ボルドー便り vol.46

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 古書とワイン(その2) -



グーテンベルグ聖書と印刷機
 前回の終りのところで、昔の書物の生産・流通とワインづくりに共通するものは、“プレスと樽”の使用であると書きました。プレスについてはお分かりになったかと思います。中世の頃の葡萄の搾り機(プレス)です。これがあるのは貴族あるいは修道院に属する大きな葡萄園だけで、それは印刷機(プレス)に似たような大きな木製の葡萄搾り機であったからです。今でもフランス・ブルゴーニュ地方のシトー派の修道院があったクロ・ド・ヴージョを訪れると当時の巨大な木製の搾り機を見ることができます。一方、書物の世界では、プレスは写本時代には製本にだけ用いられていましたが、印刷時代になると印刷と製本の両方に使われるようになりました。とりわけ上から圧縮して印刷する方法が、熟した葡萄に圧力をかけて絞る方法と基本的に同じ原理を用いていることは重要な点だと思います。それもドイツワインの本場、ライン河畔のマインツで15世紀に発明された活版印刷術が、数々の銘酒を産みだすライン河沿いに普及していった事実は大変興味深いところです。羅針盤、火薬と並び世界三大発明の一つといわれる活版印刷術、その父といわれたマインツ出身のヨハン・グーテンベルグ(1398頃―1468)が自宅に大量のワインをコレクションしていたことも、偶然とはいえない大変興味を惹かれる話です。グーテンベルグは、ラインガウやラインヘッセンのワインを美味しそうに飲みながら活版印刷術を考えていたのでしょうか。
 ところで、世界で最も美しく高価な活版印刷本はグーテンベルグがつくった貴覯本の中の貴覯本、42行聖書といわれています。かつて『ライフ』誌が過去1000年間における最も重要な出来事と人物の百選ランキングを発表しました。それによると「最も重要な出来事に選ばれたのはドイツ人のグーテンベルグによる1455年の聖書の印刷。活版印刷技術そのものの起源は中国、韓国が早いが、宗教改革を刺激したほか、聖書の普及で特定階級のものだった読み書き能力が大衆レベルに広がり人類の情報革命の先駆になった」と報じています。グーテンベルが成功したのは、何度でも使用することのできるアルファベット一本ごとの鉛合金の活字の鋳造と、それを用いた書物の大量生産にあったのです。こうしてグーテンベルグの活版印刷の特徴となるプレスの技術は、葡萄搾り機、油性インクと鉛合金の組み合わせによって生まれ、瞬く間に中世ヨーロッパ各地に広がり、様々な分野で活用されていったのです。それはもはや単一性を基本原理とする写本ではなく、活字本という複製芸術の時代に入ったことを意味します。それまでは、12世紀以前の写本生産の担い手は修道院が中心で、聖書、なかでも福音書や詩篇が豪華な装飾写本として生み出されていました。中世のワインづくりも同じく修道院が主な担い手であったことを考えると興味深いものがあります。
 グーテンベルグは、15世紀に行われたドイツ修道院改革の一環として、礼拝用の大型聖書の需要があると見越して、42行聖書を企てました。156部の予定が180部の予約購読までいった事実は、グーテンベルグが市場調査には成功したことを物語っています。しかし、資金調達はできたものの期日までに返済できず、せっかく苦心して開発した印刷機などを全て借金のかたに没収されてしまうという悲しい話がつき纏います。やがて亡命同然の身でグーテンベルグは、ある時期アルザスワインで有名なストラスブールに移り住むことになりました。ストラスブールにあるグーテンベルグ広場の真ん中には、旧訳聖書の一節を広げたグーテンベルグ像が誇らしげに建っています。
 今やグーテンベルグ聖書は世界で47部のみしか現存していません。そのうちの1部を慶応義塾大学が所有しています。これは非キリスト教国そしてアジアの国で所有する唯一の『グーテンベルグ42行聖書』です。因みに、グーテンベルグ聖書を見た最初の日本人は慶応義塾の創始者、福沢諭吉であるといわれています。1862年に遣欧使節の一員としてサンクト・ペテルブルグを訪問した時に見たとされています。その時から福沢とグーテンベルグ聖書には、浅からぬ因縁があったのでしょう。
 次に樽の話に移ります。ワインを寝かせ熟成させるのに使う木樽は、書物の生産・流通といかなる関係にあったのでしょうか。現在ではなかなか思いつかないでしょうが、ワインの木樽が印刷された書物を他の場所に運ぶのに最適な輸送手段として長く使われてきたのです。恐らく中世の写本時代の頃から、長距離の書物の輸送にはこの木樽が用いられていたと考えられます。近世に入って書物の流通がより盛んになると、木樽を使用する場面が挿絵にも現れてきます。例えば、16世紀半ばにニュールンベルグで制作された写本の挿絵には、当時の出版人で書籍販売商であった人物が、木の樽にせっせと書物を入れる姿が描かれています。ワインを熟成させる木製の大樽は丈夫にできている上に転がしても大丈夫ですし、ワインが洩れないようにつくられていますから、防水機能も万全です。従って、重い荷物の安全な長距離輸送には最適で、ヨーロッパでは18世紀に至るまで広く利用されていたといいますから驚きです。効率的な廃物利用というか、現代版のコンテナ輸送に匹敵するものでしょう。うまいところに目を付けたものです。通常は木の大樽に入れられるのは製本済みの書物でしたが、遠隔地に輸送される書物が常に製本されてから樽に収められるとは限りません。印刷されてはいるが、未製本のシートの状態のものも送り出されていたはずです。何故ならば、未製本のまま遠隔の都市や外国に送られた書物が、到着した場所で装飾されたり製本されることは、15世紀半ばでも実際に行われていたからです。イギリスで装飾されたグーテンベルグ聖書は、それが未製本の状態で樽に入れられて輸送されてきた可能性を示唆しています。
 17世紀の書物の流通に関していえば、イギリスはフランスをはじめ大陸との交易が盛んで、この交易にはワインの大樽が用いられたのです。ジョン・イーヴリンやサミュエル・ピープスといったイギリスの書物コレクター(彼らはワインコレクターでもあります)が、未製本の印刷シートをロンドンからパリへ送って、特別の装丁をしてもらうことも少なくなかったといわれております。この時代のフランスの製本技術は特に優れており有名でした。こうした書物もワインの大樽に詰められて往復の旅をしたのです。勿論ワイン愛好者でもある彼らは、中身のワインを胃袋に収集したことはいうまでもありません。
 ところでここに登場してきたサミュエル・ピープス(1632-1703)という御仁は、有名な『ピープス氏の秘められた日記』の著者です。ケンブリッジに学び、卒業後官界に入り、海軍大臣として近代英国海軍の設立に貢献しましたが、1688年の革命で職を追われ、余生をロンドン郊外クラッパムで送りました。1660年に書き始めた有名な日記には、生臭い私生活があからさまに告白され、奥さんに見つかるのを恐れたためか特殊暗号を用いた速記文字で記されていたため、母校のモードリン・コレッジに残されたままになっていました。ようやく1825年になって解読され日の目を見たものの、記述の内容があまりにもあからさまなため、そのままの出版は長く憚れていました。全11巻の無削除版の出版完成はほんの30年程前の出来事で、天下の奇書のひとつに数えられています。前回紹介しました『チャリング・クロス街48番地』の中でもアメリカの女性が書簡の中で、サミュエル・ピープスの日記を冬の夜長に読みたいので探して欲しいと、ロンドンの古書店に依頼しています。
 そしてピープス氏はこの日記の一文によりワインに深く関係することになります。それは、1663年4月10日の日記に次のようなくだりが書かれていたからです。「ロンドンのロイヤル・オーク・タヴァーンに寄った。そこでフランスワインとおぼしきものを飲んだ。Ho-Bryan(Sic)と呼ばれていたが、いまだかつてお目にかかったことがないような、特有な味わいをもった、うまいものだった」と。綴りこそ違いますが、これがボルドー・グラ―ヴ地区の1855年格付け第1級<シャトー・オー・ブリオン(Ch.Haut-Brion)>であることは間違いありません。わずかの一行が、シャトー・オー・ブリオンのファンのみならず、ボルドーワインの歴史を追う者に、鬼の首でもとったかのように喜ばれるにはわけがあります。それは、この一文こそがボルドーワインの中で、シャトー単独の固有名詞が現れた文献上最初の記述であったからです。私がボルドー滞在中にシャトー・オー・ブリオンを訪れた時、案内をいただいたボルドー大学醸造学部のクラスメートであったシャトーの美しいマダムが、やはりこの一件を自慢そうに語ってくださいました。この時に試飲させてもらった<シャトー・オー・ブリオン>のエレガントな味わいと共にとても印象に残っております。
 <古書とワイン>の物語は、如何でしたか。意外なところに両者の共通点があることをお分かりいただけましたでしょうか。
 なお、私は文学とワインにも表現上で密接な関係があると考えています。『失われた時を求めて』のところでもみてきましたように、文学を通して、作者が使用する言葉や語彙や、それぞれ賞味し、吟味し、調合しなければならない、あの風味のある、美味しい、薬味の効いた形容詞の倉庫がワインにも共通していると理解するからです。ある文学作品の価値について自分なりに判断を下そうとする時、味がある、微妙だ、楽しい、滋味豊かな、辛辣な、ぴりっとくる等の形容詞は、好きな本を話題にする場合に自然に心に浮かぶものです。そしてすぐれた著書や銘酒には、そこに酌めども尽きない味わいがあるはずと思うからです。ワインの質が見分けられることは、文学に対する感性の鋭さの証明にもなりそうな気がするのですが、如何でしょうか。買い被り過ぎでしょうか。 
 この章を終わるにあたり、私の愛読書である『ヘンリ・ライクロフトの私記』の大好きな一節をご紹介いたします。
 「あといくたび春を迎えられることであろうか。あと十度か十二度といえばあまりいい気になりすぎているといえるかもしれない。それならせめてあと五、六度は春を迎えたいと思う。五、六度でも随分と長い年月だ。あと五度も六度も春がやってくるのを喜び迎え、初めてキンポウゲが咲き始めてからバラが蕾をつけるまでその経過を愛情深く見守れるということが、どれほど大きな恩恵であることか!大地が再び春の装いをつける奇蹟、なんとも名状できないほど目もあざやかな光景が、五、六度も私の眼前に繰りひろげられるとは!そのことを考えただけで、私はなんだか欲ばりすぎているような感じがしてならないのだ」。
 著者ジョージ・ギッシングはこの私記が出版された1903年、その年の12月にスペイン国境近くのフランス・バスク地方の寒村で46歳の生涯を終えました。

 


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