本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - ワインにうるさい古代ローマ人(2)-


古代ローマン・グラスの壺
 前回ご紹介しましたように、古代ローマ時代の銘醸ワイン<ファレルヌス酒、100歳>は、「オピミウスの年」つまりルキウス・オピミウスという人物が執政官をつとめた紀元前121年に仕込まれたもので、これは現在のヴィンテージ(収穫年)に当ります。一方「100歳」とはポートワインやコニャックやウイスキーの20年物、30年物に相当する熟成期間を意味していたと思われ、文字通り100年が来し方であることを示しています。このことをもう少し考えてみますと、紀元前121年に仕込んだワインを100年間大きなアンフォラの中で熟成させ、しかる後にそれよりも小さなローマン・グラスの美しい壺に移し替え、丁寧に石膏で密封して更に80年以上を経たものになるのではないか。そうすると、この<ファレルヌス酒>は少なくとも180年以上経過していた計算になるわけです。といいますのは、『サテュリコン』(「トリマルキオの饗宴」は、この中の一節)の著者ペトロニウスは紀元1世紀に生きた人物(AD27年頃-66年)で、タキトゥス(AD55年頃-120年頃)が『年代記』の中で触れたことのある「金持ちの貴族」と同一人物であることはほぼ間違いないというのが世の定説であるからです。
 それではペトロニウスとは如何なる人物であったのか、その人となりをよく表している『年代記』から少しく引用してみたいと思います。―「ガイウス・ペトロニウスについては、生前まで遡ってもう少し眺めてみたい。なにしろ昼日なか眠って、夜を仕事と享楽に生きた人であるから。他の者なら、さしずめ精励恪勤によるところを、この人は無精でもって有名となった。資産を食いつぶした人によく見かけるような、大食漢とか放蕩者としてではなく、贅沢の通人として世に聞こえていた。彼の言うこと行うことは、世間離れしていて、どことなく無頓着に見える場合が多かっただけに、いっそう快く、天真爛漫な態度として受け取られた。それにも拘わらず、ビテュニアの知事として、ついで執政官として、彼は精力家であり、そしてそのような任務によく耐えうる人物であることを証明した。それから後、ふたたび悪徳の生活にもどり、というよりも背徳者をよそおって、ネロ(AD37年-68年、悪名高きローマ帝国第5代皇帝)のもっとも親しい仲間に入り、“趣味の権威者(elegantiae arbiter、粋判官)”となる。こうしてあらゆる歓楽に飽きたネロは、ペトロ二ウスがすすめるもの以外は何も、心をひくものとも粋なものとも考えなくなる」と。しかし、このことが後にネロの奸臣ティゲリヌスの嫉妬を刺激し、死に追いやられることになります。「饗宴の席につくと、眠気をもよおすままにまどろんだ。強制されたとはいえ、できるだけ自然な往生を遂げたように見せたかったのである。遺言付属書の中にも、死に臨んだ人がたいてい陥るような、ネロとかティゲリヌスとか、そのほかの権力者に対するあの佞言を記さなかった」。このように最後まで韜晦に徹し、倫理的な自由と洗練美に殉じたペトロニウスの生涯を、タキトゥスは生彩ある筆致で簡潔に述べております。
 この“趣味の権威者”ペトロニウスが著した『サテュリコン』は、紀元62年から66年にかけてネロのためのサロンで少しずつ朗読し発表していたと考えられます。ということで、《オピミウスの年に収穫せしファレルヌス酒、100歳》が、饗宴の席で供されてトリマルキオと招待客が飲んだ時は、オピミウスの年(紀元前121年)から数えて、確かに180年以上も経過していたことが明らかになります。
 当時の多くの文筆家が記していますように、紀元前121年という年は多くの銘醸ワインを生み出した年でありました。ペトロニウスと同時代人の大プリニウス(AD22頃-79年)は『博物誌』の中で、その年は葡萄を沸騰させる程であったと表現しています。恐らく春以降は殆ど雨の降らない暑い夏がつづいた年だったのでしょう。その天候によって糖分の多い葡萄が類まれなる銘酒を生み出したものと想像できます。通常の年のワインよりもアルコール度も高かったゆえに長期保存にも適したワインになったのでありましょう。
 さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ本題に入ります。ご存知の通り、醸造技術の発達した現代でもワインを100年以上熟成させることは至難の業です。果たして、この《ファレルヌス酒、100歳》は、ほんとうに180年以上熟成をつづけてもなお、飲むに値するワインだったのでしょうか、それとも単に「極上のヴィンテージ、万歳!」といった程度の意味しかなかったのでしょうか。そのどちらであるかを、これから私なりに明らかにしていきたいと思います。
 それを解く鍵は、どうやら《ファレルヌス酒》をはじめとする当時の銘醸ワインが、今日のマディラ酒と同じような製法で調合されていたということにありそうです。といいますのは、今でもマディラ酒の100年物、200年物の古酒を味わう<マディラの会>が、特に、イギリスやアメリカで催されているからです。
 マディラは、アフリカのモロッコ西方沖にあるカサブランカと緯度を同じくする大西洋の火山島です。ポルトガル人がここを発見したのは15世紀の初期のことでした。その時は無人島だったといいます。もっとも一説によると古代人が既にこの島の所在を知っていたともいわれ、アトランティス伝説の発祥地だという説もあるくらいです。大プリニウスが「幸福の島」と呼んだのは、実はこのマディラ島なのだという説も、《ファレルヌス酒》と絡めて大いに興味を惹くところです。
 かつてマディラ島は島中が森で覆われておりましたが、ポルトガル人がそれを燃やして葡萄畑にしました。その灰のために良質のワインがとれるようになったといわれています。では、マディラ酒とはどんなワインなのでしょうか。マディラ島の山や丘陵の段々畑に栽培されている高貴種の葡萄からつくる、フォーティファイド・ワイン(酒精強化ワイン)で、現在に至るもそのヴィンテージ・マディラは世界の偉大なワインのひとつに数えられております。注視すべき点は、マディラ酒は独特の製法によって永い寿命を保つとされ、古いワインだけがもつ高度の卓越性を備えているということです。マルバジア(Malvazia)葡萄が一番の古参で、15世紀初頭に、ポルトガル人によってこの島に植えられた最初の葡萄です。その葡萄は、ソーテルヌの場合と同じように遅摘みされ、また栽培も日当たりの良い南部の海岸地帯で行われています。この葡萄からつくられたワインは数百年もの長い間、イギリスではマームジィ(Malmsey),フランスではマルボワジィ(Malvoisie)として知られており、優れた品質の甘いデザート・ワインです。ボアル(Boal)又はブアル(Bual)という葡萄からはコクがあり、芳香も高い、マームジィとは異なったタイプのデザート・ワインがつくりだされています。更にセルシアル(Sercial)種の葡萄があり、今日では辛口のワインになります。ちょっと苦味を感じるくらいのごく辛口のものです。
 この島の農民は零細な土地をもち、僅かばかりの葡萄を育てていますが、自分でワインをつくらないで、フンシャル市の酒商に葡萄のまま売り渡してしまいます。ですから酒商が全てのワインをつくり、保存熟成させ、輸出するのです。さて、その注目すべき独特の醸造方法ですが、島中の各地から集積された葡萄は、マルバジア、ボアル(ブアル)、セルシアルなどの、種類毎に区分された上で圧搾されます。絞られた果汁は発酵し、ヴィーニョ・クラーロ(Vinho claro)と呼ばれる新酒になります。ここまでは通常の仕込みと何ら変わるところはありません。この後に新酒がエステュファー(Estufa)という部屋に運ばれます。ここからが独特の醸造方法になります。この部屋は特に高温(120度まで)を保つ、いわば温室のような加温貯蔵庫であって、ここで一定期間熟成させるのです。こうして高温の中で熟成した新酒は、ヴィーニョ・エステュファード(Vinho estufad)、つまり“温められたワイン”と呼ばれる状態になります。その後に、若干の強いブランデーが元気づけに注がれます。これによってワインはヴィーニョ・アルコーリザード(Vinho-alcoolisado)、言い換えるとフォーティファイド・ワイン(酒精強化ワイン)と呼ばれる資格を持つことになります。ここで熟練したブレンダーが、同種のワインで年代の異なるものを大桶の中でブレンドします。このブレンドによってワインはヴィーニョ・ジェネロソス(Vinho generosos)と呼ばれるワインに昇格します。それを静かに寝かせて熟成を待つのです。その中でも、ヴィンテージ・マディラは、ワインの質が平均以上の特に出来の良かった年につくられた稀少品です。
 この独特の醸造方法は帆船時代にマディラ酒を積んで熱帯地方を回ったところ、本来なら暑さでいたむはずのワインが大変甘美なものに大化けしたことにより、今日では人工的に航海と同じような条件をつくって一定期間、「高温」と「動揺」を与えてその味をつくりだしています。こうしてでき上がったマディラ酒は、100年以上の長期熟成に耐えるワインとなっていくのです。かの大プリニウスは1700年後のこの発見を、当時見事に予見していました。「海上を船で運ばれてきたワインについていえば ― 揺れはそれに耐えることのできるワインの熟成度を、倍加する効果をもっている」と。
 さて、そろそろ結論を導き出す段階に入ってきました。《オピミウスの年に収穫せしファレルヌス酒、100歳》はどのようにしてつくられたのでしょうか。ブランデーなどの蒸留酒は中世の錬金術師によって確立された技術ゆえ、古代ローマの時代にそれを酒精強化に使用したとは考え難く、矢張り一定期間高温の中で熟成させたのではないかと想像されます。それは沸騰させて葡萄果汁を煮詰め濃縮するというのが、古代ローマ時代の強くて甘口のワインをつくる方法であったからです。そして古代ローマ人の好みが甘口だったということは、葡萄の摘み取りをできるだけ遅らせることを意味していました。非常に甘口のワインは酢に変わることなく、たいていは長持ちします。しかし、古代ローマ人は、ワインを長持ちさせるためにそのアルコール度を強めるすべは残念ながらまだ知らなかったようです。アルコール分がワイン全体の15~16パーセントに達すると、酵母菌は発酵するのを止めてしまいます。蒸留法はまだ知られていませんでした。従って、沸騰させて葡萄果汁を煮詰め濃縮するという醸造方法が古代ローマ人の知る最も強くて甘いワインのつくり方であったのです。そして、ファレルヌス酒のようなカンパニア地方の偉大な強くて甘口のワインは、「太陽と月と雨と風にさらされながら」アンフォラに入れて戸外で寝かせていました。マディラ酒同様ファレルヌス酒もわざと酸化させた酒だったようです。そのプロセスは温度の変化によって更に加速させられたことでしょう。
 よって、マディラ酒と同様な製法でつくられたと思われる、「トリマルキオの饗宴」で供された《オピミウスの年に収穫せしファレルヌス酒、100歳》は、単なる「極上のヴィンテージ、万歳!」ではなく、180年以上の熟成を経てもなお蜂蜜のように甘露で芳醇な風味が、当時の招待客を魅了させたにちがいない。《ファレルヌス酒、100歳》は、充分美味しく且つ楽しく飲めたワインであったと結論づけるのが私の考えです。
 寝かせれば寝かせるほど良くなるのが良いワインの証というのは、現在も、古代ローマ時代も変わっていません。かのホラティウスは自分の死を思って作った詩の中で、妻と別れることよりも、すばらしい年代物の古酒が詰まった酒蔵と別れなければならないことの方を心配して嘆き悲しんだとか。
 この小さな物語は浮かんでは消えてゆく束の間の空想を追いかけた、筆者のすこぶる個人的で勝手気儘な試みです。古代ローマでつくられた《ファレルヌス酒、100歳》のワインに、読者の皆様と一瞬のロマンを共有することができましたなら幸いであります。