ボルドー便り vol.37

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 『フランス農村物語』について -




 4回に亘って遠藤周作、島崎藤村そしてスタンダールの見たボルドーについて書いてまいりましたが、ここで最後に皆様に是非ご紹介しておきたい一冊の本があります。それは、これからフランスへ旅する皆様への必ずや贈物となるものと信じております。その本の名は、『フランス農村物語』(池本喜三夫著、東明社刊、初版は『仏蘭西農村物語』)といいます。著者はフランスのソルボンヌ大学、ナンシー大学で学び、理学博士・農学博士の学位を得た、わが国農政学の第一人者です。本書は1934年(昭和9年)に刊行され、最早や古典の部類に入る、知る人ぞ知る昭和の生んだ珠玉の名著といわれているものです。700頁(初版)もの大著ですが、今改めて読み返してもなお新鮮な輝きを失っておらず、現在の日本人のフランス観、フランス人の日本観にも通じ、共感するところ大であります。絶版になっていましたが、復刻版が刊行されていますのでお読みになることができます。
 それでは早速に『フランス農村物語』を紐解いてまいりましょう。ただ、この本の舞台はボルドーではなく、<フランスの庭園>と謳われ、中世のお城で名高いロワール地方です。著者は「日本のお百姓さんたちに、フランスの農村の物語をしたい」との思いをソルボンヌ留学時代よりずっと抱き続けておりました。あの夢の中で見るようなロワール河の畔(ほとり)に建つお城の付近で、なりわいをもつお百姓さんたちは、いったいどんな人生を送っているのだろうか。あのシュノンソーのお城を朝な夕な眺めているお百姓さんたちの人生はどんなものなのだろうか。今も眼に映るおとぎ話の中にあるようなおじいさんやおばあさん、泥にまみれたサボ(木靴)をはく若者、あの土地自慢の白いリボンを頭にのせた乙女たちの、葡萄収穫(ヴァンダンジュ)のお祭りの夜の踊りなど夢見ずにはいられないと思い立ち、遂に1930年の春に著者はパリを出て、田舎行きを決めたのです。そしてかねてからの夢路を旅することになります。著者は、難しく言えば、それは「フランス農村の行脚的研究」でもあったと回想しております。
 当時もヨーロッパより帰国する人が、誰でも一様にフランスといえば“巴里(パリ)”と、都会の人情のみを語り、しかもその多くは遊蕩場や歓楽郷の話ばかりで、これを聞くわが国の青少年に将来面白からぬ影響を及ぼすばかりでなく、これでは真のフランスを知ることはできない。どうしても農村などの僻地に遊び、その実情を体験して来なければならぬと痛感したからと著者は本書の中で繰り返し述べています。今に至るもこのパリ礼賛の現象はあまり変わらないように思えますし、「フランスの田舎(地方都市)はあまりにも遠し」の観は拭えないような気がいたします。いや、そうではないですよ、拙文《ボルドー便り》を読んでからはフランスの地方都市にも関心をもち、その良さが分かるようになってきましたと言ってくださる読者がいらっしゃれば、それこそは筆者として望外の喜びであります。
 フランスの中部を流れるロワール河とその支流シェール川を挟んで点在する町や村、緑につつまれた古城や風車小屋、起伏の多い海原を思わせるような畑や森や牧場(まきば)、そこに働く農民たち、そこにはフランス農民の伝統と英知が息づいています。著者が、花の都パリをあとにして、ロワール地方の中心都市トゥールへ、トゥールから田舎町モントリシャールへ、そこから更に小村プイエ村(Pouillé)へと辿った足取りが詩情豊かに克明に語られております。
 フランスの村落を知るというよりも、見るというよりも、しんみり味わいたい、そしてトランクに一杯詰めこんできたフランスの農村に関する書物をフランスの農村で耽読したいという気持ちでやって来た村、そして何よりも極端にフランスらしい村であり、村の一切がフランス式で出来上がり、農民はフランス精神で満ち満ちているような村として選んだのが、この小村プイエ村だったのです。そこで著者が、土の香り芳しきフランスの農家の炉辺で聞いたことや、農村を行脚し見た事実を、日本の農家を訪ね炉辺でお茶を啜りながら語るような気持ちで書いたのが本書なのです。
 そして、著者がここで期待したような村落生活を過すことができ、村人たちとの交わりをここまで親しみあうことができたのは、「正直にして大胆、交わるに礼儀正しく、丁寧に」、これはフランスにおける生活に欠くことの許されぬ鉄則であり、フランスの至る所で日本人の演じている大失敗はここにあると手厳しく指摘しています。つまり、自分の思想なり、意見なり、希望なりを正直に、大胆に表現すること、変な意味の謙遜、駆け引きのための奥ゆかしさは大禁物だと、これさえ心得ておけば、フランス人とはただちに友人になれ、日本人で10年の結果を要する友情も、フランス人となら、時には数時間、時には数日にして終生の友を得ることができると喝破しております。頷けるところであります。
 この本に関連して、ロワール地方とワインについてちょっとだけ触れてみたいと思います。この地方は、フランスで最も長いロワール河(全長1020キロメートル)に沿って東西に広がっています。パリの150キロほど南でロワール河がはじめて出会うのは、有名なプイイ・フュメ、サンセールなどのワインの故郷です。ここでロワール河は西方に大きく向きを変えて大西洋を目指しますが、やがて姿を現すのが、ジャンヌ・ダルクで有名なオルレアンの町です。この辺りから<フランスの庭園>と讃えられる陽光に満ちた田園風景が広がり、かつての華やかな宮廷生活を偲ばせるシュノンソーやシャンボール城をはじめとする美しいお城がロワールの谷を飾っております。そして『フランス農村物語』に登場する村々はロワール河中流域のワインの産地、トゥーレーヌ地区にあります。西隣のアンジュ地区のヴーヴレーやソミュールの石灰質の大地には、トンネルが蜂の巣のように張り巡らされています。その中に寝かされた無数の瓶の中では、爽やかな泡立ちをもったペティアンという愛らしい発泡性ワインが育っております。デザートワインとして有名なコトー・デュ・レイヨンも近くにあります。そしてスミレの花に喩えられる芳香をもった赤ワインのシノン、美しいロゼワインで有名なアンジュまで広がります。そして最後は、ロワール河が大西洋に注ぐ河口の町ナントの周辺にある果実味たっぷりの白ワインの産地、ミュスカデがあります。このようにロワール河周辺のなだらかな丘陵には、至るところに葡萄畑があり、赤、白、ロゼをはじめ発泡性ワイン、デザートワインとバリエーションに富んだワインをつくっております。
 因みに、ここはまたフランスのガストロノミーを語るうえで忘れることのできない英雄、ガルガンチュワとパンタグリエールという巨人王たちの生まれ故郷でもあります。シノン出身のフランソワ・ラブレー(1483-1553)は、この巨人王たちの物語の舞台の多くをシノン郊外の村々にとったといわれております。
 ところで、『フランス農村物語』には、後日談があります。私がこの本と出会ったのは丁度フランスワインに熱を上げていた20年ほど前のこと、神田神保町の古書店で偶然目に留まり、先ずはタイトルに魅せられて購入しました。そしてそれから5年ほど経ってから、とあるホテルのバーで会社の大先輩と二人で飲んでいる時に、偶々何かの拍子に「私の愛読書に『フランス農村物語』という大変感銘を受けた本があり、その著者の名前が<池本キミオ(池本喜三夫)>といって先輩と同じ姓なのですよ」と言ったところ、「きみ、それは池本キオでなくてキオといって、ぼくの親父だよ」と言われ、吃驚仰天してしまったことがあります。その時、何かとても不思議な縁(えにし)を感じたものです。
 それともう一つ、今でもこのプイエ村の葡萄(ガメイ種)を使ってつくられているワインが昨年偶然見つかったことです。それも驚くなかれ、プイエ村で葡萄園を所有し栽培している方が、何と日本人女性なのであります。la Brosse(ラ・ブロス)というプイエ村の畑から“Touraine Pouillé(トゥーレーヌ・プイエ)”というワインをつくっているのです。彼女が本を著していることも分かりましたが、ただ残念なことに彼女の著書の何処にもプイエ村の先達の池本喜三夫氏のことも、『フランス農村物語』のことも一言も触れられておりませんでした。ひょっとするとご存じないのかもしれません。
 私はボルドー留学中に、プイエ村を是非一度訪ねてみたいと思っていたのですが、とうとう訪れる機会がないままに帰国してしまいました。いつの日か訪ねてみたいと未だに夢見ております。
 このように本やワインにはいろいろと不思議な巡り合いがあります。それだからいつまでも興味がつきず、面白いのかもしれません。
 敢えて古い本をつづけてご紹介してまいりましたが、この大型連休にワインを傾けながら、先人の遺された名著を紐解き、暫しゆったりとした時を過されるのもいいのではないかと存じます。

 


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