ボルドー便り vol.47

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - ワインの書物について(その1) -



『ぶどう酒物語』(薩摩治郎八著)
 前回までは<古書とワイン>について述べてまいりましたが、ついでにといっては何ですが、ここでワインに関する書物についても少し語ってみたいと思います。ワインに関心のないお方には退屈極まりないことかもしれませんが、しばしお許しください。
 ワインの書物に関しては2種類あると思います。ひとつは、単にワインの知識を伝えるためにつくられている本です。ちょうどソムリエ試験を受ける人たちにワインの知識を教えるためだけのハウ・ツー本の類です。もうひとつは、実際にワインを飲みながら読まれるよう意図されたもので、ワインの愛飲家が、自分たちの楽しみを読者に伝えるべく書かれたものです。ここでは主として後者の範疇に入る、私の愛読書を中心に述べてみたいと思います。
 先ずは、わが国の書物から入っていきます。日本人はたいしたものだなとつくづく感心しますのは、昭和11年(1936年)という時代に、恐らく当時はまだ一部の階級の人しか知らなかったであろうと思われるフランス・ワインについて、『フランスの葡萄酒』(十和田一郎著)と題する立派な箱入りの美装丁本が限定500部発行されているのです。この著者がどういう御仁なのか定かではありませんが、ボルドーをはじめ、フランスのワイン生産地の状況を余すところなく記しており、保存方法から葡萄酒に合う食物、飲む順序、そして更には付録として瑞西(スイス)の葡萄酒事情まで言及しております。フランスの翻訳本に近いところがまま見受けられますが、当時これだけ体系的に整理して書くのは大変だったことと思います。著者は<はしがき>に「仏蘭西で私の居た家には大きな酒倉があって、毎日飲む食卓酒の他に、日曜日や祭日には必ず良い酒を倉から出して飲む習慣であった。それで何時とはなしに葡萄酒に親しみ、更に葡萄酒に親しむ人々と相識るに至った。此等の人達と共に見たり聞いたり或いは味わったことを思い出すままに書き綴ったのが此の本である。本書によって多少なりとも仏蘭西葡萄酒の概観を掴むことが出来れば望外の幸せである」と記しています。著者はフランス在住が長かったのでしょう。この本はあるデパートの古書展で目に留まり、手に入れた時はうれしかったです。500部(特漉總和紙、番号付与)しか発行されていませんので、恐らく好事家のためのものだったのかもしれません。最近の古書展ではついぞ見掛けたことはありません。著者はこの中で、「20にして酒を選ばず、30にしてブルゴーニュを好み、40にしてボルドーを愛し、50歳を過ぐれば酒をのむことなし、唯之を嗜むのみ」と、或るフランスの食の道の大家の言葉を引用しています。そして興味を惹くのは最後に12冊のフランス・ワインの参考書が掲げられ、それに寸評が書かれております。その中で、《ボルドー便り》vol.28で紹介しました『ワイン閣下、酒飲み術(Monseigneur le vin―L'Art de boire)』(1927年刊)に触れており、「実に豪華な版だ。私は或るグルメの家で之を見て、百方手を尽して巴里中探したが遂に得ることが出来なかった。多分、酒屋のニコラが作らせた本と記憶する」とあります。確かに有名な酒商、ニコラ(NICOLAS)のために編纂されたもので、当時は出版されてまだ10年も経っていないのに既にかなりの稀覯本であったのでしょう。私がこの本を見つけた時に、「宝くじに当たったと思ってください」との古書店の若旦那の言葉が思い出され、合点がいきます。
次に酒・食品関係に興味がある方にはよくご存知の、『明治屋食品事典』の著者として知られる山本千代喜が10余年の歳月をかけて著わした500ページ余にわたる大冊『酒の書物』(昭和15年、1940年刊)です。フランス綴じのこの本は、ワインをはじめシャンパン、ビール、ウイスキー、リキュール等、あらゆる世界の酒について歴史を交えた興味あるエピソードの数々が紹介され、いろいろな角度から詳しく酒を論じており、その上美しい古銅版画が挿絵として載っています。まるで酒の絵本といった感じの実に楽しい本です。当時はまだ今日のように簡単に情報が入らなかった中でよくぞここまで調べ上げたものと、先達の偉大さに驚かされます。この本は当時から人気が高かったのでしょうか、限定版、上質版、普及版と多種出版されていますので、今でも偶に古書店(展)で見掛けます。この2冊の本は、いずれも同じ出版社から刊行されています。
しかし年代を更に遡って明治28年(1895年)に発行された『西洋酒醸造編』(矢部規矩治編)という驚くべき書物があるのです。前篇には発酵作用、醸造に関する微生物と学術的な記述があり、後編には各論として、葡萄酒をはじめ麦酒、シャンパン、リキュール等の醸造法について詳細に述べられています。特に驚くのは、この時代にブランデーはコニャックだけでなくアルマニャックまで言及しており、リキュールに至ってはシャルトリューズ、ベネディクティンの製法までも材料の分量を含めて詳細に綴られていることです。更には偽造酒類鑑識法まで書かれております。面白いのは、シャンパンのことを“沸騰葡萄酒”と呼んでいます。なるほどと感心してしまいます。編者は、「本編の材料は内外数多の書籍を渉猟し得たる所にして編者の如きは総論に於いて少しく加えたのみ」と謙遜しておられますが、明治の御代によくぞここまで資料を集め書いたものと、先達の研究心と好奇心の旺盛さに只々脱帽するしかありません。前二者に比べると絵も写真も銅版画もない文章だけの素っ気ない本ですが、それはそれでなかなか味わい深いところがあります。この本との出会いは神戸三宮の古書店でした。もう彼此40年程前のことでしょうか。
次は時代をずっと下って、昭和33年(1958年)に刊行された『ぶどう酒物語―洋酒と香水の話』(薩摩治郎八著)の痛快極まりないお話です。薩摩治郎八は皆様もご存知のことと思います。エコール・ド・パリ華やかりし頃に、「バロン・薩摩」と呼ばれ、パリ社交界で浮名を流した御仁であり、遊興だけに耽るのではなく、パリに日本人留学生のための「日本館」を建設したことでも知られています。そしてパリ在住の藤田嗣治をはじめ日本人芸術家の良きパトロンでもありました。今も日本館の広間には藤田の傑作、《欧人日本へ渡来の図》が飾られています。本書の<あとがき>にはこうあります。「洋酒に親しみ、香水を愛する人は多い。が私のようにあらゆる土地や雰囲気のなかで、この2つの欲望をみたした者は地球上にそうたくさんはいないはずだ」と豪語します。更に「世界無宿、永久の浮浪児の私は、王者貴族の饗宴の食卓酒から、屋台酒までを飲み歩いた。そしてその間に皇后王妃から絶世の美女の香水の移り香をかいだ。私はこうした種々様々なムードの中で、私自身の酒と香水の美学を創造した。その物語がこの一冊として生まれた」と語っております。そして「古代ギリシャでは酒を嗅いだ。古代エジプトでは<つまくれない>の純白な花弁から香水を創造して、クレオパトラの美肌を匂わせた。私は王妃マリー・アントワネットがシャンパンの黄金の泡で浴みしたと、巷説で伝えられる金泥のヴェルサイユ宮殿の浴室で、ド・ポリニャック侯爵夫人とシャンパンの盃をあげた。世紀の舞姫タマル・カラサビナのかぐわしき手に接吻し、アントワネットの愛用した「アマリリス」の芳香に香る寝台で、わが青春の夢をまどろんだ」と。何と羨ましい話でありましょうか。最後に「私の描く洋酒と香水のはなしは、アラビアンナイトの千夜一夜物語であり、歓楽の果ての哀愁でもある」と結んでいます。法螺話ではなく、実際に破天荒の人生を送った薩摩治郎八ならではの痛快なる酒と香水のお話です。当時このような快男児の日本人がいたと思うだけでも拍手喝采です。ところが戦後になって帰国した時は、めぼしい財産をことごとく失い、晩年は戦後出会った年の離れた夫人と共に、生まれ故郷の徳島でひっそりと暮らしました。戦前と戦後の落差の大きさ、世間の尺度では計り切れない生きざまなどが、現在でも関心を引きつけてやみません。10年前に「薩摩治郎八と巴里の日本人画家たち」が開催されました。
ワインとは少し離れますが、「天皇の料理番」としてかつてTVでも放映され人気を博しました宮内省大膳寮厨司長秋山徳蔵の編纂した「カクテル(混合酒調合法)」(大正13年、1924年刊)を忘れることはできないでしょう。小さいながらも箱に入った総革製の美本です。恐らく当時これだけ纏まったカクテル(200余種類)の調合法を書いた本はなかったのではないでしょうか。実はこの『カクテル』を紹介したのは、これ以上に面白い秋山徳蔵の著書『味』、『舌』、『味の散歩』等の名エッセーをお薦めしたかったからです。この料理界の大御所でも修業時代の頃は、「いよいよパリに着いた。夢に見たパリだ。春であった。マロニエの若葉の色が目に沁みるようで、エッフェル塔の上には白雲が流れていた。街には伊達な姿の紳士と、美しい婦人と、鼻に抜けるNの発音が流れていた。正直な話、私はこれで死んでもいいと思った」と述懐しています。古書店で見かけましたら是非お手にとってご覧ください。薩摩治郎八とはまた違った面で大変魅力のある、大きな樹木のような御仁が記した名著です。本の表紙を飾っています秋山徳蔵の描いた海老の絵が好きで何十年も探しつづけていますが、残念ながらいまだお目に掛かったことがありません。
 それと酒といえば、近年のわが国酒の泰斗坂口謹一郎博士の名著『世界の酒』(昭和39年、1964年刊)は外せないでしょう。何度となく読み返し、ワインというものにロマンを感じさせてくれました。“ガロンヌの河の港に近ければねざめがちなり夜半の汽笛に”の句を思い出します。そして高名な経済学者、脇村義太郎博士の名著『趣味の価値』(昭和49年、1974年刊)の中の<葡萄酒の経済学>も見逃せないひとつでしょう。最後に、ワインに興味を覚えはじめた時に憧れをもって眺めた本といえば、シャトーの写真やワインのラベルが沢山載っている『ワインの知識とサービス』(浅田勝美著、昭和42年、1967年刊)でした。
 以上は私が所有している本の範疇でさわりだけを紹介せていただきました。わが国にはまだまだ興味あるワイン、酒に関する名著が多数あろうかと思います。
次回からは海外のワインに関する書物について述べてみたいと思います。
 ところで余談ですが、今年2008年は日本とフランスの外交関係が樹立されて150周年を迎える記念の年となります ― 1858年10月9日(安政5年9月3日)に、フランスから日本に初めて使節として派遣されたジャン・バティスト・ルイ・グロ男爵によって、日本と最初の通商条約が江戸で調印されてから丁度150年目にあたるわけです。
そこで今年は、「日仏交流150周年記念事業」として日本とフランスの各地でいろいろの記念イベントが催されます。私事で恐縮ですが、この度在日フランス大使館の審査を経て、私が銀座で主催するワイン会が「日仏交流150周年記念事業」の公式イベントのひとつとして承認され、ロゴマークの使用が認められました。ご参考までに公式ロゴマーク(日本語版・フランス語版の2種類)をスライド写真に載せてありますのでご覧になってください。


 


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