ボルドー便り vol.38

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - ボルドーワインと星の王子さま -



Le Petit Prince


 新緑の映える昼下がりの一時、陽光を浴びながら私と若きピアニストは向き合って数本のワインの瓶を前に真剣に議論しています。二人はなみなみと注がれた大きめのワイングラスをじっと眺めながら、この一時はワインにだけ集中し、それに合ったスタンダード・ジャズを選曲しようと身構えています。
 といいますのは、私の主催する5月のワイン会で、<ジャズとワインのマリアージュを楽しむ>と題する初めての催しに二人で挑戦することになったからです。即ち、ジャズとワインを如何にうまくマリアージュ(結婚、組み合わせ)させると一層楽しく味わえるかの初めての試みです。若きピアニストはアメリカのバークリ音楽院で学び、アメリカ各地で長年に亘って演奏活動をしてきた兵(つわもの)です。そのジャズ界のプロを相手に、私はワインをもって議論に挑んでいます。彼は余りアルコールに強くはないようで、専ら香りを嗅いでワインの性格を一心に掴もうとしています。実はワインをテイスティング(フランス語でdégustation(デギュスタシオン)、利き酒)する時は、それがまさに正解なのであります。香りにはそのワインの生い立ちを物語る重要なことが沢山含まれているからです。因に、ボルドー大学で学んだ良いワインの最低条件は、香りを嗅いでそのワインが先ずクリーン(フランス語ではnette(ネット)といいます)であることがあげられます。テイスティングのすべては、この「ネット」か「パ・ネット」(pas nette、クリーンでない)からはじまります。日本ではテイストすることを「きく」とも言いますね。「聞き(利き)酒」とか「香りをきく」という表現をよく使います。これは「音楽を聴く」ということにも通じるのかもしれません。ピアニストの彼は、あたかもビル・エヴァンスのピアノ演奏を聴いているかのように、ワインに耳を傾けています。静かに目をつぶり、知識よりも感動でワインの香りを感じ取っているように見えました。確かに、専門家はワインのほぼ90パーセントは香りで分かると言います。舌(味)は鼻で理解した香りが間違っていないかどうかを確かめるだけとも。それは鼻できく香りが,一番そのワインについての特性を語りかけてくれるからなのです。音楽にしてもワインにしても結局は感性の世界であるように思います。
 私の方は、はじめからある先入観をもって1本のワインを選択しました。そのワインは、シャトー・マルゴーの産地として有名なメドック地方マルゴー村の<シャトー・マレスコ・サン・テグジュペリ(Château Malescot St-Exupery)2002年>です。このワインは、ナポレオン3世がパリ万博の時につくらせた有名な1855年のグラン・クリュ(特級)格付けの3級です。3級などいうと何か3級酒のように感じてたいしたものではないように思われるかもしれませんが、それはおおいなる誤解でありまして、ボルドーの何千とあるシャトーの中から僅か61のシャトーだけが選ばれ、1級から5級まで格付けされた正にボルドーのエリート中のエリートなワインなのです。このシャトーの名前が示す通り、マレスコの名は17世紀末にこのシャトーを所有していたルイ14世時代の法務長官であったシモン・マレスコであり、もう一方の名は19世紀になってこのシャトーを買い取ったサン・テグジュペリ伯爵の名前です。この二人の名前が現在に至るもシャトー名として残されています。ところで、このサン・テグジュペリという名前に聞き覚えがありませんか。そうです、このシャトーを一時期所有していたのは、「星の王子さま」をはじめ「南方郵便機」、「夜間飛行」、「人間の土地」、「城砦」等の数々の名作を遺した作家、あのアントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ(1900-1944)の正に曽祖父なのです。このワインは、近年になって急速に良くなってきたマルゴー村の典型的なシャトーといわれております。シャトー・マルゴーに隣接した恵まれた環境下にある葡萄からつくられたワインには、エレガントな風格を備えた心惹かれる芳醇な味わいがあります。特に2002年という年は格別で、いろいろな花の香りがあり、カシスやチェリーそしてミネラルが混ざり合った複雑な芳香を漂わせ、芳醇な味わいがあります。今飲んでしまうにはちょっと勿体ない気がしないでもありません。
 私は何とかピアニストに大好きなサン・テグジュペリの『星の王子さま』にまつわるようなジャズの名曲を演奏してもらいたく、かつてその先祖が所有していたシャトーであること、そしてマルゴー独特の豊かな香りと果実味を合わせもつエレガントなワインであることから、ロマン溢れる「星」や「王子さま」につながる名曲を選んでもらえないか恐る恐る尋ねました。彼はジャズ・ピアニストとして違うイメージをもって選曲を考えていたかもしれませんが、<シャトー・マレスコ・サン・テグジュペリ>の品格ある香りの高さに納得したようで、王子さまといえばこの曲でしょうと、先ずは『Someday my prince will come(いつか王子さまが)』をあげてくれました。Someday my prince will come,someday Ⅰ'll find my love・・・・と口ずさみながら。この曲はご存知のとおり、1973年にディズニーが初めて公開した長編アニメ映画『白雪姫』の主題歌です。ヒロインの白雪姫が、王子さまが現れることを夢見て7人の小人たちに向かって歌いはじめる可憐なワルツです。John Williams TrioからはじまりDave Brubeck,Bill Evans,Miles Davisといったアーティストがそれぞれ独自の味付けで『いつか王子さまが』 を料理し、ジャズのスタンダードナンバーとして定着させました。
それではいっそのことディズニーナンバーをメドレーにして演奏しましょうということになりました。次の『Alice in wonderland(不思議の国のアリス)』は、イギリスの数学者にして作家、チャールズ・ラトウィッジ・ドジソンが、ルイス・キャロルのペンネームで1865年に出版した児童文学の同名作品(実は、原題は『Alice's Adventures in Wonderland』)の映画の主題歌です。そして『When you wish upon a star(星に願いを)』につなぎます。この曲は1940年の『ピノキオ』の主題歌としてジミニー・クリケット(こおろぎ)の声を演じたクリフ・エドワーズが歌い、その年のアカデミー賞の主題歌賞を受賞しました。スエーデンやノルウェーではクリスマスソングとしても歌われ親しまれています。
 さて、二人でもう一度グラスを口に運んで、一口、二口含むと静かに噛みしめてから、グラスをテーブルに戻すと、やおらピアニストが最後の曲は『スターダスト(Stardust)』で締めくくりましょうと言いました。私はルビー色をした若いワインのグラスの底に輝く暗部に見とれつつ、深く頷きました。いい選曲だと。
 もう一本のボルドーワインは<シャトー・パタッシュ・ドー(Chateau Patache d'Aux)2003年>です。このワインは1855年のグラン・クリュ(特級)格付けの次のクラスに相当するクリュ・ブルジョワ・スュペリュールといいます。エリゼ宮を訪れる世界の賓客に振舞われるワインのひとつとしても知られています。このシャトーはかつてアルマニャック伯爵の子孫であったオー(Aux)騎士団が小石混じりの街道を走った“Patache(乗合馬車)”を停らせた場所でもありました。今日、ラベルに描かれている一台の乗合馬車が当時の姿を伝えています。スタンダールのところでも述べましたように、当時は馬車に揺られる長旅の時代でもあり、旅人は一杯の美味しいワインで乾いた喉を潤したことでしょう。
この<シャトー・パタッシュ・ドー 2003年>のワインには、ピアニストがラベルの馬車の絵と華やかなエリゼ宮のイメージに閃いたのか、開催当日にその場でワインの香りを嗅いだ印象でアドリブ演奏をしてみたいと、その時はワインに一切口をつけませんでした。当日の演奏はこのワインのもつ豊かな香りと力強さを描いて、即興で見事なジャズを奏でてくれました。拍手喝采!! 
 当日は、ボルドーワインの他にも美しいバラ色のシャンパン・ロゼとブルゴーニュのオスピス・ド・ボーヌの銘醸ワインにそれぞれ合ったスタンダード・ジャズの名曲の数々を奏で、その妙(たえ)なるピアノの調にワインと共に暫し酔いしれました。
 「ワインとジャズのこの2つの組み合わせは、果たしてお口とお耳に合いましたでしょうか」と尋ねましても、読者の皆様にはワインも味わえないし、ジャズも聴けないままに味も素っ気もない文章のみの退屈な一時であったかと深くお詫び申し上げます。
 ワインにはこのような楽しみ方もあるということだけでも知っていただければ幸いです。
 


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