ボルドー便り vol.39

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 香りについて(その1) -





 前回の<ボルドーワインと星の王子さま>のところで、ワインの<香り>の重要性を述べてきました。「ワインは鼻で飲む」と言っているフランスの著名な物理化学者がいるくらいで、テイスティングにおいて最も重要な働きを担っているのが嗅覚なのです。
 かの幸田露伴も<香り>には大変興味をもっていたようで、「眼もて視るべきにあらず、耳もて聴くにあらず、身の触るべく、舌の味はうべきにもあらず、ただ鼻のこれを受けて、其性を知り、其能を悟り、其の辨別取捨を為すに至るを得るもの、これを言辞に<にほひ>と云ひ、<か>と云ひ、文字に<香>といひ、<臭>といふ」と『香談』で述べております。それは香の煙のなかに生じる匂いを、鼻で感じ知って、香となり、臭となるものだといいます。そしてこのような匂いの世界を、道理が奥深くてなかなか知りがたい境地のなかに見出すといっています。露伴は匂いを極めて高踏的な微眇幽玄な世界と捕らえていたように思います。
 ところで、ワインと同じというか、もっぱら<香り>の世界に在るのが「香水(仏)parfum,(英)perfume」です。この<香り>に関する映画が、今年の東京国際映画祭で上映され、3月から日本でも一般公開されました。それが『パフューム(香水)』(トム・ティクヴァ監督、仏・独・スペイン合作映画)です。―ある人殺しの物語―という恐ろしい副題がついています。ご覧になった方も大勢いらっしゃるかと思います。この映画の原作となった本(パトリック・ジュースキント著)は、1985年にドイツで出版され、その後、45カ国語で翻訳され全世界で1500万部を売り上げ、驚異の大ベストセラーになりました。
 天性の異常な嗅覚をもった男と、アラン・コルバンの『においの歴史(Le miasme et la jonquille)』に登場するような18世紀のパリ、フランスの都市、人々のもつ臭気から香気までのすさまじい匂いが主役で、匂いに満ち満ちたミステリーです。
 天才的な嗅覚をもった主人公、ジャン=バティスト・グルヌイユ自身はさっぱり匂いのしない男ですが、その異常な才能に目覚め、パフューマー(香水調合師)として活躍していきます。非凡な才能から生み出される数々の香水は、瞬く間に人々を魅了していきますが、それは彼の求める香りではありません。そしてついに身体から類い稀な天性の芳香をもつ女性に出会い、彼女に執着するあまり、やがて狂気に陥り、その能力ゆえに破綻していくまでを、虚実ないまぜになった、まことに自由奔放で奇想天外な物語になっています。ここで物語の細部にわたってお伝えすることができないのが残念ですが、ご興味のある方には是非ご一読をお勧めいたします。
 私にはストーリーの面白さは勿論のこと、文中に頻繁に現れる香りを表現する単語がワインの香りに重なりおおいに興味を覚えました。香りの表現というのは第三者が聞いても分かるような普遍的な単語(言葉)を用いなければなりません。小説のなかでも語られている通り、この世に痕跡一つ残さずに消えうせるもの、すなわち<香り>というつかの間の世界をいかに的確に言葉で表現するかなのです。グルヌイユが生まれて初めて香水というものを嗅いだ時には、「ラベンダー、バラの香りからはじまりジャスミン、シナモン、匂いのエキスのうちの多くのものは市で売られる花や香辛料で知っていた。おりおり新奇のものがあった。グルヌイユは匂いのなかからそれを選り分け、名前まではわからぬまま記憶に刻みつけた」と語っています。この小説に出てくる<香り>の単語は、竜涎香(りゅうぜんこう、マッコウクジラの腸内の分泌物からとる香料、アンバー)、海狸香(かいりこう、海狸(ビーバー)の香嚢からとる香料)、麝香(じゃこう、麝香鹿の香嚢からとる香料、ムスク)、シベット(麝香猫の分泌腺からとる香料、霊猫香)、安息香(エゴノキ科の樹脂からとる香料)、白檀(びゃくだん)、ベルガモット(イタリア原産の柑橘類)、スイートレモン、橙、梨、プラム、胡桃、水仙、百合、オレンジの花、カーネーション、撫子、スミレ、ゼラニューム、ヒヤシンス、ユーカリ、沈丁花、石楠花、木蓮、糸杉、ヒマラヤ杉、ローズマリー、甘草、ナツメグ、ペパーミント、樟脳、松の実、松脂、ホップ、パウダー、なめし皮等、といった具合に香りの単語が次々に文中に踊ります。何とも馥郁たる香りに満ち満ちた場面の連続で、香水やワインの愛好家にとってはたまらないところでしょう。
 「グルヌイユは、6歳の時に嗅覚を通して周りの世界を完全に了解していた。匂いによって知り、再び匂いで識別して、それぞれをしっかりと記憶に刻みつける。彼の鼻が嗅ぎわけないものはないのだった。何万、何十万もの匂いの種類を嗅ぎとって、はっきりと記憶のなかに収めている。それだけではない。少年は空想のなかで匂いを組み合わせるすべを心得ており、現実に存在しない匂いですら生み出すことができたのである。いわばひとり当人が独習した膨大な匂いの語彙集といったところで、それでもって思いのままに新しい文章を綴ることができる」と。グルヌイユは小説上の架空の人物とはいえ、まさに調合師になるべくして生まれた、一流のテイスターであったわけです。
 でも、読者の皆様には、上記の<香り>の単語、特に動物・植物から得られる天然香料に関しては匂いを嗅いだ経験がなければ感じ取るのは難しいかもしれません。
 余談ですが、わが国の香道や香木に関心がなくても「蘭奢待(らんじゃたい)」ならば聞き覚えがある方も多いかと思います。日本史の教科書にも載っていたはずですので。天平勝宝8年(756年)に、光明皇后によって東大寺に献納され、以後約千三百年にわたって正倉院に伝えられた国宝の香木です。沈香(じんこう)と呼ばれる香木の一種で、「蘭奢待」は足利義政や織田信長、明治天皇等、時の権力者が切り取ったことはよく知られており、今でもその場所に付箋がつけられています。現在、長さ160センチ余り、重さ11.6キログラムあるそうです。さて、「蘭奢待」とはいったいどんな香りなのでしょうか。「蘭奢待」には、不思議と事細かに触れられた資料はあまり見当たりません。古い解説書を紐解くと「伽羅聞き(香りを「聞く」と表現しています。「聞香(もんこう)」という言葉もあります)が強く、いかにも位が静かで上品(じょうぽん)」とあります。これは極上のワインの香りと同様に、香りとしては華やかというよりは優しさやエレガントさをもった馥郁とした複雑な香りを感じさせるものなのでしょうか。ある雑誌に香道の家元の話として、「よほど敏感でなければ聞き取れないところもある。舌で料理を味わうように、香木についても「甘」「酸」「辛」「苦」「醎(塩辛い)」という五味で表現する。様々な味わいが混ざり合って、ひとつの美味しさを構成するように、香木も様々な味をもっている方がいいとされる。通常の香木は二味か、精々三味くらいしかないが、「蘭奢待」からは五味を聞き取ることができた」と大変興味深く語られていました。
このことは、ワインの質をはかる最大の基準は香りの複雑さであることからも十分に理解できます。上質ワインの要件もまさに風味の複雑さ、深みにあるからです。
 さて、この『香水』は傑作であるだけに、多くの人が注目し、映画化の申し出が何度となく著者に寄せられたそうですが、何れも断られたといいます。なるほど物語の主役が「香り」「臭い」であるだけに、映像にし難いと考えたのでしょう。ところがその著者をとうとう説得したプロデューサーが現れようやく映画化に至りました。映画という視覚、聴覚の世界に、嗅覚の世界をどのように表現するのか、異常な才能を普通の人々にどう納得させるのか興味はつきませんでしたが、トム・ティクヴァ監督・脚本のもとベン・ウィショー、ダスティン・ホフマン、レイチェル・ハード=ウッド等の好演によりサイモン・ラトル指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の上質なサウンドトラックの効果とあいまって、「この作品を“嗅覚(仏)sens olfactif,(英)nose”を通して見て欲しい」という監督の言葉どおりに堪能できました。嗅覚ばかりでなく五感すべてを「香水(パフューム)」の官能に委ねて。
 もしご興味が湧きましたら、先ずは『香水』の本を手に取るなり映画を鑑賞されるなりして、この鬱陶しい梅雨の季節に、暫し芳しき<香り>の醍醐味、面白さに触れていただければ幸いです。
 ただし、ワインを楽しむ時(特に、テイスティング時)には、タバコと共に香水の強い香りはご法度で、マナー違反となりますのでご注意ください。


 


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