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ボルドー便り vol.40
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本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
- 香りについて(その2) - |
前回の<香水>のストーリーをもう少し追ってみます。「グルヌイユの異才は、時として音楽の世界に現れる神童と較べるのがふさわしいかもしれない。メロディーやハーモニーのなかに音階のことばを聴きとって、みずからまったく新しいメロディーやハーモニーを生み出せる―ただし、あきらかに匂い語の方が音階のことばよりも、はるかに強烈で複雑だろうし、それにこちらの神童グルヌイユの場合、想像の傑作はただ彼の心のなかだけに表現をみて、当人以外の誰の耳に届くわけでもなかったのである」とあります。 これには興味ある話がありまして、実際に、19世紀後半の英国の香料研究者として有名な S・ピース氏が音階と香調を結びつけた試みをしているのです。これを「香階(こうかい)」と呼んでいます。組み合わせのハーモニーを見てみますと、1オクターブ違うパッチュリー(シソ科の植物の葉から採る精油))と白檀(びゃくだん)はどのような割合に混ぜてもよく合うとか、2オクターブ違うジャスミンとローズの場合もまったく同様によく合うとか。また、和音(accord)のドミソ、ドファラの例が載っていたりします。それは、香気的にもハーモニーがとれているそうです。面白いことを考えた人がいるものです。46種の香料が音階順にずらっと並んでいるのはまさに壮観です。 (例)<ドミソ> ド:白檀、ゼラニューム、ミ:アカシア、 ソ:オレンジフラワー、ド:樟脳 <ドファラ>ファ:ムスク(麝香)、ド:ローズ、ファ:月下草、 ラ:トンカ豆、ド:樟脳、ファ:黄水仙 このように香水をつくることは、交響曲をつくることと似ているのかもしれません。 「グルヌイユは立ちどまった。心をしずめて嗅いでみた。あの匂い。たしかにしっかり捉えている。一本の帯としてセーヌ通りを下ってくる。まぎれもない匂いである。しかし、この上なく微妙で、こまやかな匂い。胸が激しく動悸を打っていた。大急ぎで来たせいではない。胸がこんなにもはやるのは、当の匂いを前にして途方にくれているからである。グルヌイユは何か別の匂いと較べようとした。だが、うまくいかない。いかにも新鮮な香りだったが、スイートレモンや橙のような新鮮さではない。ミルラやシナモンやミドリハッカや梨や樟脳や松の実とも違う。五月の雨や、氷のような北風、あるいは泉の水の鮮度とも違う―あたたかさをもっていたが、ベルガモットや糸杉や麝香(じゃこう)のそれではなく、ジャスミンや水仙とも違う。バラの木とも較べられない。アイリスでもない・・・軽いのと重いのとの混合じみている。いや混合というのはまちがいだ、調合といおう。あるかなしかの弱々しいものなのに、毅然として保(も)ちがいい。薄地の美しい絹のような―だが、明らかに絹とは違う。むしろ甘いミルク、ビスケットを溶かしたミルク。つまりはありえない二つのものが合わさったものか。ミルクと絹、この二つ!まったく不可解な匂いである。何とも言いようがない。分類の仕様がない。本来、ありえない匂いなのか。だがこれ以上ないほど確かに存在している。グルヌイユは胸を高鳴らせながらその匂いを辿っていった」 そしてグルヌイユはとうとう匂いの源である美しい娘を探し当てるのです。長い引用になってしまいましたが、この<香り>の表現はワインや香水の愛好家にとってはたまらない言葉の宝庫です。上記の文章の語り調子は、ロアルド・ダールの傑作『Taste(味)』を読んだことがあれば、ワインの銘柄当てゲームの情景をきっと思い浮かべることでしょう。 この小説の中で表現されているのは、美しい娘の身体そのものから発する香りですが、例えばある香をつけている女性を、その香りだけを頼りに嗅覚だけで追いながら、探し当てることは果たして可能なのでしょうか。パヒューマー(香水調合師)にとっては、答えはイエスです。鼻先に注意を集中してみると、どの方向から香りが来るかがわかるといいます。空間に濃度の勾配が感じられるそうです。ただ、風向きを考えに入れないと、左右を間違えることがあるが、何回か繰り返しているうちに、方向が確かになってくるそうで、犬並みの敏感さには及ばないまでも、パヒューマーは訓練によって、普通の人の百倍くらいはかぎ分けることができるようになるとのことです。パヒューマー、まさに恐るべし。 話は変わって、フランスの19世紀の終わりから20世紀の前半にかけての世紀末からベル・エポック(良き時代)と呼ばれる時代に生きたマルセル・プルースト(1871- 1922)は、『失われた時を求めて(À la recherche de temps perdu)』のなかで、「朝のカフェ・オ・レの味は、われわれに晴天への漠とした希望をもたらす。その希望は、われわれが、クリーム状にプリーツがついて、固まった牛乳のように見えた白磁のボウルで、カフェ・オ・レを飲んでいて、その一日がまだそっくりそのままわれわれのまえに残されていたとき、早朝の不確かな薄あかりのなかで、かつて何度もわれわれにほほえみはじめたのであった。一時間は、一時間でしかないのではない、それは匂と、音と、計画と、気候とに満たされた瓶(かめ)である」と語っています。早朝の一杯のカフェ・オ・レの香ばしい香りが、一日のはじまりの予感に満ち溢れているように感じます。プルースト自身の毎日の生活も濃厚なカフェ・オ・レの香りと共に目を覚まし、一日がはじまったといいます。 またプルーストの『失われた時を求めて』といえば“マドレーヌと紅茶”―この小説を読んだことのない人でも、紅茶に浸したマドレーヌの話は知っているでしょう。 「ぼだい樹の色がついていた花の部分とそうでなかった部分とをわけるしるしなのだが、―そのかがやきは、これらの花弁が薬袋をかぐわしくするまえに、たしかに春の幾夜を芳香で満たしたあの花弁であることを私に示していた。大ろうそくの炎のようなそうしたばら色のかがやきは、まだぼだい樹の色であることに変わりはないけれども、しかし花のいまの生命、花のたそがれともいうべき衰えた生命にあっては、なかばは消えて、まどろんでいるのであった。やがて伯母は、あつい湯に煎じたその枯れた葉や色あせた花の風味をたのしむのだが、そんな飲み物のなかに、彼女はプチット・マドレーヌをひたすこともあった。そしてそのかけらが十分やわらかくなったときに、それを私にさしだすのであった」との有名な一節があります。このお茶(「ティユル(tilleul)」という西洋菩提樹の花を煎じて飲む一種の薬湯です)にひたしたプチット・マドレーヌの香りと味が、昔、主人公にコンブレーの町で感じたと同じ感覚を呼び起こし、それにつづいて、過去全体を浮かび上がらせます。香りは、精神状態を突然変えることもあるのです。私たちが味だと思い込んでいるものも、実は匂い(香り)であることが多いように思います。匂いは、過去にそれを嗅いだときの状況や雰囲気を、長い歳月を超えて、あたかもその場に自分が立っているかのように、ありありと私たちに想い出させてくれるのです。 もうひとつ『失われた時を求めて』のなかで印象に残る香りといえば“さんざし”です。ゲルマントとメゼグリーズと二つの出発点のさんざしの垣根の道。さんざしの強い香りと白い花は、ボルドーの市場でよく買って食したフロマージュ・ブラン(白いチーズ:ヨーグルト状の柔らかいチーズ)のちょっと酸味の利いたクリーミイな舌ざわりを思い出させてくれます。 「教会を去ろうとして、祭壇のまえにひざまずいた私は、立ち上がる拍子に、ふとアーモンドのようなむっとするあまい匂いがさんざしからもれてくるのを感じた。そしてそのとき、この花の表面にひときわ目立つブロンドの小さな点々があることに気づき、あたかも、アーモンド・ケーキのこがし焼の下に、フランジパン・クリームの味がかくされ、ヴァントゥイユ嬢のそばかすの下に、彼女の頬の味がかくされているように、このブロンドの小さな点々の下に、この花の匂いがかくされているにちがいないと私は想像した」。このまさに匂い立つような香りから、豊かな文章が伝えてくれる<感覚(仏)sensation(サンサシオン)>に重ねて、私たちの想像力に働きかけ蘇らせてくれるような気がしてきます。嗅覚は味覚や触覚と共に、プルーストのこの不朽の名作を構成する大切な役割を演じているように思います。 ところで、日本人にとっては、何といっても花といえばまっ先に思い浮かぶのは“桜”でしょう。でも私たちは、本当は、桜の香りというものを知らないか、あるいはしみじみと香りを嗅いでみた機会もないように思うのです。確かに桜、特にソメイヨシノの香りは弱いのでしょうが、満開の木の下に立つと、その華やかさの中に仄かな香りを感じるような気がして幸せな気分にしてくれます。 ワインの香りに重ねて、『パフューム(香水)』と『失われた時を求めて』という異質の二つの小説に描かれている<香り>に思いを馳せながら徒然なるままに綴ってみました。 これまでは、自分の忙しい人生と生活に追われてきた私たちは、ある程度の年齢になったら、良い香りや匂いによる潤いに目覚めて、わが鼻に思いをいたすことがあれば、より豊かな人生が送れるように思われるのですが、如何なものでしょうか。 余談ですが、6月28日に福岡市と姉妹都市を結んでいるボルドー市が石見銀山と共に世界遺産に登録されたという嬉しいニュースが舞い込んでまいりました。18世紀の見事な建築物と都市開発の調和した景観が評価されたといいます。今秋、スタンダールが見た頃のような、美しく生まれ変わったボルドーの街を再び訪れることを今から楽しみにしております。 |
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