本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 余話:音楽と絵について(その3) -


黒船屋(部分)
 夢二の作品を通してフランスのアール・デコ時代との関連についてもう少し述べてみたいと思います。
 夢二の生年月日を調べますと1884年(明治17年)9月16日とあります。そして『スポーツと気晴らし』のイラストレーターであるシャルル・マルタンも同年に南フランスのモンペリエで生まれております。そして驚いたことに、二人とも同じ1934年(昭和9年)に50歳という若さで亡くなっているのです。これは単なる偶然なことでありましょうが、一方では日本の大正ロマン、他方ではフランスのアール・デコの華やかりし時代に共に生き、八面六臂の活躍していたことは見逃せない事実のように思われてなりません。洋の東西を問わず、ある芸術のジャンルで、ある一定の時期に、同じような才能豊かな芸術家たちが一斉に登場して、ある種の共通項をもちながら、それぞれ特異なスタイルを確立していたというのはまぎれもない事実です。そして、彼らの個性が十二分に発揮されようとした正にその時に、突然戦争や大恐慌といった外的な要因が彼らの仕事を奪い、再評価の光が再び当たるまでに忘却の淵に置き去られるという厳しい現実が待ち受けています。しかし、ひとたび忘却の危機にさらされることがあっても、完全に忘れ去られることは決してないことも美術史の常であるように思います。長年、多くの人々に愛されてきたものには色褪せぬ魅力が何処かにひそんでいるからでしょう。
 夢二も没後は人々から暫く忘れ去られ、美術史の中で再び脚光を浴びるようになったのは1960年代に入ってからです。それは丁度アール・ヌーヴォーやアール・デコが再評価されるようになった時期と奇妙に重なります。「龍星閣」等の出版社が夢二の画業集大成に相次いでとりかかったことも少なからず影響していると思いますが、夢二にあってさえ、このように長らく埋もれる年月が続いたのです。
 同様に、1910年から1930年にかけてフランスのアール・デコ時代にグラフィックの分野で活躍したシャルル・マルタンをはじめジョルジュ・バルビエ、ジョルジュ・ルパップ、アンドレ・マルティたちの身の上にも、同じような現象が起こっております。20世紀の開幕を告げるかのごとく、全く新しいスタイルを引っ提げてファッション・プレートの世界に颯爽と登場し、ポスター、舞台衣装、広告、挿絵本など様々なグラフィック・アートを次々に手掛けて華々しく活躍したイラストレーターたちは、1929年のウォール街大暴落に端を発した大恐慌で仕事を奪われてしまいます。以降数十年の長きに亘って夢二同様に美術史から見放され、その存在さえも殆ど忘れ去られてしまいます。アール・デコを代表するバルビエはじめとする仲間たちもシャルル・マルタンと同じように50歳前後で失意のうちに世を去っています。大恐慌という歴史の嵐によって、活躍の場はかき消されてしまい、挙句に寿命まで縮められてしまったのは運命の皮肉としかいいようがないのかもしれません。
 ただ、夢二とフランスのアール・デコ時代のイラストレーターたちに共通する幸運は、複製技術が新しいレベルに達し、マス・メディアの発展によって大衆文化が反映するという時代に生きたことです。製版、印刷技術の飛躍的な発達により、大部数発行の雑誌が登場し、上質のカラー印刷も可能になりました。そしてそのことはフランスのポショワールの目覚しい発展にも繋がったのです。このような複製芸術の波が彼らの活躍に大きく貢献したことは紛れもない事実でありましょう。
 ここではいろいろな本で紹介されています夢二の女性論からは暫し離れて、西洋との関連に的を絞って少しく述べてみたいと思います。
 夢二は早くから異国文化に憧れていましたが、最初で最後となるアメリカ、ヨーロッパへの外遊に旅立ったのは晩年(死の3年前)を迎えた1931年(昭和6年)のことでした。敬愛していた藤島武二や島村抱月が外遊して帰った頃とは世界情勢も全く異なっておりました。しかも、もうその頃の夢二にとっては、好奇心をもって対象物を眺め、抵抗なく同化吸収できる年齢はとうに過ぎておりました。夢二のアメリカ、ヨーロッパの旅は病のせいもあったにせよ、大した成果を得られずに失敗に終わったとみるのが正しいようです。夢二が洋行の時に集めたパッケージやチケット類は、葉巻の箱の中にぎっしりと詰まっていたそうです。あるチケットには「マドリド秋のサロン入場券」と書き込みがしてあります。これらは夢二が異国に抱き続け、そして破れた夢の名残を箱にしまいこんだのでしょうか。
 夢二は大正初めからしばしば異国への旅を企画しながらなかなか実現できなかったのです。まず第一次世界大戦の勃発に阻まれ、次は京都での個展(大正7年)のカタログ表紙に“Farewell(さようなら)”と大書し、世界旅行へ出掛けるための訣別の会としましたが、同行を夢見た愛する彦乃の発病により断念せざるを得なくなってしまいました。若い頃に洋行が実現していたら、また違った姿の夢二があっただろうと思うと残念な気がいたします。
 そもそも夢二が異国への憧れを抱いた大本といえば、故郷の岡山の田舎から当時新興の国際都市、神戸への単身生活にあったように思います。神戸は16歳という多感な少年の心と感覚に画期的な開放感をもたらし、そこで日常眼にする外国船の出入りや西洋人の姿は、夢二生来の浪漫精神の舞台を拡大すると共に、ごく自然にエキゾティシズム(異国趣味)を芽生えさせたにちがいないと容易に想像できます。後年の南蛮趣味やキリシタンバテレンに題材をとった、夢二の多くの作品を制作せしめた動機や関心も、この時期に初めて芽生えたのではないでしょうか。従って、夢二の作風を解くひとつのカギはどうも「港」にあるような気がしてなりません。即ち、「港」への郷愁です。夢二がはじめて開いた店に「港屋」の名を冠したのもただの思いつきだけではなく、夢二の深層心理に「港」への願望が常にあったように思えます。「港」が江戸時代以来、知らず身につけてきた異国情緒に夢二は何か心惹かれるものがあったにちがいない。「港」、そこは異なった文明との出会いの場所だったからなのでありましょう。夢二の作品の『長崎十二景』や『黒船屋』にしても、その傑作は必ず、古き日本と新しき西洋との出会いを描いた作品だったように思うのです。「港」を失って夢二が次に求めたものが「山」であったことに言いようのない寂しさを感じますが、やがて「鳥」になって果てしなく山の青の世界に入っていったのでしょうか。
 ところで、現在読売新聞に連載中のファッション・デザイナー、芦田淳の「時代の証言者」の中で、画家の中原淳一との出会いがなければ、今の私はなかったと述べておりますが、その中原淳一は夢二に傾倒し、「夢二が日本に生まれたことが残念でならない。もし夢二がヨーロッパに生まれていたら、ロートレックやモジリアニや、またビアズレーとかムンクやローランサンやユトリロのように世界の美術史に残る人であったことを疑わない」とまで語っています。
 夢二を語る時には、ムンクやローランサンやモジリアニとかの西洋の画家たちと共に様式としてアール・ヌーヴォーがよく引き合いに出されますが、不思議とアール・デコに言及している書は少ないように思います。例えば、1920年~1933年にかけてパリで刊行された『アール・グー・ボテ(Art Goût Beauté、芸術・趣味・美)』というポショワールによる細かい彩色が鮮やかに施されたモード誌に多大な影響を受けて、大正時代に人気を博した『婦人クラブ』に夢二は数多くの作品を描いています。その中にはアール・デコ風な絵も見られますし、また三越の広告誌に描かれている絵などはアール・デコのポショワールにそっくりであり、その影響を多大に受けていることが分かります(巻末のスライド写真をご覧ください)。恐らく夢二はシャルル・マルタン等のイラストレーターたちが競い合って描いた『ガゼット・デュ・ボン・トン』のモード誌などにも眼を通し、参考にしていたのではないかと思われます。
 また面白いことに夢二は絵の仕事をはじめた当初よく上野公園の博覧会の情景をスケッチしていたようで、特に会場で最も人気を博していた「ウオーターシュート」には夢二自身がすっかり虜になり、毎日のように行列に並んでは描いていたという逸話が残されています。この「ウオーターシュート」は『スポーツと気晴らし』の中で、同じくシャルル・マルタンも好んで描いております(《ボルドー便り》vol.52のスライド写真をご覧ください)。こうしてみると、洋の東西に関係なく芸術家というのは何か目新しい妙なものに興味をいだくものなのだなと感心したものです。
 また夢二は自画像を描き残しております。山高帽にマントを翻し、強風に押し倒されないように前こごみに歩く細身の男の絵です。孤独な哀感と何かに必死に抵抗しながら歩む姿に、夢二のたった一人での反逆が物語れているように感じてなりません。その他にも夢二の絵の中では、男はいつも洋服を着、山高帽をかぶり、ボヘミアン・ネクタイをつけ、洋傘かステッキを持っています。その姿は紛れもない異人のスタイルです。そのスタイルはどことなくエリック・サティの姿と重なってきませんでしょうか。
何かワインと関係のないお話を勝手に長々と語ってしまいました。サティと同じように敢えてお酒に結びつけるならば、夢二の生まれた故郷は良質の酒造米、特選米を産出する豊かな穀倉地帯であり、夢二の生家は造り酒屋であったということぐらいでしょうか。
夢二はサティ同様に愛書家であり、外出時は好きな本をよく持って歩いたと言われています。
 今回も夢二と私の好きなエリック・サティやアール・デコ時代のイラストレーターとの関連を無理に結びつけてしまったような感もあり心苦しいのですが、これもひとつの見方としてお許し願えれば幸いです。
 来る2011年(平成23年)は大正100年に当たりますので、これからいろいろな記念事業が各地で予定されることでありましょう。大正ロマンが再び見直され、夢二人気に益々拍車が掛かるのはうれしいのですが、同時に妹尾幸陽(『セノオ楽譜』)にも光が当たり、そしてエリック・サティとアール・デコ時代のイラストレーターたちに少しでも思いを馳せていただけましたら幸甚に存じます。


 


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