本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー訪問記24


<馬と葡萄畑>
 「グラン・クリュ(特級)がグラン・クリュである根拠は、正に葡萄畑の中にある」とよく言われています。その<ロマネ・コンティ>の畑は、なだらかな東南向きの斜面の丁度中腹にあります(標高262メートルから272メートル)。斜面の東側の方が少し低くなっている関係で、朝一番早く陽が射し、一日中たっぷりの陽を浴びることができます。ブルゴーニュのような寒い地方では朝の陽射しはとても重要です。これは、ブルゴーニュで最高且つ完璧なワインのひとつを生むための正に理想的な立地条件であります。<ロマネ・コンティ>の畑は一見したところ他と大した違いはないように思うのですが、地下は複雑な地層となっております。表土は白い小石まじりの赤褐色の土ですが、その下はピンクの縞模様の入った石灰岩層、その下がぼろぼろの粘土と牡蠣殻が堆積したカルシウム系泥灰土層、更にその下は原始海生物からなる硬質岩石層という具合です。地下深く根をのばした葡萄は、こうした複雑な地層の成分を吸い上げて、見事な果実に凝縮させるのです。
 この畑に植えられている葡萄はピノ・ノワール一種だけです。19世紀後半にヨーロッパ全土を襲ったフィロキセラ(Phylloxéra,ぶどう根あぶら虫)のため各地の畑は壊滅状態に陥りましたが、<ロマネ・コンティ>だけは苦心惨憺、古いヨーロッパ種の葡萄を守り抜いたのです。このことで、「再興にかからざるフランス古来の葡萄の園(Vignes originelles françaises non reconstituées)」という誇らしげな名が授けられました。しかし収穫は少なくなるばかりで、第2次世界大戦中は人手不足もあって、その手入れが困難を極め、ついに断念せざるを得なくなります。そして、この害虫に対疫性のある新しい株を植えてこの古い樹の枝に接ぎ木をしました。従って、1946年から1951年までのヴィンテージの<ロマネ・コンティ>というワインは、この世に存在しません。あれば明らかに偽物ということになります。
 ここで、ヨーロッパ中の葡萄樹に壊滅的な被害をもたらせたフィロキセラについて少し説明しておきましょう。1860年のある時、アメリカの葡萄樹が1本、ロンドンの国立キュー植物園に送られてきました。不幸にもそれには、フィロキセラという寄生虫が付いていたのです。それは新しい世界が古い世界へもたらした第2の疫病でもありました。第1の疫病は、ご存知の通り、コロンブスの水夫たちがハイチやキューバの愛らしい肌の娘たちからいただいたスピロヘータです。そして、それはセビラとバルセロナの娼館からヨーロッパ中に蔓延しました。第2の疫病フィロキセラが、何故ロンドンのキュー植物園からフランス中に広がったかについて知る人は意外と少ないのですが、事実は正にそうであって、1870年代に大きな葡萄園はこれによって悉く荒廃していったのです。ヨーロッパの葡萄樹には抵抗力がなかったので、フィロキセラは、さながらペストのごとく蔓延しました。暫くの間、フランス人は遂にワインに終末が到来したかと怯えたのでした。やがてある人が、アメリカの葡萄樹には、自然の抵抗力があることを思い出しました。それがフランスに運ばれて、フランスの樹に接ぎ木されました。効果覿面。再びフランスの葡萄園は甦り栄えるようになったということです。
 さて、<ロマネ・コンティ>の葡萄は、ヘクタール当たり1万1千本から1万6千本という密植です。こうすることによって、葡萄は根を横に広げられないので地中深くに伸ばすことになります。そのため地中から吸い上げる成分が複雑になるわけです。また、枝にたわわに実る葡萄は一見すると見事ですが、ワインづくりの場合はそれは禁物で、見かけは貧弱で、いくらも実がついてないというのが剪定を厳しくしている証です。1本の樹になる房を少なくすれば、それだけ果実に集中する成分は濃くなるからです。そこで1本につけさせる房は僅か4房から6房ということになります。ということは、1本の葡萄樹から取れる量はせいぜい3分の1瓶分くらいという寡少生産になります。こうして選果から醸造まで徹底して細心の注意を払ってつくられるのが<ロマネ・コンティ>なのです。ひとつひとつの葡萄にまで気を配るような手の掛け方ができるのも、それをするだけの価値がある畑であるからなのでしょう。
 このように最上を極めるため、徹底した管理を施し、畑がもっている長所をフルに発揮させるということを信条というか葡萄づくりの哲学として連綿として代々の所有者に受け継がれ、現在のドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社(Domaine de la Romanée Conti)に結実しております。コンティ大公のあと、ロマネから<ロマネ・コンティ>に名を変えてからも何人もの手を経て、ド・ヴィレーヌ家とルロワ家の両家のものとなりました。この畑ひとつで、一冊の歴史書ができあがりそうです。
 1974年にはアンリ・ド・ヴィレーヌの息子オベールとアンリ・ルロワの娘ラルーが共同経営者となりましたが、20年近い蜜月時代を経て、1992年に袂を分かってしまいました(当時センセーショナルな話題となりました)。その後監査役であったルロワの姉ポーリーンの長男シャルル・ロックが共同経営者の代表権を得ましたが、2か月後に交通事故で帰らぬ人となってしまいます。そして、シャルルの弟、アンリ・フレデリック・ロックが後を継ぐことになり、オベール・ド・ヴィレーヌと共にドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ社の共同経営者として現在に至っています。
 ところで、私は一昨年春に<ロマネ・コンティ>のヴォーヌ・ロマネ村を久し振りに訪ねました。葡萄畑を歩き回ったあと、<ロマネ・コンティ>とラ・グランド・リュ(La Grande Rue,特級畑)の間の小道を登っていきました。ここからはヴォーヌ・ロマネ村のグラン・クリュの畑を全て見渡すことができます。近隣の村落も、斜面の向こうに広がる平野も一望のもとにあります。コート・ドール最高の眺望でしょう。ここに立つと、何世紀も昔のブルゴーニュに思いを馳せるのもさほど難しくはないような気持ちになります。眼下にはこの世で最も個性豊かな葡萄畑が延々とパッチワークのように広がっていて、それぞれの境界を定める精度は1本の葡萄樹で狂うほど細かいと言われております。
 そこで初めて馬で畑を耕しているという珍しい光景を目にしました。その葡萄畑は<ロマネ・コンティ>と小道をひとつ挟んだ上方にある、レ・ゴディショ(Les Gaudichots)という小さな1級畑でした(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティも一部所有しており、特級のラ・ターシュ(La Tache)と名のることができます)。馬を操っている女性に聞くと、「馬は畑に蹄で足跡を残すが、大型トラクターは大きな轍を残しながらその巨体で畑をガチガチに固めてしまう。そんなことをしたらミミズをはじめ小さな生物はひとたまりもないですから。その点馬は畑に足跡分しか潰さないからとてもいいの。それに葡萄樹が日中光合成に二酸化炭素を必要とするし、トラクターの排気ガスでは葡萄樹が可哀そうよ」と言っていたのがとても印象的でした。鋤を引く馬が土を掘り返している様子はまるで中世の絵に出てくるような光景そのものでした。陽は降り注ぎ、土は生き生きとして、掘り起こすたびに、新鮮な空気が土壌をきれいにしているようにさえ思えました。これも自然農法のひとつでしょう。昔から「葡萄樹は、馬の存在を“感じる”ものである」とよく言われておりますが、この光景を見て納得しました。
 実は、<ロマネ・コンティ>の畑も今でも同じように馬でもって耕すことを実践しております。そして注目されるのは、至高のドメーヌを率いる二人の共同経営者の思想が、2008年に究極の自然農法といわれるビオディナミ(Biodynamie,生力学栽培)に全面的に転換したことです。ビオディナミという言葉の中には、伝統的な農法の90パーセントが含まれているということに合点がいきます。ビオディナミについては章を改めて別途述べるつもりです。
 ただ、馬で耕作する方法は古来より実践されていると思いきや、ブルゴーニュの葡萄畑に馬が導入されたのは、それほど昔のことではないとのことでした。馬を使えるようになったのはフィロキセラ被害のあとで、それ以前は葡萄が密に植えられていたため、道具を抱えたヴィニュロン(葡萄栽培者)一人しか、畑の中を通れなかったためといいます。だから馬が入ったのは葡萄が列をなして植えられるようになってから、つまり1890年以降、接ぎ木によってピノ・ノワール種が植え直されてからのことだと。それでも、1900年から1918年までは、馬は殆どいなかったというから驚きです。そして、1945年から60年にかけて、アンジャンバー・トラクター(畝をまたぐ形の農業用トラクター)が登場しはじめたので、馬の時代はとても短かったようです。でも、今日に至っても<ロマネ・コンティ>やレ・ゴディショに見られるように、馬の効用は想像以上に大きいのかもしれません。これも葡萄づくりのひとつの哲学であるのでしょう。
 「ロマネ・コンティの比類のないすばらしさ、値段のつけられない価値は、テロワール(Terroir、ワインは土地、気候、葡萄品種の3つの幸運な結合によりつくりだされています。このような条件の結合をフランス語でテロワールと称しています)にその秘密があるのだ。テロワールと、その語り部たる偉大な品種ピノ・ノワールとの共同作業、幸福なマリアージュ(結婚)が、偉大なワインを生み出す。それを永続させること、畑の神秘的化学反応を尊重することこそ、若い世代に伝えなければならない」と熱っぽく語る共同経営者の一人、オベール・ド・ヴィレーヌの言葉には含蓄があります。
 最後にブルゴーニュ出身の女性作家コレット(Colette,1873-1954)が語ったすばらしい一節をひいて、この章を終わることにします。「植物の中で唯一葡萄だけが、大地の真実の息吹を伝えることができる。その伝達の正確さよ!葡萄はその房で大地の秘密を語る。土中の火打石は、大地が生きていることをわれわれに教える。やせた粘土はワインの中で黄金の涙を流す」と。
 <ロマネ・コンティ>は人の心を深く揺り動かす芳香をもつ、壮大華麗なワイン。きらきらと光り輝くルビー色と、そのきめの細かさはいかなる人の味覚をも喜ばせる!
 次回は作家たちが<ロマネ・コンティ>を讃えた文章をご紹介しましょう。



 


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