本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
- アルケスナン王立製塩工場(1) - <アルケスナン王立製塩工場> |
<シャトー訪問記>からまた暫し離れて、皆様を18世紀に建てられたジュラ(フランシュ・コンテ地方)のアルケスナン王立製塩工場(La saline royale d'Arc-et-Senans)にご案内したいと思います。 その途次に、de Mさんのご両親の貴族仲間であるde S夫人の広壮な館に立ち寄りました。ご高齢であるため、昼食は私たちで作ろうと食材をマルシェ(市場)で購入して訪ねました。到着を告げると大きな門扉が自動的に開き、館まで長い道のりを経て玄関に到着しました。館の中央にある重々しい扉の前で、de S夫人がにこやかなお顔で出迎えてくださいました。館に入るといたる所に絵画が飾られ、ロココ調をはじめいろいろな年代ものの美しい家具や椅子が置かれていました。貴婦人は92歳とご高齢にも拘わらず、大きな館に犬と一緒にお一人で住んでおられます。知的好奇心が旺盛で、読書量も多く、特に絵画には一家言をもっていて、いまだに若い画家たちの支援活動をなさっていらっしゃるとのこと。その明晰で矍鑠としたお姿には感銘を覚えました。この館の前に広がる庭園は果てしなく、見渡せない程の広大なものでした。実に手入れが生き届いた美しい庭でした。この広大な庭園は大きな館に隣接して建っている家(これまた大きな家でした)に住む、執事ご夫婦が手入れをされているそうです。de S夫人は自家菜園で栽培した取れたての野菜でサラダ等数品を既にご用意され、私たちを迎えてくださいました。早速にお土産のトリンバックのアルザス・ワインとコンテ・チーズと共にde S夫人を囲んで楽しい昼食会がはじまりました。ご夫人から地元ではコンテは厚切りにしないで、このように特製の削り器でスライスするのが美味しい食べ方ですよ、と教えてもらいました。最後はご夫人の淹れてくださった美味しいエスプレッソ・コーヒーを飲みながら昼下がりの楽しい宴が終りました。妻が感激して御礼を述べると、「私はドアを開けただけよ(J'ai juste ouvert la porte.)」とのさりげないご夫人のお言葉にまたまた感動してしまいました。この館でのゆったりとした憩いの一時は、ジュラを訪ねた貴重な思い出のひとつとなりました。ありがとうございました、de S夫人!いつまでもお元気であられますことをお祈り申し上げます。 さあ、それでは1982年にユネスコの世界遺産に登録された、ジュラの平原に忽然と姿を現すアルケスナン製塩工場をご案内しましょう。私はこの18世紀に建てられた王立製塩工場の建築美に圧倒されました。そしてこの製塩工場を建設した建築家クロード・ニコラ・ルドゥー(Claude Nicolas LEDOUX)に大変魅せられ、帰国後に文献を読み漁り、18世紀のフランス建築のすばらしさを改めて知るところとなりました。ここは製塩工場の裏に広がるショーの森(Forêt de Chaux)から名前を取って、ルドゥーが著作に使った“ショーの製塩工場”と呼ぶ場合がありますが、ここではアルケスナン製塩工場と称することにします。 先ずは、この製塩工場を設計し完成させ、その後に数奇な運命を辿ったフランスの建築家、クロード・ニコラ・ルドゥーとは如何なる人物であったのかを少しく語ってみたいと思います。ルドゥーは1736年にフランスのマルヌ県に生まれ、若い時に新人の建築家としてルイ15世に登用され、その時代に成功した建築家の一人になりました。1760年代以降、ルドゥーはパリの社交界からの注文を頻繁に受けるようになっていきます。特に、ルイ15世の寵妾であったデュ・バリー夫人に目を掛けられ、夫人の邸宅を設計したことが、彼にとって社会的なデビューとなりました。それまでまだ開きかけたばかりだった名声の門が、彼にいっぱいに開けられたのです。ルドゥーはデュ・バリー夫人の寵愛を一身に受けて宮廷の世界に入り、恵まれた注文が山積していくようになります。1773年になると、栄えある王立建築アカデミー会員に選ばれます。それは、ルドゥーが、まさに37歳にして「王の建築家」となる叙階式でもあったのです。 アルケスナンの製塩工場の仕事は、1775年に始めて1779年に完成します。フランス革命の10年前のことでした。またパリの市の門、これは関税徴収のための門ですが、この一連の仕事の注文が舞い込んできて、1785年から1789年にかけて、55の門を設計し完成させました。ところが、ルドゥーは1789年に起こったフランス革命前に、理由がはっきり分からないまま突然解雇されてしまうのです。彼の係わった建築のうち、製塩工場は王の直営工場でした。塩の生産販売は王が独立していて、国の財源を確保するための王の重要な仕事のひとつでもありました。市の門も国の出先機関です。当時は市が独立して税関で税金を取ることになっており、市に門をつくってそこで通行税を取っていました。ですからフランス革命が起きた時には、バスティーユ監獄が攻撃されたのと同じように税関の建物、つまり市の門も攻撃の対象となって焼き打ちにあってしまいます。つまり、フランス革命ということから考えると、体制側にいて体制側を象徴するような建物の設計者というのが、ルドゥーのポジションであったため、今度は革命政権が、ルドゥーを王のために働いた建築家ということで牢獄に入れてしまいます。そして断頭台の露と消えていく寸前まできます。偶々同じ名前の人を処刑する際、彼が引っ張り出され、すれすれのところで難を免れ生還したといわれています。大変に危ない橋を渡ってきたことになります。そして、その後は支援してくれる体制が全くない孤立無援の状態に追い込まれてしまいます。ですから、ルドゥーを“呪われた建築家”と呼ぶような人も出てきたわけです。そして1806年に70歳で世を去りますが、亡くなるまでの15年の間は自分がやってきた建物のエッチングのドローイングを図面にして、それに関しての解説を含む大著,『芸術、習俗、法制の関係から考察された建築(L'Architecture considérée sous le rapport de l'art,des moeurs et de la législation)』の中で、理想の都市像を描くことに専念します。ルドゥーの影響により、その後建築家は都市を理想化し描くようになったといわれ、ル・コルビュジエの「輝く都市」などが代表例です。 アルケスナン王立製塩所の魅力は何と言っても、装飾要素を極力簡略化し、非常に単純化した幾何学的デザインの石造りと半円形の建物の配置の妙です。特に鋸歯状の列柱に代表される、その異常な形、異形はむしろ見るものに非常に新鮮な衝撃を与えてくれます。ルドゥーの建築は、“語る建築”といういわれ方をします。これは、建築が一つの無機的な構成物であるけれど、文章で物語が組立てられるのと同じように、建築も「構成が特定の物語を語りはじめる、表象する、意味を表示する」からだといわれています。列柱、ペディメントなどがルドゥーの建築デザインにかかると、独特の語りをしはじめるということなのでしょう。 この製塩工場の半円形の平面図は見事です。中央に建つ監督官の館の前に立って手を叩くと、半円形の半周からぱっと音が返ってくるようにさえ思えます。これはとても印象的で、建物の壁面がわずかに湾曲しながら中心に向かっていることが分かります。ルドゥーが半円形にした理由のひとつは、太陽の運行だといわれています。建物が南に向いており、一定の時間、確実に太陽に向かっています。夫々の建物の前には自給自足するための菜園や畑がありますが、この形がその日当たりをうまくつくっていることになります。このことは天体の運行というこの時代のひとつの宇宙観につながっているのかもしれません。アルケスナンの製塩工場は昔からある日時計を裏返したような形をしております。これは頗る合理的な考えで、ここに住む労働者の住居にも均等に環境条件を与えたことでしょう。 このような太陽の運行を主体とした宇宙観は、少し飛躍し過ぎるかもしれませんが、旧オーストリア・ハンガリー帝国の人智学者、ルドルフ・シュタイナーが20世紀初頭に提唱した葡萄栽培における究極の有機農法、ビオディナミ(Biodynamie,生力学栽培)にも通じるように思います。著書『四季の宇宙的イマジネーション』の中で、「四季の風や気候の中に動くもの、種子の力の発露、地の実り。太陽の力の輝きの中に生きるもの、それら全てはたとえ人間に意識されずとも、呼吸や血液循環に劣らず、大切で意味深いものなのです。季節の観察とは、偉大な宇宙的芸術を理解することであり、天界が地の刻印するものを力強く、かつ人間の心情の中で現実となる像の形で再び生かすことなのです」と述べています。 製塩工場の全体の構成を説明しましょう。中心に監督官の館があり、その真正面にゲート、正門があります。このゲートを通り抜けて、一本の直線が延々と田園を通り抜けて遥か向こうまでずっと一直線に繋がっています。一つの中心から半円状に広がっているのです。この中心が一直線にどこまでも伸びていくのは、フランスのルネサンスからバロックにかけてのベルサイユ宮殿を思わせます。この製塩工場の上空を気球に乗って見渡せたらさぞかしすばらしい眺めでありましょう。そういえば世界で最初に気球が飛んだのは、アルケスナン製塩工場が完成した直後の1780年代のことでした。因みに、写真と気球の二つのテクノロジーを合体させたのは、フランスの写真家ナダールです。1858年に初めて気球でパリ近郊の街を空撮するのに成功しています。当時は、宇宙船から地球を眺めたのと同じくらいの大きな事件性・話題性をもっていたのでしょう。ルドゥーは実際に球体を用いた家を建築しています。そういう時代環境ですから“球体”というのは建築家や発明家だけではなくて、むしろ様々なイメージの手掛かりだったのかもしれません。 かつてここが製塩工場として機能し活動していた時は、岩塩が水に溶けた状態の塩水を採掘場からここに引いてきて、後ろのショーの森の木を切って燃やして蒸留して塩をつくっていたのです。計画では年間6万トンの塩の生産を見込んでおり、最盛期には250人ぐらいの人が住んでいたといわれています。当時、塩は肉や魚などの保存に用いられていたため需要が高く、大変貴重な食品のひとつでした。 半円形の中心に鎮座している監督官の館は位置的にも形としてもひときわ目立つ存在です。それは王立の製塩工場の監督官は王の代理人、よって王そのものだったのでしょう。王ないしは王の代理人が中心にいて、全ての方向に見通しがきくことです。では、何故ここに中心があり、中心に王が座っているのでしょうか。それは理性神学ともいわれるニュートン的な宇宙観をベースにして太陽の運行と重ねながらも、片方では逆に、中心に王の座を定めています。王の周辺を全てが回転する、ここに立っていると太陽さえも回転するように思えてきそうです。 今日なお残っているこの製塩工場は、おそらく抑制されてはいても生きながらえているルドゥーの意志に即して実現された、最も壮大な夢想を遺す建築物であり、この建築家の運命が描き出されているように思えてなりません。 “ars longa,vita brevis(芸術は長く、人生は短し)” アルケスナン製塩工場の魅力を少しご紹介しただけで、紙数が尽きてしまいました。次回はルドゥーが描いた「ショーの理想都市」を含めて、更に述べてみたいと思います。 皆様、この一年間、駄文をご高覧くださりほんとうにありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 お元気で、良いお年をお迎えください。 |
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