本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー訪問記23


<ロマネ・コンティ>
 さて、いよいよ聖なる地、ヴォーヌ・ロマネ村に立ちいたりました。ここは捧げ銃でもすべき場所かもしれません。何故ならこの村はブルゴーニュの王冠ともいうべき<ロマネ・コンティ>と、それに寄り添う4つの大貴族ワイン、<ラ・ターシュ>、<ラ・ロマネ>、<リシュブール>、<ロマネ・サン・ヴィヴァン>という宝石をちりばめた葡萄畑を有しているからです。
 初めて<ロマネ・コンティ>の葡萄畑を見たときは、歓喜と共に一瞬足がすくむような想いをしたことを覚えております。<Romanée Conti(ロマネ・コンティ)>、神話的で謎に満ち、感覚美に溢れ、すべてを超越した存在。ブルゴーニュ大公国の最も傑出したワインとして、王侯貴族の食卓を飾ってきたワイン、それが<ロマネ・コンティ>です。しかも、その由来が歴史の靄に包まれているとあっては、神話的伝説が生まれても不思議ではないでしょう。
 ブルゴーニュの精霊に満ちたこのワインは、広さ僅か1.805ヘクタールの葡萄畑から生まれます。世界で最も名高く、世界中から羨望の眼差しで見られている土地です。この小さな高貴な葡萄畑には、十字架が指標として据えられ、「ブルゴーニュの首飾りの中心の真珠」と敬意をもって呼ばれてきました。選り抜きの葡萄の樹に実るピノ・ノワールの黒い房を、情けは酒のためならずと次から次へ切り捨て、さながら神の審判に許されたような幾房だけかを残し、それでつくられるワインが<ロマネ・コンティ>なのです。この猫の額ほどの小さな葡萄畑から毎年、平均約20樽(ピエス)、瓶にして約6,000本のワインがつくられています。これはボルドーのシャトー・ラフィット(約30万本)の50分の1の生産量にすぎませんので、これ以上希少価値をもつワインはありません。
 それではこれから、コート・ドール(黄金の丘)の頂に燦然と輝く至宝、<ロマネ・コンティ>に纏わる伝説の扉を開きながら、その扉の向こうに本当の声を聞き、そのありかを訪ねてまいりましょう。
 この世界に冠たるワインを生み出すヴォーヌ・ロマネ村は、人口僅か600人足らずの小村です。村には、18世紀の建物のように懐古的な魅力をもつもの、例えば、コンティ大公が建てたゴワロットという建物は、紛れもなく神話の世界の息遣いを漂わせています。そうした建物の多くは取り立てて目立つものではありませんが、その閉ざされた門や、玄関の奥にあるひっそりとした地下蔵(カーヴ)や葡萄畑の中に、ブルゴーニュの真髄ともいうべきものが密かにそして健やかに生き続けているのです。
 スタンダール(1783-1842)は『ある旅行者の手記(Mémoires d'un Touriste)』の中で、こう書いています。「ディジョンをあとにすると、目を皿のようにしてあの有名なコート・ドールを見た・・・その称賛すべきワインを抜きにしたら、世界でこれほど醜いところはないだろう」と手厳しい。でも私のようにワインに身を焦がすような情熱を抱く愛好家にとっては、コート・ドールの葡萄畑の中に忽然と威厳に満ちた姿を浮かび上がらせるクロ・ド・ヴージョの城以外には何の変哲もない田園風景の中にこそ独特の美しさを感じてしまうのです。東に平野、西に丘の急崖、その間に挟まれて狭められてしまった葡萄畑が視界の広がる彼方まで長くつづき、昔からある小道や狭い農道が、所々で畑を風変わりなパズルのような形に区切り、そこに村の教会の鐘楼が点在している。限りなく長く時を失ったようなたたずまいは、眺める者に心の安らぎを与えてくれます。村々はひっそりとして静まりかえり、道には人影もない。もうそれだけで私には十分で、感動以外のなにものでもありません。今までに一人で、そして妻と、友と共に何度この地を訪ねたことでしょう。いつ来ても心躍らせる何かがありました。
 <ロマネ・コンティ>を語るのに、歴史を避けては通れないでしょう。先ずは、一番よく知られているコンティ大公(1717-1776)の<ロマネ>の買収劇から話を始めることにします。のちに<ロマネ・コンティ>となった葡萄畑は、もともとはサン・ヴィヴァン・ド・ヴェルジー修道院の所有する畑でした。かつては7世紀の要塞に囲まれた古城、ヴェルジー城だったサン・ヴィヴァン修道院は、コート・ドールの後背地にある山の頂上に聳えています。そのヴェルジー城から数キロ、丘の麓に位置している他には類を見ない葡萄畑が<ロマネ>だったのです。修道院は16世紀末以降、この葡萄畑をディジョンの位の高い様々な人士に賃貸していました。フランドル地方の出身で、ブルゴーニュ地方のサン・ジュノワの領主だったフィリップ・ド・クローネンブールが1631年に偶々婚姻でこの葡萄畑を手に入れました。葡萄畑はその家系にとどまること四世代、そして、アンドレ・ド・クローネンブールが1760年7月18日に売却した相手こそが、ルイ・フランソワ・ド・ブルボン、即ちコンティ大公だったのです。記録によると面積40ウヴレ(1.8ヘクタール弱)を総額8万リーブルで売却したとあります(これに裏金1万2400リーブルが加わる)。これは当時としても破格な取引であったようですが、ワインの愛好家がワインの違いを見分けることを既に知っていて、どれ程常軌を逸していても、ワインの味覚面でのヒエラルキーとあれば、当を得た行動とみなしていたのでしょう。クローネンブール家はコンティ大公に売却するまでの数年の間、<ロマネ>をクロ・ド・ヴージョのワインの6,7倍で売っていたそうですから、妥当な取引額だったのかもしれません。今となってはコンティ大公が何故こんなに高い金額を意に介さずに支払ったかどうかを説明する資料は何もありません。結果的にいえば、大公がお金のことを余り気にかけない人物だったのでしょう。事実、コンティ大公はとても豪華な生活をしていました。大公の所有するパリのタンプル宮と、リラダンにあるブルボン・コンティ城での晩餐は贅を尽くしたものでした。この晩餐でブルゴーニュ最高のワインを独占できるという特権を手に入れるためなら、大公にとっては葡萄畑の値段など問題ではなかったはずです。
 <ロマネ>のうちやがて大公の名を付して<ロマネ・コンティ>となる部分をこんな価格で購入した事実が風説を呼んで、この取引にはある伝説が加えられるようになりました。それは大公と、大公をあまり快く思わなかったポンパドゥール夫人(1721-1764、ルイ15世の寵姫)の間の激しい確執に纏わる伝説です。コンティ大公は、軍での出世の道がポンパドゥール夫人の妨害工作のせいで閉ざされたと信じていました。確かに、夫人は大公を嫌っており、ルイ15世(1710-1774)に対する大公の影響力のせいで自分の地位が脅かされると感じていたのは周知の事実でした。また1757年に王と大公の間に仲違いを生じさせたのは夫人だと、誰もが信じていました。ポンパドゥール夫人が<ロマネ>を欲しがっていたのが事実なら、畑の買い主が秘密にされた理由は十分にあります。しかし、この時代の記録や年代記のたぐいには、そうした夫人の策略を明らかにするものは何もありませんでした。夫人が<ロマネ>を手に入れそこなった悔しさのあまり、宮廷からブルゴーニュ・ワインを一掃し、王の食卓にはシャンパンしか出させなかったという話も、どうやら後世のでっちあげのようです。しかしこの伝説は、ヴォーヌ・ロマネ村の住民が最も偉大な自分たちの葡萄畑の威信を更に引き上げるために創りだしたエピソードということであれば、さもありなんと納得できるような気がいたします。
 タンプル宮やブルボン・コンティ城の大公の晩餐に通っていた物知り顔の連中が垢抜けた様子で、啓蒙の世紀ならぬ啓蒙の社交界のこうしたメッカで、この名品をさぞかし満喫していたのでありましょう。こうしてコンティ大公が<ロマネ>の葡萄畑を買い取ると、そのワインは「伝説」になりはじめたのです。以降、全てのワインはコンティ大公個人の用途に当てられたからです。コンティ大公は、確かに法外に贅沢な暮らしをしていたようです。けちなやり方ではなく、人生を芸術に変えようとしていました。コンティ大公が<ロマネ>を買ったのは、ヴェルサイユから身を引き、パリにあるタンプル宮に家庭をつくった後のことで、最も贅を尽くした生活をしていた時期だったといいます。18世紀のフランスは極めて絢爛としていた時代でありました。
 ルイ14世(1638-1715)が主治医ファゴンの処方で<ロマネ・コンティ>を飲み、奇跡的に痔瘻が治ったという伝説もよく語られています。しかしルイ14世の死去は1715年、コンティ大公が<ロマネ>を購入したのは1760年、<ロマネ>が<ロマネ・コンティ>として知られるようになったのは、1794年以降のことだといわれていますので、これも後世のつくり話なのでしょう。伝説のなかには、古代ローマ時代に遡る起源説まで現れますが、これらの伝説は、偉大なワインに敬意を表した人たちがつくりあげた知的遊戯の産物のように思われてなりません。
 今回は歴史に殆どを費やしてしまいましたので、これくらいにして現代の<ロマネ・コンティ>の話に移ることにします。ところで、私が留学していた頃のボルドー市長はアラン・ジュペ(1945-、元首相、サルコジ政権で運輸相、国防相、外相を歴任)でした。氏は日本からの留学生を市庁舎に招いてくださいました。そのアラン・ジュペの子供の頃、ボルドー地方のワインが父親のカーヴの8割を占めていたといいます。氏自身も勿論れっきとしたボルドー派であり、サン・テステーフのワインはバランスが取れていて、他のワインより好きだと言っておりました。ところが、その氏がブルゴーニュのワインについてこんな話をつい白状しております。「私はバランスをとって中庸を選んでいる人間だとよく批判されます。ワインの好みにもそれが出てるんですな・・・ブルゴーニュ地方のワインにはボルドーのワインほど深みはないといつも思ってました・・・といっても、<ロマネ・コンティ>を口にする前の話です。あれを口にして、こんな風に思いました。このワインにはボルドーの銘醸ワインの水準に達するだけの完成度、豊かさ、複雑さがある。趣は違っているけれど」と。ボルドー市長をして、<ロマネ・コンティ>を味わってからは、深く心に根ざしていた確信に少なくとも一度は揺らぎを生じさせたのは明らかのように思います。これは、<ロマネ・コンティ>の魅惑が大きいことのひとつの証でありましょう。スミレとバラの香りがほのかに漂い、麝香を連想させる官能的な香りを想わせる壮大華麗なこのワインは、内から発する光沢と、そのきめ細かな肌触りで、いかなる人をも魅了せずにはおかないからなのでしょう。その完璧さは洗練の極みといってよく、かけがいのないものです。心を打たれるのは、果てしない複雑さを見せながらも決して人をくたびれさせないところにあるように思います。
 次回も引き続き<ロマネ・コンティ>の魅力について語っていきたいと思います。


 


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