ボルドー便り vol.44

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー・ムートン・ロートシルト1945年(その2) -




 明けましておめでとうございます。
原田先生のHPに駄文《ボルドー便り》を連載させていただきましてから、早や4年目を迎えることになりました。これも偏に読者の皆様と原田先生からの励ましのお陰と心から感謝いたしております。今年も暫くは駄文とのお付き合いをお願い申し上げます。
 さて、前回は<シャトー・ムートン・ロートシルト(Château Mouton-Rothschild)1945年>の香りを嗅いだところで終ってしまいました。皆様にはこのようなマニアックでスノッブ的な語り口は読んでいても鼻もちならないと思われたかもしれません。でも、極上のワインには、心から敬意をこめて取り扱わなければならないこともどうぞご理解くださいまして、後篇をお読み願えれば幸甚です。
 それでは、<シャトー・ムートン1945年>の話をつづけてまいります。
抜栓したコルクはしっかりしており、全然損なわれていません。何故に香りが立たないのか不思議でした。それが枯淡からくるものか、それとも何か枯淡に似た全く別のものか判断がつきかねていました。やはりデカンターに移す必要があったのかとふっと思ったりもしました。もしワインが生気を失っていたらと一瞬不安がよぎりましたが、いやそんなことはないと心のうちですぐに打ち消しました。つのってくる不安と期待の気持ちが交錯します。Mさんも同じ想いに駆られていることでしょう。でも、色調はかつての瑪瑙(めのう)のような閃きはないものの、ルビー色から徐々に進行し、時代を経た見事な赤褐色(マホガニー)になっており、いまだ輝きはしっかりあるし、縁(ふち)は成熟さを見せ、中心部は深い。30年近くの歳月を経たワインであるから、色調はこれで申し分ないはずです。私は気を取り直して次の段階に移ろうと、通常の手順で一口ワインを含んでから、ほんのわずか脣(くちびる)をあけ空気を吸い込み、口中のワインを香気とまぜあわせてから胸の中に送りました。それから鼻からはきだしました。そして口中のワインを噛むようにして、舌でころがし、最後にワインを少しずつ流しこんでいきました。1杯目の香りから、ひょっとすると老いて衰退してしまい2度と回復しないのではとの心配は、いつしか吹き飛んでいました。失望は遠ざかり、ワインは上昇をはじめたのです。味わいは、非常にリッチで、大変な濃密さを蓄えており、何層も重なる果実味をもっていました。豊かなアルコール、しっかりした酸そして濃厚なタンニンの3要素のバランスが見事にとれた、豊満なフルボディのワインに仕上がっていました。そして、驚くことには、2杯目、3杯目と杯がすすむにつれ、空気との触れ合いで急速に目覚めたのか、1杯目のおとなしさは何処へやら、エキゾチックで、完熟感のあるカシスなどの黒系果実、モカコーヒー、タバコそしてスパイスの甘い香りが見事に立ちのぼってきたのです。えも言われぬ複雑な香りをたたえた見事なものでした。長くつづくフィニッシュには完熟した果実味を感じました。
<シャトー・ムートン1945年>は、まさに20世紀における不死身なワインだったのです。すぐれたワインへの賛辞としていわれるように、神はこれより美味しいワインをつくろうとされたが、結局おできにならなかった、という言葉を贈りたい気分になりました。
 余裕が出てきたのか、Mさんは「1945年のワインは、フィロキセラ禍(葡萄の樹に寄生し、根を攻撃する昆虫による病気)前の1865年や1870年に匹敵するほどの偉大な年だそうで、1947年や1959年や1961年といった偉大なワインと並び称せられています。確かに、いずれも見事な出来映えで感嘆に値しますが、それでも1945年は凌げないそうですよ。戦争の終った年が葡萄の大当たり年だったなんて随分皮肉な話ですね。当時ムートンのシャトーはナチスの対空防衛戦線の本部になっていましたが、ナチスの将軍はムートンの価値が分かる男だったのか、指一本触れずにドイツへ帰って行ったそうです。それともドイツ軍の勝利を確信して、戦勝用の乾杯のために取っておいたのかな」といつになく饒舌になっていました。そして更につづけました。「昨夜、このワインのできた年はどういう年だったか、ちょっと年表を調べてみました。ワインというのは功徳があります。他の酒ではこういうことはとても思いつきませんからね」と言いながらメモを読み上げました。「1945年という年はまさに激動の年ですね。わが国には広島と長崎に原爆が投下され、降伏そして終戦と大変な時代でした。フランスでは解放の時を迎えます。ドゴール将軍が国家元首となり、全ての銀行そしてエール・フランスとルノーを国有化します。社会保障への加入が義務づけられ、女性は漸く選挙権を獲得します。そして共産党が国民議会選挙で第1党となります。イギリスでは労働党が圧勝し、チャーチルは辞任。アトリーが首相となります。そういえば、イギリスの著名なワインライターは、この<シャトー・ムートン1945年>のことを往時のチャーチルを偲んでか、“Churchill of a wine”なんて特別な名前を冠して呼んでいますよ。一方アメリカではルーズベルトが死去し、トルーマンが昇格して大統領に就任しました。アメリカ、イギリス、ソ連の3カ国はヤルタ会談とポツダム会談を開催。パレスチナでは次第に戦闘が頻発するようになり、ユダヤ人はイスラエル国家の建設を要求します。ホー・チ・ミンはベトナム民主国家の樹立を宣言。国際軍事裁判がニュールンベルグで開催されました。ムッソリーニが処刑され、その2日後にはヒットラーが自殺。翌年、国際連合とユネスコが創設。また戦後初のノーベル医学賞はペニシリンを発見したフレミング博士に与えられました等々」と。
 そんな当時の歴史を肴に飲んでいるうちに、30年近く眠りつづけてきたワインは、いつの間にか壜の3分の1を残すまでになっていました。私は注いでもらったグラスを一口、二口すすったあと、グラスを斜めにしてみると、内壁に今まで見なかった何か黒褐色の微粉がこびりついているのが分かりました。酒の沈殿物というべきか、つまり澱です。Mさんがあれだけ細心の注意をもって開栓し、注意深く注いだのになお浮遊していたのです。恐らく底にはどろどろになって溜まっていることでしょう。このワインが独房のような壜の中で、戦後の30年近くを懸命になって生きつづけてきた証でもあります。もうあと僅かしか残っていません。最後は噛みしめるように一滴ずつ味わいました。
 二人でとうとう貴重な1本を空けてしまいました。今回はワインだけに集中するために、料理は一切なく、あい間にバゲットだけを齧りながら。こうして贅沢な饗宴は大満足の裡に終わりました。何かとてつもなく長い時が流れていったように感じられました。
Mさんからは記念として空壜まで頂戴しました。今でも私の小さな書斎にその空壜を飾っています。ラベルを改めて見ると、1945年のこの<シャトー・ムートン>には、青字で<No.62,860>とシリアル・ナンバーが刻印されています。当時、シャトーでつくられた中の62,860本目のワインなのでありましょう。
 その後、私はあるオークションで、偶々<シャトー・ムートン1945年>の1本に巡り合い、そして思い切って落札しました。ところが、自宅の小さなカーヴに長い間寝かせておりましたら、60年以上を経ているためにいつの間にか壜の肩口までワインが減ってきてしまいました。過日、フランスのネゴシアン(ワイン商)に尋ねましたところ、ワインが正真正銘の1945年の<シャトー・ムートン>であり、かつ状態が正常と認められれば、シャトーでちゃんとリコルクして、運が良ければ注ぎ足してくれるかもとの返事を頂戴しました。しかし、この状態ではワインはもう生きていないだろうと半ば諦めています。ただ、ワイン書によれば21世紀の前半まで、あと50年近くは生きながらえると書いてあります。そうなるとこのワインは、100歳までも生きつづけることができることになります。確実に私の方が先に逝ってしまいます。終戦の年、1945年につくられたワインを持っているだけで一人ロマンにひたっておりますが、所詮ワインは飲まなければ何の価値もないわけですから、いつの日か35年前に飲んだ<シャトー・ムートン1945年>を想い浮かべながら、恐らくあの時以上に不安と緊張感に包まれつつ壜を開けることになるでしょう。
 なお、私の<シャトー・ムートン1945年>をカーヴから取り出してみると、そのシリアル・ナンバーは<No.63,042>とあります。今初めて気が付きましたが、Mさんのワインとは182番しか違いません。ひょっとすると同じ樽から生まれたのかもしれません。そうだとすると、今年63歳になる兄弟だったはずです。このワインには、私とほぼ同じ時間を共に生きてきたと思うと何故か無性に親しみと愛着を感じてしまいます。古くなってとうに盛りは過ぎているだろうけど、まだその片鱗を残してくれていたらと只管祈るばかりです。私の時はもう終わったよ、と言わないように。
因みに、ラベルには、普通サイズの壜は74,422本(その他に、Jéroboam(普通壜の6本分):24本、Magnum(普通壜の2本分):1,475本、Réserve du Château(シャトー保存分):2,000本)を生産したと記されてあります。現在、<シャトー・ムートン>は年に30万本ほどつくられていますので、1945年のワインがいかに少量であったかがお分かりいただけると思います。
 想えば、ボルドーのポイヤック村でつくられたこの2本の壜は長い旅をして、遥々東洋の地に届いたのであります。少なくとも私の1本は、どういう経路で日本に辿り着いたのか知るすべはありませんが、シャトーでは、これ以上ない理想的な環境の中で過ごしてきたことは間違いありません。その冷暗で静謐な酒蔵を出た時から長い苦しい旅を強いられたのかもしれません。戦後の混乱期に、ポイヤック村の田舎から港を出て、船で海を渡り、異国の見知らぬ波止場に上陸し、そこからワイン商の倉庫に運ばれ、そしてその倉庫で眠りつづけたのか、それとも誰かに買い取られて後に運び込まれたのでしょうか。本来、上質のワインというものは、特に貴族的なワインは感じやすくて、若いうちに美質を円熟されるようにと生まれつき、深窓の令嬢のごとく大事に育てられてきたはずです。それがある時旅に出て、長い旅路の果てに日本に辿り着いたというわけです。これも一つのロマンでありましょう。
 ところで、ワインに余り関心のない読者のお方には、今回のようなスノッブ(俗物根性)にはとてもついていけないと思われたかもしれません。でも、そういうことを全て相殺するものは、ワインを愛する気持ちといまだ醒めやらぬ好奇心のなせるわざということで、どうぞご勘弁を願います。たかがワイン、されどワインなのであります。
 2回に亘り辛抱強くお読みいただき、ありがとうございました。


 


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