ボルドー便り vol.36

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - スタンダールの見たボルドー(その2) -



シャトー・コス・デステュルネル

 スタンダールはボルドーに到着後10日目に、今度は銘醸ワインの産地、メドック地方へ旅立ちます。
 1838年3月21日 「まだ雨がつづく。今朝8時にボルドーで、ブレーユ行きの蒸気船に乗る。15分おきに雨滴が落ち、2時間ごとに豪雨に見舞われる。西風のせいだ。正午にブレーユ着と教わる。「もっと先に行かないのかな」と船賃の徴収係に尋ねてみた。「ポイヤックまで行きます」、「それじゃポイヤック」。ボルドーのはずれでロルモン村を過ぎると、この丘の連なりはガロンヌ河を遠ざかり、ドルドーニュ河の方へ向かう。ドルドーニュ河の岸は美しい城館だらけという話である。やはりガロンヌ河の左岸に、沼地の城が見える。あそこではコクがあって良質のパリュス(沼地の意)葡萄酒が200樽製造されると、水夫が私に言う。イル・ド・フランス地方への航行用に珍重される。海がよい効き目を葡萄酒に及ぼし、製造元は2,3年物の樽を200フランで売れる」。スタンダールが私の思い出の地、ポイヤックにまで足を延ばされていたとは何ともうれしい発見です。
 ワインについてもさすがに詳しく、日記の補遺には「葡萄酒」についてこう述べています。「ボルドーワインに精通するのは生易しいことではない。この術は偽善を許さないのが好ましい。一瓶差し出されたとする。その銘柄を当てるだけでなく、年代まで見抜かねばならない。2度つづけて間違えると黙らされる」と、当時の厳しいテースティングの様子が窺え、興味をそそられます。
 蒸気船の旅はつづきます。「突然、河の左側に、4階建ての8軒か10軒の立派な家が見えた。豪壮な別荘といった格好だ。蒸気船上で、私は雨をものともせず甲板で頑張り、見とれた。ジロンド河から到着する者にとっては、これがポイヤックだ。旧市街の、河に近い商店街でよく見られる、汚らしくごちゃごちゃした建物など全然ない。するとポイヤックは完全に新しい町なのか。町の四分の三は30年たっていないようだ」とあり、19世紀前半のポイヤック村の街並みが想像できます。そして下船し、今度は馬車に乗ってポイヤック村の葡萄畑を巡ります。「大きな周期の起伏はあるが、さほど高低の激しくない土地。全体として平野といえるが、平地が500歩とつづかない。遠くから見ると、草木の生えていない土地に思えそうだ。モミの林でなければ、葡萄畑が地面を埋めつくし、長い直線の葡萄棚となって広がる。高さ1ピエ(32.4cm)しかない棚だ。地面は大文字のAの形で少し持ち上がり、無限に細分化される。その最も高い部分は、葡萄の幹の線が占める」と、ポイヤック村の葡萄畑の風景を鮮やかに記しています。
 次にポイヤック村を通り抜けサン・テステーフ村に入ります。「このかなり侘しい土地でまず見つかったのは数本の大木で、塔が一つついた城館のような建物のまわりに生える。暫くすると、1階しかない奇妙な建物に着いた。御者がいう。「馬小屋ですよ。街道から1キロ離れたところで、屋敷を構えるお金持ちのものでしてな」と。私としては、むしろシェではないかと思う。酒倉か酒の醸造場のことを、この地方ではシェ(chai)と呼ぶ。随分エレガントで、鮮やかな浅黄色の建物だが、どの様式にも属さない。ギリシャ式でもゴシック式でもなく、非常に明るい感じで、どちらかといえば、中国風に近い。正面に次のたった一語が読める。「コス」。葡萄畑に、銃眼つきの円塔が散在する。葡萄栽培者が道具をしまっておく場所で、嵐の際には自分が避難する。ブレーユの辺りでもこの手の塔は見かけたが、しごく快い眺めである。随分平坦な風景なのに、家も人もほとんど見かけない。林でなければ葡萄園にきまっていて、メドックという偉大な名前がついているものだから感心して見つめることになる」とあります。御者が<馬小屋>といっているのは間違いで、これはスタンダールのいう<シェ(chai,ワイン樽の貯蔵庫)>が正解です。又ここでいう「コス」とは、サン・テステーフ村一番の葡萄園、<シャトー・コス・デステュルネル(Château Cos d'Estournel)>のことでしょう。また御者のいう「街道から1キロ離れたところで、屋敷を構えるお金持ち」とは、恐らく19世紀初頭のシャトーの当主であったルイ・ガスパール・デステュルネルを指しているものと思われます。因みに、当時ルイ・ガスパールという御仁は出色の人物であったようで、ワインづくりのみならず、同家のもう一つの主要な家業であるアラブの馬をフランスに持ち込むことにも熱心でした。それと世界旅行に情熱を燃やしていたといわれています。そのためか、彼はボルドーに未だかつて存在したことがないような異国情緒たっぷりの中国風のパゴダをもったシャトーを20年掛かって建てたのでした。街道に面した豪華な凱旋門の上には石膏の紋章が周囲を睥睨しています。よく見るとライオンと馬の組み合わせでした。
 そして、スタンダールはトゥールーズへ向かった後にボルドーに舞い戻り、ボルドーの生んだ偉人モンテスキュー(1689-1755)のことやボルドーの歴史に日記の多くを割いて書き綴ります。
 4月7日の日記には、「私がモンテスキューを好むといえば、それは必ずしも正確ではない。崇拝しているのである」と述べています。そしてモンテスキューの生誕地のラ・ブレードを訪ねます。「今朝ラ・ブレードへ行ってきた。着くとまるで子供じみた敬意に打たれた。このラ・ブレードの一日は、生涯で記念すべき日になるだろう」とまで言っています。「モンテスキューはラ・ブレードで生まれただけでなく、その土地を開墾し、増やした。ここは、ボルドーからバザス、バイヨンヌへ向かう街道の右手にあって、末端になる。少し先へ行くと、ランドと呼ばれる広大な荒地に入る」、「『法の精神』の著者がこしらえた古い並木道をたどれば、生まれた城に行き着く。私は全身を目にしていた。正面(ファサード)のないほぼ円形の建物が見えた。広々とした堀がまわりを囲む。その中はいたって清潔な水で満たされる。ただしコーヒー色の水だ。ランド地方から引いた水で、魚は生息できない。私はアルミーダの城を思い出した。キリスト教徒の騎士たちを十字軍陣地から連れてきては幽閉した城である」と述べ、それから城の細部に亘って興味深い話を延々と書き綴ります。そして、「モンテスキューはゴシック式暖炉の前に身を寄せ、膝の上で書く習慣があった」と述べ、「ラ・ブレードの城で『ローマ人盛衰原因論』を書いた」と語ります。
 そして、スタンダールは次なる目的地のスペイン国境へ旅立っていきました。

 スタンダールが1821年(43歳、『恋愛論』の1年前)に書き残していた墓碑銘には、「生きた、書いた、愛した(Il vécu,écrivit,aima)」とありますが、実際はイタリア語で次のよう書かれていました。
   《 Qui giace Arrigo Beyle milanese,
     visse,scrisse,amò.(生きた、書いた、愛した) 
     Se n'andiede di anni... nell 18...》
ただし、モンマルトルの丘にある現在の墓には配字の関係なのか、イタリア語で、「アンリ・ベール、ミラノ人、書いた、恋した、生きた」と刻まれております。
 グルノーブルで生まれたスタンダールが、何故に母国語のフランス語ではなくイタリア語で墓碑銘を書き、それも<ミラノ人>なのか不思議に思いますが、これは終生偏愛しつづけた母親がイタリア系だったこともあって、元来、イタリアに強い憧れを抱いていたスタンダールは遠征にも参加し、イタリアを第二の故郷とみなすようになったからといわれております。そこには父親との激しい確執もあったようで、祖国フランスは生涯好きになることはなかったといわれております。
 いずれにしても、この墓碑銘に書かれている言葉こそは、スタンダールの生涯を見事に締めくくっているように思えてなりません。
 


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