「ガロンヌ河の壮麗な岸辺は何にもまして美しい。以前に受けた印象より更に美しい。1828年にちらっと見ただけのボルドーを再び見て、感想はいっぱいあるが、それを書き留めるには疲れすぎている」と。大変な長旅の上に馬車に揺られて、さぞ疲れたことでありましょう。それでもガロンヌ河の岸辺の美しさには見惚れています。
翌日の3月12日の日記にはボルドーの女性観が綴られています。「パリから来た旅行者が最も強く印象づけられるのは、ボルドー女性の繊細な顔立ちと、特に眉の美しさだ。顔立ちからにじみ出る繊細さがこうも魅力的に思えるのは、少なくともこれまで私が気取りを見たことがないからだ」とボルドー女性の美を讃えています。それに比べ、「パリでは、平凡で重苦しい顔立ちにお目にかかりすぎる。ごく繊細な考えが表情に浮かぶのは時たまでしかない」と手厳しい。当時の地方と都会の女性観の違いが見てとれ、興味深いところです。
「きのうの私は、まずガロンヌ河がボルドーの前で半円を描いて見事なカーブする辺りをぶらついた。あの見事な散歩道に再会した」そして「ボルドーは、異論の余地なく、フランス随一の美しい町である。ガロンヌ河の方へ少し傾斜する。どこにいてもこの美しい河が見えるのだが、船の数がやたらに多く、日曜日のせいで、どの船も旗を飾っていた」と、2時間ほどガロンヌ河をじっと見とれている様が描写されています。当時のガロンヌ河は、ワイン樽を積んだ船が行き交い、大いに賑わっていたことでしょう。
「深夜の12時頃、美しい月明かりにサント・カトリーヌ通りを抜けると、右に壮麗なシャポー・ルージュ通り、左にフォセ・ド・ランタンダンス通り、正面にテアトル広場、その向こうに、トゥルニー広場と樹木の植わったカンコンスの遠望がはるかにきくとなれば、どんな町へ行ってもこれほど堂々とした光景は見られないと思ってしまう。建物の二階はどれもこれもボルドーでは美しい。壮麗なバルコニーがついている」と、スタンダールは月明かりに照らされた深夜のボルドーの街を彷徨います。そして私もよく歩いた懐かしい通りや広場を絶賛しています。恐らく遠藤周作や私が見た“獣のように黒々とうずくまっている”ボルドーの街と違って、19世紀前半の頃はまだ白い石造りの家並が美しくつづいていたのでありましょう。現在は古びてしまっていますが、家々のバルコニーは確かに見事で、その石造りや鉄柵のデザインも様々に細心の創意工夫がなされ、シンプルだがエレガントで繊細、しかも重量感もあり、今でも当時の建築美が偲ばれます。
3月13日の日記には、「それは確かにボルドーはフランス随一の美しい街ですよ。街路や広場や大通りや河岸の広さの点ではね。しかし建物の様式の点では、そう申しかねますな」と、私を批判する人もいるだろう。それならこう答えよう「ボルドーは、パリが誇りとする随分醜い建造物に対抗しようったって、ほとんどできはしません。グルネルの噴水、サン・ジェルヴェ教会の扉口、その他ヴォルテールと彼の時代が熱愛したものなどないわけですが、ボルドーの建物は、パリで1837年以前に造られた建物よりずっとよろしい」と負けてはいません。更に「ボルドーの建物はルイ15世様式だが、周囲の空間のせいで気品が漂う、白くて柔らかな美しい石で造られ、各階の高さはたっぷり取ってあり、窓の装飾や屋根の下の軒蛇腹は、こういうみすぼらしい様式の建物にしては、それほど平凡でない」とまで言っています。しかしボルドーの建築に携わる建築家たちが、ローマかせめてジェノヴァを見ていないとは残念至極ではないか!と嘆息しています。
つづいて、心の底から残念に思いながら、言っておくことがあると述べています。「ボルドーの住民も、その享楽的な生活も好きだから困る。パリの陰険で野心的な偽善とは縁遠い生活である」しかし、真実の声が叫ぶ。<文筆家が嘘をついては駄目だぞ>と。それで、辛いが言わねばならないとつづけます。「ボルドー人があんなに誇る劇場は、さっぱり値打ちがない」と、グラン・テアトルを一刀のもとに斬り捨てます。グラン・テアトルは建築家ヴィクトル・ルイ(1731-1811)によって1773年から7年掛けて造られた、現在でもフランス有数の美しい劇場と認められ、パリ・オペラ座の設計をした建築家ガルニエにも影響を与え、その階段様式の原形となったといわれているほどの建物です。「コリント式でひょろ長く位置の悪い円柱が12本あって、巨大なエンタブレチュア(円柱の柱頭つけ根から上の部分)を支え、その上に滑稽な立像がごてごて12も乗っかっている。少し遠ざかると汚らしい屋根が見え、巨大で重苦しい。全体としてパリのオデオン座より大きいが、多分同程度に醜い」とまで酷評しています。この記述には、ボルドーの中でもその建築美を誇っていると思っていた私も少なからず衝撃を受けました。そして「ボルドー人は自分たちの劇場について、フランスに並ぶものなく、多分ヨーロッパ中にもないと、絶えずはやし立てるが、その文句はこの河岸にこそぴったり当てはまるだろう。ナポリは除く。それでもボルドーの河岸には、キアイア(ナポリの散歩道)にまったくない種類の美がある。それは、世界中から連日船が到着して、賑わう光景である。数えようにも多すぎる」とガロンヌの河岸を再三褒め称えています。当時ワイン貿易に沸く河岸の風景が目に浮かびます。
「このボルドーの河岸のすばらしい賑わいからやっとの思いで身をもぎ離し、旅行者の務めを果そうと、まずサン・タンドレ大聖堂を見物に行く」とあるのはフランスの文豪といえども、やはりエトランゼの遠藤や藤村とも同じです。大聖堂をくまなく歩いた様子が詳しく日記に書かれており、「サン・タンドレの東に、美しいゴシックの塔が、ぽつんと離れて建っている。ベイベルランの塔で、教会の鐘塔代わりだ。サン・タンドレは大いに私の気に入った」とあります。では、サン・タンドレ大聖堂に比肩する、私の住んでいた近くのサン・ミシェル教会はどうかというと、「サン・ミシェルの塔はほぼ橋に面し、ボルドーで最も高い塔で、頂上に電信機が載る。中庭で隔てられた教会と同じく、弾痕だらけだ」としか記述がなく一寸拍子抜けです。でも、「サン・ミシェル教会の鐘塔からバカラン河岸までのすばらしい散歩道に匹敵できるのは、ヴェネツィアの<リーヴァ・デ・スキアヴォーニ>の散歩道しか見当たらない」と褒めています。しかし私がいた頃、この辺りはトラムウエの工事中で、残念ながらそのような美しい散歩道とはとても思えませんでした。
日記の欄外にはこのような書き込みがあります。「要約すれば、ボルドーには偽善がない。楽しく暮らすことばかり考え、ご馳走に招き合い、すばらしい葡萄酒を飲む。ボルドーは芸術に対してゼロ。ボルドー人にとって、美術は当地の劇場を崇めることに尽きる。世間の噂への恐れがこの町の悩みだ」と。褒めたり貶したりしています。
この日記の中で、スタンダールは随所におはこの人の意表を突いた意見を述べては面白がっております。
因みに、スタンダールとほぼ同時代のロマン派の詩人で小説家のヴィクトル・ユーゴ(1802-1885)は、1843年にボルドーを訪れ、こう述べています。「ボルドーは、人目を引く独特の、多分、ほかに類のない都市であると言われている。ヴェルサイユを取って、それにベルギーのアントワープを混ぜてみよう。そうすると、ボルドーとなるのである。ボルドーには2つの面がある。新しいボルドーと古いボルドーとである」と。
ユーゴは中世時代のボルドーを愛する者として、古い城や砦等の取り壊しが進行している情景を目の当たりにし、ボルドーの二重性を敏感に感じ取っていたのかも知れません。
 次回は銘醸ワインの産地、メドック地方へ旅した日記を紐解いてみることにいたします。
 


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