本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー訪問記(その9) -


<シャトー・フィジャック>
 サン・テミリオン(Saint Émilion)!何と心地よい響きの地名でしょうか。ボルドーワインを少し飲み込んだ人なら、この言葉の響きに何となく親しげな、そしていつも安心できる一杯の赤ワインを連想することでしょう。
 さて、今回はシャトー・シュヴァル・ブランと共にサン・テミリオンの低地を代表する<シャトー・フィジャック(Château Figeac)>をご紹介しましょう。
 “丘のシャトー・オーゾンヌ”、“低地のシャトー・シュヴァル・ブラン”の2大巨星があまりにも有名なため<シャトー・フィジャック>はその陰に隠れているよう思いますが、<フィジャック>はサン・テミリオンの西端の低地にあって、この地区で最大(40ヘクタール)且つ最古を誇る名門シャトーのひとつなのです。この<フィジャック>という名前は紀元3世紀~4世紀にかけてここを領有していたローマ人の貴族Figeacusに由来しているといわれるくらい古いのです。かつての<フィジャック>は今とは問題にならないくらい広大でした。500ヘクタールの土地がサン・テミリオンの町からポムロール地区のリブルヌの郊外にまで広がっていたといわれています。中世になるとこの葡萄畑は2つの家に分割され、最後には実業家、銀行家などを多く輩出したカルル伯爵家の領地になりました。しかし、19世紀はじめになると、伯爵の未亡人はその華やかな生活を維持していくために、既に200ヘクタールに減っていた土地を更に切り売りせざるをえなくなっていました。この時の分割で、葡萄園が次々に誕生しました。その代表格が1830年代に“シュヴァル・ブラン(白い馬)”という名の選り抜きの畑30ヘクタールを購入したデユカス家です。そしてそのワインを“Vin de Figeac”として売り出したのが今日のシャトー・シュヴァル・ブランのはじまりです。それ程までに<フィジャック>の名声は轟いていたのです。漸く1853年になってシュヴァル・ブランと名乗ることにしたといいます。
 歴史はこのくらいにして、<シャトー・フィジャック>をご案内いたしましょう。このシャトーを妻と共に初めて訪れたのは10年程前のことでした。道に迷ってしまい、マウンテンバイクで漸く辿り着いた時は約束の時間を30分ほど過ぎておりました。ルネサンス風の館の一角にある部屋を恐る恐る訪ねると一人の女性が待っておりました。到着時間が遅れたことを詫びるや否や、突然、私はここであなた方だけをずーっと待ち続けていました。どうして遅れたのですかと詰問してきます。余ほど虫の居所が悪かったのか、いかにも不機嫌そうに。私は一本裏手の道に入り込んで迷ってしまい、地図を片手に漸く辿り着いた旨を説明するもなかなか納得してくれません。ところがマウンテンバイクでやって来ました、あれが愛用のマウンテンバイクですと指さしたところ急に機嫌が良くなったのです。そうですか、マウンテンバイクに乗って遙々訪ねてきてくださったのですかと。当然車で来たと思ったらしい。まさかこんな遠いところまでマウンテンバイクを漕いでやって来ようとは思わなかったのでしょう。こっちはその変貌ぶりにまるでキツネにつままれたようでした。《ボルドー便り》vol.58にもあるように、ここでもマウンテンバイクの絶大なる効用に助けられた思いがしました。フランス人の自転車に寄せる想いは想像以上です。それからというものは、彼女はすっかり機嫌をとり直して、シャトー内を丁寧に案内してくださいました。最後にタペストリーの掛かる趣味のよい部屋でゆっくりと試飲を楽しませてもらいました。何年もののワインであったのか覚えていません。シャトーの周りに一面に咲く野生の可愛らしいシクラメンと共に、妙に思い出に残るシャトー訪問でした。
 その後、シャトー・ガザンなども訪ねたのですが、<シャトー・フィジャック>を案内していただいた女性の印象が余りにも強かったのか、その他のシャトーの印象は霞んでしまいました。妻は疲れてしまいホテルに戻りました。私一人だけで更にポムロール地区のシャトー・ラ・コンセイヤントとシャトー・レヴァンジルまでマウンテンバイクを走らせましたが、夕闇が迫ってきましたので外から眺めるだけで諦めて帰ることにしました。
 ボルドー留学中も<シャトー・フィジャック>を友と共に何度か訪ねました。その時は前回書きましたようにボルドー第2大学醸造学部のコースに在学中ということだけで毎回好待遇で迎えてくださいました。最初に訪ねた時の女性とあの時の思い出話をしたかったのですが、不思議とお会いしませんでした。ひょっとするとここのオーナー、マノンクール家のお嬢さんだったのかもしれません。
 現オーナーのティエリ・マノンクール氏が1981年に、この葡萄畑を相続した頃は、かつての<フィジャック>の名声はとうに失せていました。しかし、畑を昔の地位に戻そうと取り組んだ成果は間もなく現れてきました。醸造学の深い知識をもったマノンクール氏は葡萄栽培とワイン醸造の研究を積んで数多くの改革を成し遂げ、更にはボルドー全体のワインの発展にも大きな影響を及ぼしたのです。砂礫土壌に適するカベルネ・ソーヴィニョンを35パーセントも使うという、他のサン・テミリオンとは違う独特の比率でワインをつくりました。メルロは30パーセントに押さえ、カベルネ・フランをソーヴィニョンと同じ35パーセントにしました。こうして<フィジャック>のワインは美しいルビー色をした、豊かな果実味をもつ、ハーブや黒系果実の際立った香りを漂わせる、優雅さと調和のとれた魅力溢れるワインになっていったのです。
 次に、サン・テミリオンでどうしても忘れてはいけないことがあります。それはここがいわゆる“ガレージ・ワイン”と称されるボルドーワインの革命の中心地でもあったということです。この10数年間でボルドーにおいて最も興奮させられるアペラシオンがサン・テミリオンでした。それは先進的な葡萄栽培と実験的なワイン醸造の場であり、世界中で“ガレージ・ワイン”として知られる動きがこの地で生み出されたからです。“ガレージ・ワイン”の最初のきっかけとなったのは、後で触れるポムロールの小さなシャトーの<ル・パン>でした。しかし、サン・テミリオンで始まったこの動きは、通常高い比率のメルロからなる選別した畑の一画で収穫された少量の葡萄を醸造するというものです。殆どのシャトーからつくられるワインの量は非常に少なく6,000本以下であり、ガレージに置いておける量なので、フランスのある評論家がこうしたワインを、“Vin de garage”(ヴァン・ド・ガラージュ、即ちガレージ・ワイン)と名づけたのがはじまりといわれています。その先頭に立って栄光への道をひた走ったのが、これから紹介します、シンデレラ・ワインともカルト・ワインともいわれる<シャトー・ド・ヴァランドロー(Château de Valandraud)>です。このシャトーは1991年に非常に才能に恵まれたジャン・リュック・テユヌヴァン氏により異なる数区画の極めて小さな畑(僅か0.8ヘクタール)からの葡萄を組み合わせて、最初の注目に値するサン・テミリオンの“ガレージ・ワイン”をつくりだしました。そして瞬く間に、シュヴァル・ブランやオーゾンヌより高値で、しばしば非現実的な価格で売られ、コレクターの夢のワインを短期間でつくりあげた伝説的な人物となっていったのです。例えば、2001年のアメリカでのオークションでは、<ヴァランドロー>がシャトー・ラトゥール、シャトー・ラフィット・ロートシルトそしてシャトー・ムートン・ロートシルトという並み居るメドックの偉大な第1級ワインをも遥かに凌ぐ高値で落札されたのです。ジャーナリストたちは色めき、テユヌヴァン氏のガレージめがけて集まりはじめました。フランスの人気TV番組等でも大々的にこの偉業を取り上げました。ボルドーで、いやどの地方であれ、シャトーが誕生してからこんな短期間でこれだけの成功を収め、信じられないような高い価格をつけたワインはこれまでなかったのです。こうして<ヴァランドロー>はワイン・コレクターが世界中を探し回る、稀にみる宝物となっていきました。
 <ヴァランドロー>は、光を通さないような黒に近い色合いと、深い味わいをもった完熟感を特徴としています。熟れたカシスの官能的で、豊かで複雑な香りと、オーク材から生じた焼きたてのパンのような芳しい香りを漂わせます。口に含んだ時のなめらかで艶っぽい味わいは果実味につつまれ、濃縮さと深みと、上品な調和を感じさせます。
 そのテユヌヴァン氏がサン・テミリオンの町中に構える小さな事務所を留学中に友と3人で訪ねた時に、偶然ご本人がおられ、葡萄畑を案内するから見ていって欲しいと、願ってもないお言葉を頂戴しました。ちょっと片付けたい仕事があるので、先に行っているようにと葡萄畑の地図を書いてくださいました。もう3人して興奮状態で車(その時はマウンテンバイクではありませんでした)に飛び乗って地図を片手に探し回ったのですが、何処にも目印らしきものがなく、谷間にひそむ小さな葡萄畑をとうとう見つけ出すことはできませんでした。テユヌヴァン氏も、さっきの日本人は一体何処に消えてしまったのかと探し廻ったことでしょう。折角の大きなチャンスをみすみす逃してしまったと、いまだに悔やんでいます。最近はこの“ガレージ・ワイン”のブームも去って、翳りをみせてきました。これからは市場の淘汰によって最良のものだけが残っていくことになるでしょう。
 次は、その<ヴァランドロー>に大きな刺激を与えた、ポムロールにある元祖“ガレージ・ワイン”の<ル・パン(Le Pin)>をご案内しましょう。ここを初めて訪れたのは10年ほど前のことでした。リブルヌ駅からタクシーに乗り、地元の運転手さんなら分かるだろうと<ル・パン>の案内を頼みました。そこには驚いたことに普通の家というか正に古びた2階建てのあばら家とシャトー名になっている“pin(松)”が1本(留学中に訪ねた時は台風で松の木の先端が折れてしまっていました)、そして周りに小さな葡萄畑があるのみで、表示はどこにもありません。運転手さんは得意そうに郵便受けを指差し、ここを見てご覧と。そこにはかすかに<Le Pin>の字が読み取れる名刺状の古い紙が貼り付けてありました。恐らく地元の運転手さんでなければとても辿り着くことはできなかったでしょう。この何ともいえない貧相な光景と、壮麗なボルドーのシャトーとの落差ほど激しいものはなかったです。この葡萄畑はヴィユー・シャトー・セルタンのオーナー兄弟が2ヘクタールほど譲り受けたものです。兄弟はこの畑をセルタンに含めることをせずに、新しいワインをつくりだしてポムロールで最高のものにしようと決心しました。初のヴィンテージは1979年で、市場に出た途端に驚くほど優れたポムロールがあるという噂が流れ始めました。リッチでスモーキーな溢れんばかりの活力に満ちたワインであると。あるワインライターは、ブルゴーニュ随一の名声を誇るロマネ・コンティの小さな畑に因んで、「ボルドーのロマネ・コンティ」と呼んだのです。<ル・パン>はブラインド・テイスティングで他のあらゆるポムロールを凌駕するようになり、やがてペトリュスよりも探すのが難しいワインとなっていきました。
 ポムロールの古典的なシャトー・ラフルールやシャトー・トロタノワ等をご案内したかったのですが、紙数が尽きてしまいましたのでこの辺でサン・テミリオンとポムロールの旅を終わらせていただきます(ポムロールにつきましてはvol.4155をご参照ください)。
 次回はコート・デユ・ローヌのシャトーをご案内したいと思います。


 


上のをクリックすると写真がスライドします。