ボルドー便り vol.41

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 香りについて(その3) -



 <香り>の話を締めくくるにあたって、私がボルドーで体験した香りの実践について少しお話しいたしましょう。
 ある時、ボルドー第2大学のクラスメートであった「シャトー・ペトリュス(Château Pétrus)」の御曹司のエドゥワール・ムエックス君から、今度パリで活躍している香りの研究家を招いて、1週間に亘って<香り>の集中講座を開催しますので来ませんかとの誘いを受けました。ボルドーのみならず世界有数のシャトー・ペトリュスの一室で講義を受けられるなんて、こんなすばらしいチャンスはもう2度とないだろうと即座にOKと返事をしました。それから1週間はボルドーの街から友人の車に乗せて貰い、1時間ほどの所にあるリブルヌ駅近くのドルドーニュ河沿いの完成間近なシャトー・ペトリュスの瀟洒な館へ毎日通いつづけました。シャトー・ペトリュスの名は世界的に余りにも有名ですので、ご存知のお方も多いかと思います。ボルドー地方のワインの中でしばしばその年の最高値(1本、十数万円以上)がつき、ブルゴーニュ地方のロマネ・コンティと共に質と価格でフランス・ワインの双璧をなしております。
 <香り>の勉強会がはじまりました。本講座にはクラスメート10数名が招かれ参加しました。パリの香りの先生はボルドー第2大学醸造学部にも講師として招聘され、「香水とワインの嗅覚の世界(L'univers olfactif du Parfum et du Vin)」について講義をされたこともあります。
 初日にはエドゥワール君の父君であり、シャトー・ペトリュスの著名なオーナーのクリスチャン・ムエックス氏がわれわれを出迎えてくださいました。おおいに感激したものです。10数名のクラスメートは、長い机に向かい合って座ります。先生が次々に取り出す香油の小瓶にムィエット(Mouillette:試香紙、香水をシャッとかけて匂いを試してみるあの細長い紙片です)を浸し、一人一人に手渡されます。鼻先に神経を集中させて、それを静かに嗅ぎます。そしてそれが何の香りであるかを嗅ぎ当てることになります。順々に指名され、花の香りであれば「Jasmin(ジャスマン、ジャスミン)」とか「Mimosa(ミモザ)」とか「Iris(イリス、アイリス)」等々、感じたままに答えると、それを先生が「その通り」、「少し当っている」、「それは違う」とたちどころに返答します。花や果物等の香りは比較的分かりやすいのですが、フランス人のクラスメートたちが答える、香りに対する「Frais(ひんやりした、瑞々しい)」とか「Froid(冷たい)」とか「Acidulé(やや酸味を帯びた)」とか「Sucré(甘い)」とか「Poudré(粉っぽい)」いう言葉は、はじめなかなか馴染めませんでした。でも、その内に段々とその言葉のニュアンスを掴めるようになってきました。一枚のムィエット(試香紙)に浸された香油の香りについて、10通りほどの答えがポンポンと飛び出しますので、1週間で何百種類もの香りの言葉が飛び交ったことでしょうか。「花」、「果物」からはじまり、「動物」、「革」、「野菜」、「草」、「香辛料」、「バルサミック(樹液と樹脂性の木の匂いを思わせる香り)」、「ボワゼ(樽からくる香り)」、「焦臭性の匂い(トーストしたパンとかコーヒーなど)」等々。そしてそれらが更に細かく分類されますので、そこには膨大な香りの表現が生まれます。時には香りの化合物名(例えば、スミレの香りの代表的な化合物名はイオノンとダマセノンです)も併せ答えなければなりません。それは、香りの表現用語には必ずサイエンスの裏づけがあるからです。またフランス人が分かる香りの表現でも、私にはまるで嗅いだこともないちんぷんかんぷんな言葉も飛び交います。例えば、「ミルト(Myrte:銀梅花(地中海沿岸に生える潅木で芳香性をもつ))」とか「イゾプ(Hysope:やなぎはっか)」とか「ヴェルヴェヌ(Verveine:くまつづら、又はその煎じ薬)」などは、いくら辞書で引いても香りを嗅いだことがなければ分かるはずもありません。苦労したところです。ただ、「ヴェルヴェヌ」の香りは日本茶の香りに似ていると言いましたら、先生がそれは「Sencha(煎茶)」の香りですか、そうであれば確かに幾分(Un peu)感じるねと。正しく「センチャ」と発音していました。さすがパリの香りの大家だけあって日本茶についてもちゃんと知識をもっているのだなと妙に感心したものです。ただ、「Lie de vin(ワインの澱)」は奈良漬の香りがしましたし、「Foin sec(干し草)」は桜餅の葉の香りやアンパンのおへその桜の塩漬けの香りがしましたが、逆にフランス人に理解してもらうのは難しく残念でした。また果物の中でも、マンダリンとオレンジの香りは違う(日本ではマンダリン・オレンジと称する同じ果物と思っていましたが)とか、桃でも白桃と黄桃の香りは強さが違うのでちゃんと区別して答えなければ正解になりません。中には面白い表現もいくつかあります。例えば、「ダンティスト(Dentiste,歯医者さん)」、歯医者さんの匂いは万国共通のようです。それから「ガソリンスタンドの臭い」,即ち、「灯油香(Pétrole)」はアルザス地方で栽培するリースリングという葡萄品種の典型的なにおいとして有名です。また「救急箱の匂い(Odeur pharmaceutique)」というのもあります。救急箱を開けた時の匂いです。
この香油に浸したムィエットをクラスメートのみなさんも大事に紙に挟み持ち帰っておりました。私も滞在中のホテルで何度も取り出しては嗅いだものです。ムィエットの端に香りの名前を記して封筒にしまっておいた束は、3年以上経った今でも仄かな香りを感じ、当時のことを懐かしく思い出させてくれます。この天然香油は大変高価なものらしく、ジャスミンやローズやアイリス、特にヴァイオレット(菫)の香油は希少品で大変高価なものであり、なかなか入手が困難だといっておりました。
ただ、匂いには、順応とか疲労といわれる現象があります。同一種類の匂いを嗅ぎつづけていると、その匂いを感じなくなってしまう現象のことです。ですから香りやワインを嗅ぐ時は余り時間を掛けずに短時間で集中して行なわなければなりません。
 2日目もわれわれが講義を受けている会議室にクリスチャン・ムエックス氏がお見えになり、まだ完成していない会議室の壁に立て掛けたままになっている、両サイドの2枚の大きな絵について説明をしてくださいました。ロートレックと仲の良かった同時代の画家の描いた絵だそうですが、残念ながら名前は失念してしまいました。ムエックス氏は現代美術にも造詣が深く、また何度も来日されていますので日本の文化にも精通しておられ、俳句を好み、作家の井上靖さんをはじめ多くの文化人とも対談しております。
 3日目には突然シャトー・ペトリュスの高名な醸造長であるジャン・クロード・ベルエ氏が姿を現しました。その風貌は醸造長というより大学教授の風格を感じました。丁度匂いを嗅いでいる最中でエドゥワール君がムィエット(試香紙)を手渡しますと、辺りは一瞬水を打ったように静まりかえり、醸造長の発する一言に注目します。醸造長はムィエットを嗅ぐや否やすかさず「アニマル(動物臭)!」と答えられました。香りの先生は畏敬の念をもって頷いていたのが印象に残っています。翌週、ジャン・クロード・ベルエ氏はボルドー第2大学醸造学部に特別ゲストとして招かれ、「サン・テミリオンとポムロールの土壌の違いにより、ワインがどのように変わるか」というテーマで、ボルドー右岸の6本のワインをデギュスタシオン(利き酒)しながら解説してくださいました。醸造学については百科事典的な知識をもつといわれる天下のシャトー・ペトリュスの高名な醸造長の話とあって、クラスメートのみなさんは一言も聞き漏らすまいと真剣な眼差しで耳を傾けていた姿がとても印象に残っています。
 最終日は、講義が終った後でポムロールにある唯一のレストラン、「ル・メルロー(Le MERLOT)」で、先生を囲んで夫々が持ち寄ったワイン(さすがシャトー・ペトリュスは出なかったもののエドゥワール君がムエックス・グループのつくるワインをいろいろ持参してくれました)で大いに盛り上がりました。ブリヤ・サヴァランが『美味礼賛』でいう、よく食べ、よく飲む条件は食卓でよく話をすることだと、まさに「コンヴィヴィアリテ(Convivialité,会食者が楽しい会食によって味わう満足感)」をよく実感できた一夜でした。
 又とない貴重な経験をさせてくれたエドゥワール君に只管感謝!!

 


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