本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー訪問記26-


シャブリの町と葡萄畑
 葡萄畑とロマネスク修道院を巡る2,000キロの車の旅の終着点は、辛口白ワインの産地として有名なシャブリ(Chablis)です。ブルゴーニュ地方は何度も訪ねましたが、飛び地にあるシャブリは今回が初めての訪問でした。漸く念願叶って実現できました。
 シャブリは恐らく世界でも日本でも一番名の通っている白ワインのひとつでしょう。この白ワインは、パリから175kmほど南東にあるちっぽけな葡萄畑からとれます。ブルゴーニュの最北端に位置する葡萄畑は、石灰岩の多いスランの谷の丘陵に沿って茂っています。川とそれを囲む田園風景は誠に静謐そのものです。ところどころに村や畑へ行く小道が分かれ、そうした道には決まって、高いポプラ並木があり、その梢にはヤドリギの暗緑色の球がついています。町に近づくと、シャブリの美しい葡萄畑が視界に入ってきます。町は牡蠣の殻のように内側に湾曲した斜面と向き合っていますが、この斜面にはシャブリ自慢の7つの特級畑が広がっているのです。ちょうど私たちが着いた日は青空市場が開かれ大変賑わっており、早速に出店でいろいろなシャブリを試飲させて貰えるという幸運に恵まれました。幸先良いスタートです。
 シャブリはブルゴーニュ地方の葡萄栽培地に属しながら、本来のブルゴーニュの葡萄畑であるコート・ドール(黄金の丘)の畑とは繋がっておらず、ヨンヌ県内でぽっつりと飛び地を形づくっています。何故なのでしょうか。これはフィロキセラ(ぶどう根アブラムシ)の害で姿を消したあと、シャブリの周りの葡萄畑は荒廃状態のままで、ついぞ再興されなかったからなのです。このようにアメリカ大陸からロンドンのキュー植物園を経てフランスへやって来たフィロキセラは猛威を振るい、ワイン用葡萄に壊滅的な被害をもたらしました。元々はパリからシャブリを通ってブルゴーニュに至るまで延々と葡萄畑が続いていたのであります。それはフランスの作家、ギュスターヴ・フロベール(1821-1880、『ボヴァリー夫人』で有名)の『感情教育』を具に読むと、主人公がパリ近郊を通ったり訪れたりする場面には、必ず葡萄樹や葡萄畑の描写が挿入されていることからも分かります。
 因みに、1877年(明治10年)の暮れに2人の青年、高野正誠(25歳)と土屋助次郎(19歳)が初めて葡萄栽培とワインの醸造を学ぶために、甲州勝沼から遥々フランスに赴いた土地がパリとシャンパーニュ地方の間にあるシャブリに近いトロワであったことが納得できます。今では葡萄の影もないこの地方は19世紀末までは一面葡萄畑に覆われた美しい田園風景が広がっていたからです。でも1901年になると、この地方を突如襲ったフィロキセラの猛威で葡萄畑は全滅してしまったのです。
 このようにパリ(モンマルトルの丘に今でも僅かばかりの葡萄畑が残されておりますが)からトロワに至るまで葡萄畑が再興されずに消失してしまったのに対し、シャブリは北に位置し春の霜害などで生産性が低いにも拘わらず、貝殻を多く含んだキメリジャン土壌から今でも溌剌とした他には類のない爽やかな酸味をもつ辛口白ワインが生まれています。これは偏にシャブリの葡萄栽培者たちがフィロキセラ以降もワインづくりの再興に並々ならぬ努力を払った賜物でした。
 今では世界各国のいろいろなワインが手に入るようになりましたが、かつて日本で一番飲まれている白ワイン、一番名前の知られている白ワインといえばシャブリだったように思います。つまり、シャブリは辛口白ワインの代名詞となり、その特性はシャブリという名で記号化されていたわけです。ことほど左様にシャブリは日本に広く浸透していたことが分かります。しかもシャブリとはシャンパーニュ同様地名から取ったワインの名で、本来ならシャブリ地区以外のものがこの名を冠するのは理に合わないはずですが、シャルドネ100%でできた辛口の白ワインなら海越え山越えシャブリという名をつけて売られ、何故か無節操なボーダレスなワインとなってしまったのです。でも本家本元の由緒正しきシャブリには、透明でありながら煌めくようなイエローグリーンの色調があり、味わいは見た目通りの爽やかな口当たり、鋭い切れ味、しかもまろやかさがあり、何よりも濃縮された葡萄の力が漲っています。清涼感とドライな刺激がありながらも葡萄本来の果実味と甘味があり、腰が強いのにすっと飲めて心地よい余韻が残ります。いずれにしてもピチピチした本来のシャブリは、一度ちゃんとしたものを味わったら、決して忘れることのできない、シャブリ独特の「火打石(燧石)の風味」をもったワインなのです。お試しあれ!
 さて、妻と私はホテルに荷を下ろすと再び町に繰り出しました。町のあちこちに日本でも見慣れた名前のドメーヌの文字が目に付きます。先ずは、有名な「ドメーヌ・ラロシュ」を覗いていくつか試飲させて貰いました。日本で何度も飲んだことがあるこのドメーヌのワインは、全てに硬質な優雅さがあり、切れ味鋭く、香り高いという印象がありますが、やはり現地で飲むワインの味わいは格別で、一段と美味しさが増すような気がしました。ここでは、「良いワインは良い葡萄からつくられ、良い葡萄は良い土から生まれる」をモットーに徹底した有機栽培を実践しています。従って、「何よりも力を入れているのが土を育てること、シャブリにとって最高の条件であるキメリジャンの土地の持ち味を最大限に引き出すために」という言葉がとても印象的でした。シャブリは、ブルゴーニュのコート・ド・ボーヌの白ワインと同じシャルドネ100%でつくられていますが、その性格やスタイルが全く違ったものになっているのは摩訶不思議です。これもジュラ紀の牡蠣の化石が砂利に混じっているシャブリ特有のキメリジャン土壌によるからでしょう。
 「ドメーヌ・ラロッシュ」を後にして、町の中心から葡萄畑への道をスラン川沿いに散策していると農夫らしき人に出会いました。シャブリの特級畑はどの辺りですかと尋ねると、自慢げに指をさし、あれが特級銘柄の最大の葡萄畑のレ・クロ、その右手がブランショで、左手はヴァルミュールからグルヌイユ、ヴォーデジール、レ・プルーズ、ブーグロが続いていると7つの特級畑をすらすらと読み上げるように教えてくださいました。そして第1級畑の中でも最良のものは、特級畑の周りにあるとも。夕陽に映える美しい斜面を眺められただけで十分に満足しました。マウンテンバイクでもあれば葡萄畑の中を訪ね回ったところですが、今回は諦めホテルに戻ることにしました。今宵の宿舎、「オステルリー・デ・クロ」のレストランはミシュラン1つ星で、シャブリで一番美味しいとの評判通り、ワインと料理のマリアージュは絶妙で大いに楽しませて貰いました。今回の2,000キロの車の旅を計画してくださったフランスの友人ご夫妻には只管感謝のみであります。
 さて、「生牡蠣にはシャブリ」というのは世界の定番です。秋から冬にかけての風物詩として、ボルドーではアルカション産の生牡蠣を売る露店があちこちに現れます。私は留学時代に牡蠣用ナイフで殻を剥がすコツを友から教わり、ホテルの自室でアルカションの海でその朝とれた生牡蠣を1ダースくらいはぺろりと平らげたものです。美味い!シャブリといわずともキリッと冷やしたボルドーの白にもよく合い、独りでの味気ない生活に一時の幸せを運んでくれました。ボルドー・アルカション産やブルターニュ産の生牡蠣は勿論大変美味しかったですが、かつて秋田の料亭「櫻山」で、ルイ・ミシェルのつくる<シャブリ特級ヴォーデジール2003年>と共に味わった、大振りでふっくらクリーミーの濃厚で磯の香がぷんぷんする秋田産の岩牡蠣の醍醐味は忘れられません。
 「美食家を喜ばせる牡蠣よ!」、「牡蠣こそは、食べても食べても、また食べたくなるものだ。そして、食べ過ぎても別に体をこわすこともないのだ!」と、セネカ(BC1年頃-AD65年,古代ローマの後期ストア派の哲学者、政治家、詩人)は叫んだといいます。
 ところで、フランス産の生牡蠣が今日のようにフランスのレストランや家庭の食卓を賑わし楽しめるのも、日本の多大な貢献があったからということをご存知でしょうか。実は、1966年から1970年にかけて、フランスでは牡蠣(ヨーロッパヒラガキ)に病気が蔓延し、壊滅的な被害を受けました。そこでこの病気に打ち勝つ牡蠣を世界中に探し求め、最終的に辿り着いたのが日本の広島産のマガキ種でした。このマガキ種には病気に対して耐性があることをつきとめたのです。そして、広島産のマガキは元々宮城産のマガキに由来することが判明しました。そのため、フランスの牡蠣を救ったのは日本のマガキ種だ、と大変感謝されているのです。マガキ種が世界的にみても大変強い品種であったことが分かります。以降フランスでは、日本由来のマガキ種で牡蠣の養殖を行うことが定番となりました。今ではフランス市場に出回る牡蠣の90%以上が日本由来種といわれております。ただ困ったことに、10年周期でフランスの牡蠣が死んでしまう病気に見舞われることでした。その都度宮城から交配用の母貝を取り寄せて、牡蠣養殖を維持してきました。そして、2008年から2011年にかけて、フランスで牡蠣の稚貝が死んでしまう病気が又々流行し、宮城から交配用の母貝(5,000個)をフランスの国立海洋研究所に送る手配が全て完了していた矢先に、あの東日本大震災が襲ったのです。そして世界最強種であるマガキの母貝も全て流されるという悲劇が起こってしまいましたが、幸いにも奇跡的に一部の種牡蠣が見つかったのです。
 フランスでは直ちに2011年4月に大恩に報いるために、「日本の牡蠣を救うプロジェクト」が発足しました。そして、1970年に日本が助けてくれなかったら、今のフランスの牡蠣は存在しない、だから今度はフランス側で出来ることは何でも支援・協力しようとの呼びかけにより、同年6月1日にはフランスによる三陸牡蠣産地支援の「フランスお返し(France-Okaeshi)プロジェクト」が発足したのであります。勿論、ボルドーのアルカションの養殖者たちも積極的な支援に乗り出してくれました。当初、資金面・物資面でいろいろな問題が生じたものの、「フランスお返しプロジェクト」の関係者の努力により、全ての問題は解決され支援体制が整いました。その後、三陸の牡蠣は産卵期を迎え、2011年7月15日までに養殖機材を揃え海に沈めなければ、一番重要となる“種の保存”につながる種生産が間に合わなくなる恐れが出てきてしまったのです。そこで、フランスには存在しない日本独特の牡蠣養殖用の機材をフランスの関係者全員が一丸となって休日返上で探し求め、最終的に10トンもの重さになりましたが、時間的に間に合わないことを知り空輸でもって三陸の牡蠣産地まで届けてくださったのです。この機材は“種の保存”の大きな礎となり、遠くフランスから応援してくれているという事実そのものが、何よりも被災地の牡蠣生産者の大きな励みとなり、再興へのモチベーションが高まったといわれております。今や国家レベルの日仏交流をはかるべく、両国の関係者が日夜努力されております。こうして、世界の宝でもある、三陸牡蠣が辛うじて守られました。フランスの三陸牡蠣への感謝の思い、そして両国の牡蠣への愛が実ったのです。今後は三陸牡蠣が元の水準まで一刻も早く戻りますことを心からお祈り申し上げます。(「フランスお返しプロジェクト」がTVで紹介されました:http://www.youtube.com/watch?v=fdMC0jGuA9Y
 シャブリのワインの話をするつもりが、後半は牡蠣の話に終始してしまいましたが、日仏両国の大変心の籠った友好の証として皆様に知っていただきたくご紹介いたしました。  
 次回は日本の葡萄酒の黎明期に、遥かフランス・トロワの地で醸造を学んだ高野正誠と土屋助次郎の2人の足跡を辿ってみたいと思います。


 


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