本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャンソン(4)) -


<ボリス・ヴィアン>
 今回漸く「サン・ジェルマン・デ・プレ」に辿り着くことができました。さて、この心地良い「サン・ジェルマン・デ・プレ」という響きを聞いて、皆様はどう感じますでしょうか。「サン・ジェルマン・デ・プレ」が燃えていた頃の時代を思い浮べることができますか。シャンソンやジャズがホットであり、実存主義について熱い議論が交わされていた時代を。
 ジャン・ポール・サルトル、シモ―ヌ・ド・ボーヴォワール、マルグリット・デュラス、ジュリエット・グレコ、シモーヌ・シニョレ、ジェラール・フィリップ、そして今回の主役となるボリス・ヴィアン等々多くの人たちがここに集って来たのです。私が学生の頃の懐かしい名前の御仁ばかりです。特に、サルトルについてはアンガージュマン(参加;知識人や芸術家が現実の問題に取り組み、政治・社会運動などに参加すること)の思想にみられるように、当時の学生運動の思想的バックボーンになったこともあって、白井浩司の名訳『嘔吐』をはじめサルトルの著作を夢中になって読んだことを懐かしく思い出します。
 この地区に彼らが集まりだしたのは、1940年からといわれています。戦争がはじまり、ヴァヴァンの地下鉄が閉鎖されると、灯火管制のために知識人や芸術家たちがモンパルナスまで歩いて行くのが不便になってきたのと、「ル・ドーム」や「ラ・ロトンド」などのカフェはドイツ人で溢れかえっていましたので、フランスの文化人たちは自然と「サン・ジェルマン・デ・プレ」に集まってくるようになりました。それから暫くの間、「サン・ジェルマン・デ・プレ」はフランスの実存主義の司令部のようになっていったのです。
 パリのシテ島のすぐ南、セーヌ川に沿った地区は、サン・ミシェル大通りによって東西に分けられており、東側がカルティエ・ラタンで、ソルボンヌ大学やコレージュ・ド・フランス等のあるアカデミズムの拠点であり、西側が「サン・ジェルマン・デ・プレ」で、知識人、芸術家等の集る場所でした。「サン・ジェルマン・デ・プレ」の中心は、サン・ジェルマン教会の広場で、ここにカフェ<ドゥ・マゴ>があります。サン・ジェルマン大通りに沿って西へ進むとカフェ<フロール>があり、向いにブラスリー<リップ>があります。この3つが、「サン・ジェルマン・デ・プレ」の最も有名なカフェでした。<ドゥ・マゴ>は、文学者、映画人が多く、<フロール>は哲学者が多かったといわれています。
 「サン・ジェルマン・デ・プレ」の新しい時代は、1940年にサルトルが<フロール>にやって来た時にはじまります。<ドゥ・マゴ>は早くから文学カフェとして賑わっていましたが、その当時、<フロール>はまだひっそりとしていました。サルトルはそれが気に入って、ここを根城にすることに決めました。ドイツ人が入ってこないこともあって、ドイツに対するレジスタンスの連絡場所にもなったのです。
 サルトルとボーヴォワールは毎朝9時にここにやって来て、昼まで原稿を書き、昼食に出て、また2時に戻って来て、4時まで友人たちとおしゃべりをし、それからまた8時まで仕事したという日課でした。夕食の後は、約束した人と会う時間でした。つまりこうしてサルトルとボーヴォワールはこのカフェ<フロール>に毎日出勤し、事務所兼書斎兼応接室として使っていたことになります。このように自由に店を使わせたカフェの人たちの寛大さには驚かされます。
 <フロール>に集ったのはサルトルとそれを取り巻く人たちだけでなく、シュルレアリストたちもやってきました。その中心は「枯葉」の作詞家としても知られる詩人ジャック・プレヴェールでした。プレヴェールがいなければ、「サン・ジェルマン・デ・プレ」は1930年代初頭のままの、素朴で田舎くさい一角にすぎなかっただろうといわれています。そしてプレヴェールと共に、映画や演劇の関係者、シャンソニエたちも集ってきました。
 「サン・ジェルマン・デ・プレ」は、1940、50年代のシャンソンのメッカでもありました。ジョルジュ・ブラッサンス、そしてジュリエット・グレコが登場してきます。グレコは地下キャバレー<タブー>のパトロニスであったマリー・カザリスに見出され、ヴィアンをはじめサルトル、ボーヴォワール、クノー、プレヴェールなどの豪華な友人にいつも囲まれていたといいます。サルトルは彼女のために作詞もしており、ゆっくりと芸術家や知識人の黒いミューズ、グレコになっていきました。黒い長い髪をなびかせ、貧しかったために着ていたといわれる彼女のニュールック(黒セーター、黒シャツ、黒ズボン)はやがてトレードマークになりました。(グレコの歌う「サン・ジェルマン・デ・プレ」と「ラ・ボエーム」を、当時のサン・ジェルマン教会やカフェ<フロール>の風景と共にお楽しみください。ヴィアン、サルトル、ボーヴォワール等も登場します。
   http://www.youtube.com/watch?v=M28GwjtXWCI&feature=related
   http://www.youtube.com/watch?v=FTpE1GoxQD4&feature=related
 第2次大戦が終ると、アメリカン・スタイルが流れ込み、ここは戦後の若者の溜まり場となっていきます。こうして実存主義、若者の反抗、シャンソン、ジャズといったものが混ざり合って「サン・ジェルマン・デ・プレ」の精神がつくりあげられていったのです。そして、その精神を代表していたのがボリス・ヴィアンその人でした。若者のヒーローとして、「サン・ジェルマン・デ・プレ」の新しいスターとなったのです。
 ヴィアンは1920年にパリ近郊のヴィル・ダヴレに生まれ、ジャズのトランペッターであり、『日々の泡』などの小説を書き、その他、映画からジャズ評論まで様々なジャンルに煌めきを散らして時代を駆け抜け、1959年に39歳の若さでこの世を去っていきました。自作の『墓に唾をかけろ』の映画の試写中に、突然心臓発作を起こして倒れた彼の死は余りにも伝説的な出来事でした。急死する10年前からヴィアンは、想像を絶するばかりの多彩多様のテーマを自在に扱って、おびただしい数のシャンソンを作りました。その数400余り。1954年以降はもはや音楽、それもジャズかシャンソンしか興味を示さなくなったともいわれています。
 ヴィアンは詩人ジャック・プレヴェールとの交友が、彼のシャンソン―すべて傷心と憤懣と諧謔との噴火口のようなヴィアン固有のシャンソン―の産出に拍車をかけました。それに、当時登場したブラッサンスからの影響も大きかったようです。ヴィアンは異常なまでの速度でシャンソンをつくりました。ヴィアン作詞の最初のシャンソンは『これがビバップだ(C'est le be-bop)』が、アンリ・サルヴァドールの歌で当たりをとりました。その後、ヴィアンとサルヴァドールとの共同作業で生み出した独自性は道化歌の類に加えて、やがてロックンロール仕立てのシャンソンも導入していきました。  
 余談ですが、ボルドー留学時代にふっと立ち寄ったガロンヌ河近くの洒落たカフェで、思いがけず聞き覚えのあるサルヴァドールのひとふしが流れ出した時に、過ぎし日のことがたちまち甦り、懐かしく思ったものです。そのCDのタイトルを美しいマダムに教わり、早速にサント・カトリーヌ通りの店で買って帰りました。ホテルの部屋でよく聴いて心が和んだものです。その後も店を訪ねると、マダムはよくサルヴァドールの歌をかけてくれました。そのサルヴァドールも2008年に90歳で世を去りました。寂しい限りです。
 ヴィアンのシャンソンを聴くと、その歌の数々に現れる着想の多様さに驚かされます。ヴィアン曰く「シャンソンが成功するのは大半が音楽の魅力、曲の良し悪しだ。しかし、そのシャンソンが大衆にいつまでも永く根づいて愛唱されるのは、詞の力、言葉の強さ、美しさであろう」と。ヴィアンにとってシャンソンは詩であり、詩はシャンソンだったのです。そして、ヴィアンはシャンソンを書くだけでは満足せずに、彼の作品の演奏は他人に任せておくかわりに、自分でそれを歌ってみようと決心しました。ヴィアンにつきまとって離れないスキャンダルの空気は、シャンソン作家としての名を不朽のものとした「脱走兵(Le déserteur)」でまた一段と強まりました。この“訴えの歌”はヴィアンが作詞作曲したもので、一兵士の大統領への手紙という形をとっており、ヴィアンの詩としては珍しくユーモアを含めず、真摯な態度で反戦思想の訴えとなっています。1954年に発表されたこの歌はオランピア劇場、ボビノ座でのリサイタルで、絶大なる支持を得て、ラジオでも毎日のように流れました。ボリス・ヴィアンの歌う『脱走兵』をお聴きください。
   http://www.youtube.com/watch?v=gjndTXyk3mw&feature=related

大統領閣下 お手紙を差し上げます            Monsieur le Président Je vous fais une lettre
もし時間があれば                       Que vous lirez peut-être
多分、読んで戴けるでしょう                 Si vous avez le temps
水曜日の夜までに 戦地に発てとの           Je viens de recevoir
令状を 今、受け取ったところなのです          Mes papiers militaires
                                  Pour partir à la guerre  Avant mercredi soir
大統領閣下                           Monsieur le Président
哀れな人々を殺すために                  Je ne veux pas la faire Je ne suis pas sur    
私は生まれたのではないのです             terre Pour tuer des pauvres gens
あなたを怒らすつもりはありませんが           C'est pas pour vous fâcher
あなたに申し上げねばなりません             Il faut que je vous dise
私は決めました 脱走します                Ma décision est prise Je m'en vais déserter

 いくら自由の国、フランスにおいても、当時の第4共和制政府にとって、「出征を拒否せよ」と声高らかに歌うこの歌を好ましく思えるはずがありません。やがて『脱走兵』は全面的に発禁の憂き目にあいます。でもシャルル・ド・ゴ―ル大統領の第5共和制政府になって発禁が解かれました。
 こうして、戦後シャンソン界に大きな影響を与え、400以上の作品を残したボリス・ヴィアンですが、このアカデミックな世界と、アンチ・コンフォルミスト(反体制主義者)の世界と、一般マスメディアの世界が合流する中で生きそして活動した、ユニークな人物ボリス・ヴィアンの名は、フランス文化史上、永遠に消え去ることはないでしょう。
 最後に、ヴィアンの代表作である『日々の泡』に登場する奇妙な“カクテル・ピアノ”を紹介して、この<シャンソン>の章を終ることにします。
 「音符の一つ一つに、アルコール、リキュール、香料などを対応させてある。ペダルの強音は掻き立て卵に、弱音ペダルは氷に通じている。炭酸水は、高音域でのトリルだ。分量は、持続の長さに比例しているんだ。つまり八分音符の4倍が1単位の16分の1にあたり、四分音符は1単位、全音符は4単位というわけだ。ゆっくりした曲を弾く時は、調節装置が働いて量が増えないようになる―そうでないとカクテルが溢れ返るんだ―それにアルコールの含有量もだ。曲の長さに応じて、単位を変えることもできる。たとえば百分の一に縮小するなどしてだ。そうすれば側面を調整する方法であらゆる和音を考慮した飲み物が作れるんだ」と。
 このようにヴィアンの小説には、ナンセンスな言葉遊びやふざけたアイデアがそこかしこにちりばめられています。飲むこと、食べることにも“遊び”が必要だと思われていた、ある意味で心に余裕のある幸せで楽しい時代だったのかもしれません。言葉や物は、それまでの決まり切ったスタイルから解き放たれて、ふわふわと浮かんでいる。それはまるで美しい色をしたカクテルの弾ける泡のように。