ボルドー便り vol.42

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 香りについて(その4) -




 今回はボルドー第2大学醸造学部で学んだ<香り>について少々述べてみたいと思います。
前回までは比較的良い香りについて話してまいりましたが、今回は悪い香りについてちょっと触れてみます。やや専門的なところもありますが、ご容赦ください。
 香水(香料)の世界では、訓練で最も大切なことは、まずその分野の最高級品の香料から「嗅ぎ込んで」でいくことだそうです。そして「良い香りとは何か」を自分の身につけることだといいます。このことはワインについてもいえることでしょうし、あるいは骨董を見る眼にも通じることかもしれません。
 でも、ボルドー第2大学でワインをデギュスタシオン(利き酒)する時の<香り(匂い)>の教えは、むしろ逆で、まずワインの香りに欠点があるかないかを探しなさい。悪い香りが分かれば自ずと香り全般について理解が深まるという教えであったように思うのです。
 私が<香り>で最初にカルチャーショックを受けたのは、何回目かのデギュスタシオンの授業の時に、クラスメートの何人かがワインを嗅ぐや否や「フェノレ(Phénolé)だ!」という言葉を大声で発した時でした。初めて聞く言葉に唖然となりました。ボルドーに来るまでは、ワインの欠点といえば、「コルク臭」、「カビ臭」、「酸化臭」それと精々「還元臭」くらいしか知りませんでした。それがこの「フェノレ」という聞きなれない言葉を聞いて吃驚したわけです。その後もかなりの頻度でこの言葉を聞くことになりました。これは正に化学物質名で、揮発性フェノールからくる言葉です。フランスではこの臭いを「馬の汗(Sueur de cheval)」という面白い表現を使います。馬の汗のような不快な臭いのことです(私は嗅いだことはありませんが、馬小屋の臭いということでほぼ想像はつきます)。この「フェノレ」な臭いをもたらす原因物質は白ワインと赤ワインでは違ってきます。白ワインの場合は、何か鼻を刺すような臭い、即ち前回お話しました「救急箱」を開けた時の臭いと思ってください。赤ワインの場合は、古い革のような臭いを思い浮かべてもらえれば大体想像がつくと思います。つまり、「フェノレ」とは古い樽や醸造設備の管理の不備で、ある種の微生物汚染によりワインに異臭が生ずるもので、香りの欠点のひとつなのです。
 このように良い香りと同様にあまたの悪い香りを表現する言葉が、フランス語には沢山あります。香りにもいろいろな悪役がいるということです。デギュスタシオン(利き酒)する時は、このような悪い香りを判別できるようにしておかねばならなりません。例えば、「草のような(Herbacé)」,つまり青臭い香りです。同様に「グリーンな(Vert)」という言葉は、私たち日本人にはある種の爽やかさを伴った良い言葉のように聞こえますが、フランス語ではより強い香りの欠点となります。青臭い香りが更に強い時には「切ったアーティチョーク(Artichaut coupé)という表現もあります。でも、このような悪い香りを意識的に探し出すことは飽くまでデギュスタシオン(利き酒)の時に限ったことであって、レストランや家庭で普段ワインを楽しむ時には忘れてください。楽しめませんので。
 難しいのは「リンゴの香り」と「バラの香り」です。良い香りの代名詞のようなこの2つの香りが何で欠点なのかと不思議に思われることでしょう。「リンゴの香り」には、その化学物質(アセトアルデヒド)の濃度が低い時には酸化臭があるからです。酸化して香りが壊され、生気がなくなり、繊細な味も失われてしまうのです。ブルターニュ地方名産のリンゴの微発泡酒、「シードル(Cidre)」の匂いも程度によっては欠点の言葉になります。ですから「リンゴ(Pomme)」という言葉は、ワインを評価する際には気をつけて使う必要があるのです。ワインの香りの表現は、言葉ひとつをとっても微妙でなかなか難しいです。
 もう一方の「バラの香り」(代表的な化学物質はフェニルエタノールと酢酸フェニルエチル)は白ワイン、赤ワイン双方にある香りで、どんなワインでも発酵してつくられている以上、多かれ少なかれもっている香りなのです。従って、一定以上の強いバラの香りは、葡萄の品種が本来持っているいろいろな香りを覆い隠して、ワインの個性自体を奪ってしまうために決して品格あるワインとはいえなくなってしまいます。前にも述べました通り、ワインの質をはかる最大の基準は香りの複雑さにあるからで、香りを独り占めしてはダメなのです。このように良い香りを放つものでも、余り強すぎるとワインの世界では嫌われものになってしまいます。
 ところが、バラの香りは、香水をつくる際には最も重要な香料となります。
古(いにしえ)のローマ時代から人々が愛でたバラ、クレオパトラは香り使いの名人で、ローマのアントニウスをもてなす時に室内全てを飾ったのは美しく芳しいバラ、ルネッサンス期のあのボッティチェッリの描いた『春』、大地の精霊クロリスが生み出した赤いバラ、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットがウィーンからパリまでの輿入れの時、行く先々で沿道の人々にふりまいた高価なバラ等々。またナポレオン1世の皇后ジョセフィーヌは「現代バラの女神」といわれ、権力と財力を背景に、世界中から史上類をみない収集と栽培を行い、人工交配で新種を育成したことは有名です。このようにバラは時々の歴史と文化と共に歩んできました。ローマ時代から人々によってその香りが愛でられてきたバラも、昨今は、花の美しさに傾きがちで、香りがなおざりにされてきたきらいがあるといわれています。鼻の楽しみが失われてきたのでしょうか。時代と共に香りの趣向も、華やかで強い甘さの香りからソフトで軽く上品な甘さで親しみやすい香りへと変わっていったようです。
 ところで香料用のローズとして世界的に有名なものは、何といってもブルガリア・ローズ(ダマスク・ローズ)です。毎年たった30日間しか花を咲かせません。そのブルガリア・ローズの花びらの中に最も多くの香料が含まれているのは、花がカップのような形を保っている時といわれます。そのため早朝5時過ぎから陽光が余り高くならない10時ころまでに花の摘み取りを行なうことになります。香料を1キロ採るには、3トンの花びら(約140万個の花)を摘み取らねばならないそうです。高価なわけです。
 余談ですが、キリスト教文化では15世紀中頃にシュテファン・ロッホナーによって描かれた『薔薇垣の聖母』に代表される薔薇垣を背にする聖母子像がありますが、ギリシャ・ローマ神話の多神教文化においても、バラの赤い色は血の色と結びつけられているのは大変興味深いことです。16世紀初頭のセバスティアーノ・デル・ピオンボが描くところの『アドニスの死』で、アプロディテは恋の相手のアドニスのもとへ駆けつける途中でバラの棘を踏んでしまい、流した血によって以降バラは赤く染まったというエピソードがあるからです。因みに、アドニスの流した血からは、アネモネの花が咲いたといわれています。
 ついつい本題から逸れて後半は、バラの薀蓄話を長々と語ってしまいましたが、世界中で最も親しまれているバラも、ワインの世界でいう香りと、香水(香料)の世界でいう香りでは、自ずと価値観、評価が違ってくるということをここで述べてみたかったのです。

 「香り」の章を終えるにあたり、ボードレールの詩、<香りと色と音が答え合う(Les parfums,les couleurs et les sons se répondent)>を贈ります。

  「自然」はひとつの神殿にして、その生ける柱、
  時おり、おぼろなる言葉をもらす。
  人間(ひと)は親しげな眼差しもて見守る
  象徴の森を抜け進みゆく。

  彼方で混じり合うこだまの余韻さながら、
  夜のごと光明のごと涯しない、
  暗く深い統一の中で、
  香りと色と音が答え合う。

  幼子の肌そのままにみずみずしく、オーボエのごとく
  甘やかで、草原のごとく青き香りあり、
  ―かたや頽廃と絢爛豪華の香り、

  竜涎、麝香、安息香、薫香と、
  無限のものの広がりもて、
  精神と感覚の陶酔を歌う。           
                  ―ボードレール『悪の華(Les Fleurs du Mal)』より―
 
 みなさん、耳を澄ませて、いや鼻を澄ませてワインや香水のいろいろな香りを聴いて、しばし想像の《感覚の世界》に思いを馳せてみませんか。

 なお、私事で恐縮ですが、暫くギリシャ―イタリア―フランスの長旅に出掛けてまいります。勝手ながら10月、11月は休刊とさせていただきます。

 


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