ボルドー便り vol.43

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー・ムートン・ロートシルト1945年(その1) -




 今年もいよいよ師走を迎えました。一年の経つのは何と早いことでしょう。今年も一年間に亘り駄文《ボルドー便り》にお付き合いくださいましてほんとうにありがとうございました。感謝の気持ちで一杯でございます。
 さて、今年の最後にあたり、私のワイン人生の中で最も印象に残った1本のワインについて語ってみたいと思います。それは20世紀の中で最高のヴィンテージ(収穫年)といわれています1945年、つまり第2次世界大戦が終った年につくられたワインの話です。
 私が宝塚市に住んでいた頃のことで、今から彼此35年も昔のことになりますが、私にとっては相当衝撃的なことでしたので、今に至るも不思議とその時の場景はしっかり刻み込まれております。当時の日記と記憶を辿りながら語ってみようと思います。
 初秋のある晩のこと、隣の駅のワインの友、Mさんから電話が掛かり、ちょっと珍しいワインを入手したので飲みに来ませんかとお誘いを受けました。勿論、私はいそいそと出掛けました。彼の家を訪ねると、沢山の本と音響機器に囲まれた部屋の大きなテーブルの真ん中に、ぽつんと1本のワイン、そして2つの薄手の大きなワイングラスだけが置かれていました。その壜のラベルを見るや、何と天下の<シャトー・ムートン・ロートシルト(Château Mouton-Rothschild)>、それも1945年と書いてあるではないですか!先ずは、そのラベルに圧倒されてしまいました。こんな貴重なワインを一体どうして入手できたのですかと尋ねると、半年ほど前にパリの店で偶然見つけ、帰りの飛行機に乗る時にこの1本だけは、大事に抱えて持ってきたのだと言います。
 本題に入る前に、<シャトー・ムートン・ロートシルト>とは、どのようなワインであるかをご理解いただくために少し述べてみたいと思います。皆様には<ロスチャイルド>と英語読みにしますと(ドイツ語ではロートシルト、フランス語ではロッチルドと発音)、ああ、あの世界金融界の雄、ロスチャイルド財閥のことかとお分かりいただけると思います。このロスチャイルド家のロンドンのネイサン(三男)が所有したのが、<シャトー・ムートン・ロートシルト>なのです(日本では“Rothschild”を何故かドイツ語読みで表記しています。以下<シャトー・ムートン>と略します)。この<シャトー・ムートン>は、毎年有名な画家に絵の制作を依頼しラベルを飾っていますので、デパート等でご覧になったことがあるかと思います。ピカソをはじめコクトー、ローランサン、ブラック、ダリ、ミロ、シャガール等々、<シャトー・ムートン>のラベルに登場する大家には事欠きません。日本人では堂本尚郎(1979年)とクロソフスキー・ド・ローラ・節子(1991年)の2人が夫々の年のラベルを描いております。実は、このような絵画ラベルは1945年に初めて誕生したもので、以降毎年つづいております。今ではコレクターズ・アイテムになっています。世紀の当たり年であった1945年のワインのラベルは、ボルドー生まれのフィリップ・ジュリアン(Philippe JULLIAN)が描いた作品で、第2次世界大戦の勝利を象徴する<V>の字を中心に月桂樹と葡萄の枝をあしらったシンプルなものです。因みに、ラベルを依頼された画家たちへの報酬は金銭ではありません。一律、ワイン10ケース(120本)です。5ケース(60本)はその画家の描いたラベルの年のワイン、残りの5ケース(60本)は画家当人が望んだ収穫年のものになっているとのことです。
 ところで、1855年のパリ万国大博覧会の目玉商品として、フランス最高のワインを出品しようということになり、ボルドー地方のメドック地区の赤ワインに格付けを行ないました。この格付けのトップ、第1級銘柄に選ばれたのが、シャトー・ラフィット・ロートシルト(ロスチャイルド家のパリのジェームズ(五男)の所有)、シャトー・ラトゥール、シャトー・マルゴーそして唯一グラーヴ地区から選ばれたシャトー・オー・ブリオンの4つのシャトーでした。この時、<シャトー・ムートン>は残念ながら第1級から外され、第2級の筆頭に留まるという憂き目に遭います。<シャトー・ムートン>としては痛恨の極みです。ラベルには「われ1位たり得ず、されど2位たることを潔しとせず。われムートンなり」と記され、捲土重来を期すことになります。そして漸く100年を超す絶えざる努力の結果、ついに1973年に目出度く<シャトー・ムートン>は第1級に格付けされることになります。このことは、1855年の格付け制度にとっては例外中の例外で、まさにボルドーワイン史の中で歴史的快挙となりました。かくて<シャトー・ムートン>は、そのモットーを「われ1位なり。かつて2位なりき、されどムートンは変らず」とラベルを書き直すことになります。晴れて第1級となった年のワインのラベルを依頼する芸術家は、ピカソをおいては考えられなかったのでしょう。この1973年のピカソの絵には、ワインの美味に酔いしれ踊り狂う3人の人物が描かれています。左端に踊るのは酒神ディオニュソス(バッカス)でしょうか。右端の人物は逆立ちまでしています。そして<Château Mouton-Rothschild>の文字の下には、「PREMIER CRU CLASSÉ En 1973(1973年に第1級格付け)」と誇らしく記載されています。
 本題に戻ります。Mさんは、「そろそろ始めることにしましょうか」と言いました。私は思わず「今までに壜を開けたいとの誘惑にかられませんでしたか、或いはもう少し寝かせておきたいとは思いませんでしたか。本当に今日飲んでしまっていいのですか」と尋ねました。「勿論ですよ。そのために今晩お呼びしたのですから。半年ほどゆっくり寝かせてから金子さんと二人で味わう積りで、遥々パリから持参してきましたので」と言いながら、その手には、既にコルクの栓抜きが握られていました。「シャトー・ムートン1945年は、30年近くも只管熟成をつづけてきた、まさに貴重な骨董品のようなものです。それに、1945年という第2次世界大戦が終わった年は、ボルドーワインにとっては空前絶後の偉大な年であったはずです。21世紀の前半くらいまでは優に熟成を重ねるワインじゃないでしょうか。今飲んでしまうのは勿体ない気がするのですが・・・、ほんとうにいいのですか」と、私は思わずまた言ってしまいました。Mさんはもう飲むことに決めているのだとばかり、「壜はそこに2日前から立てておき、澱を下ろしておきました。良い状態になっていますよ」と。彼は壜が開けられるまでの時間を計算しながら、惚れぼれとそれに見とれていたのかもしれません。二人でテーブルに着くや、Mさんは最初の作業に取り掛かりました。壜の首をしっかりと握りしめ、栓抜きの先端をコルクに当てるさまを、私は息を殺して見守りました。つづいて、慎重にゆっくり、ゆっくり、栓抜きがそれ自体の力で突き刺さっていくように、殆ど力を込めずに回転させていきました。30年近くもの間、密封されていた古酒の壜からコルクを抜き取るには、リコルク(新しくコルクし直す)されていなければコルク自体も当然古くなっているため余程慎重に行う必要があります。壜はまっすぐ立てたまま、少しも動かすことはならず、コルクはまっすぐに確実に引き抜かなければなりません。捻じったり回したりすればコルクを砕く恐れがあるためです。敢えて、Mさんがソムリエナイフのような梃の作用を利用しない旧式の栓抜きを用いたのは、壜の首を移動するコルクの正確な動きを感じとることができるからです。やがて静かに滑らかに、コルクは壜の口から抜き取られていきました。はるか昔に樽から壜に移された時以来初めて、この<シャトー・ムートン1945年>のワインは外気を自由に呼吸しはじめたのです。
 そして、通常は次の手続きとして、<シャトー・ムートン1945年>のような偉大な収穫年の古酒は、澱が壜の底に落着くまで立てておいた後、デカンター(壜とグラスとの間に位置する束の間の宿;カラフ)に移されます。壜からデカンターへ移し替えるのは、澱が混ざらないようにするばかりではなく、同時にワインを適当に外気にあてることも意味しています。古いワインであればあるほど、壜内にたまった黴臭さを除去するために、外気を呼吸させる必要があるためです。しかし、Mさんは敢えてこの偉大な<シャトー・ムートン1945年>に敬意を表し、名誉のためにかそのまま壜から直接注ぐことを前以て決めていたようで、コルク屑を一片もワインの中に落とさないように、テーブルの上で慎重の上にも慎重にコルクを抜くという微妙なやり方をとったのです。Mさんは抜いたコルクを鼻の下で左右に振って、その芳香を嗅いでみて、それを私に渡してくれました。「これだけでは何とも言えませんね」と呟いたが、無論彼の言う通りで、コルクから立ちのぼる微妙なボルドー・ポイヤックの芳香は、気の抜けたワインですら淡い香りを放つことがあるので、何の意味もありません。「さて、問題はワインなんだ」とポツリと言いました。さらに、「こればかりはどんな血筋やヴィンテージが良くても、開けてみるまではわからないですからね」と。栓を抜いたままのワインは、暫く立てておき、底に下りている澱を掻きたてないようにしながらグラスに注ぐことになります。その大きめのグラスはまるで空気でつくられているかのように薄く、爪が触れると、小鳥のように妙(たえ)なる音を響かせます。Mさんは静かに、ゆっくりと澱が舞い上がらないように、何度かに分けて2つのグラスに注ぎ、注ぎ終わった瞬間、ホッと音をたてて息をはきました。儀式の第一は無事に終わりました。最後の一滴はこぼれないで壜へ戻され、澱も漏れないですんだようです。
2つのグラスに歴史がなみなみと満たされ、二人はグラス越しに笑顔を交わしました。そして歳月を経た枯淡な色と化した赤褐色(マホガニー)の色調を楽しみながら、グラスの縁の内側に、ピタッと鼻をあてがい、ゆっくりとグラスを回しながらワインの香りを深々と吸い込みました。ところが・・・です。二人とも一瞬黙りこくって、そしてやおら眼をあげて「・・・・」グラスを置きました。「おや、ちょっと変ですね。期待したように香りが立ち上がってきませんね・・・」と、私は思わず呟いてしまったのです。この後の顛末は次回をお楽しみください。
 少し早いようですが、皆様どうぞ良いお年をお迎えください。


 


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