本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
- オリエント急行とシャンパン - ![]() Orient Express |
![]() 私たちは<オリエント急行>と聞くと、これ程航空機が発達し、凄まじい勢いで自動車が普及した今日でも、昔ながらの列車という乗物に鉄道ファンのみならず一般の人たちにも特別な愛着と憧れを感じるのは何故でしょうか。特に、交通通信の未発達な一昔前のヨーロッパ人にとっては、オリエントは、言語、風俗、風土、宗教などあらゆる面で正にアラビアン・ナイト的なエキゾチックな世界に映っていたのでしょう。<オリエント急行>は、誰もが一生に一度は乗ってみたいと夢見る列車なのです。さあ、それでは早速に物語を始めることにいたしましょう。 <オリエント急行>が誕生したのは、今から130年程も前、日本では未だ東海道本線 ![]() ![]() 出発後数分も経たないうちに、チーフ・ウエイターの言葉を耳にします。「ご乗車のみなさん、お食事のご用意ができました・・・」と。まず第一回目の食事のテーブルにつく24名の乗客が食堂車に案内されました。食堂車の中は・・・いや、それはもはや食堂車というよりは夢のレストランそのものでした。天井はコルドバ皮の打ち出し張り、壁にはゴブラン織りのタピスリー、カーテンの材質はジェノヴァのビロード・・・信じられないほど ![]() ここに<オリエント急行>の標準的なメニューの一例を挙げておきましょう:タピオカのポタージュ、オリーブの実、バター添え、鱸のオランデーズ・ソース、ポテト添え、羊の股肉ブルターニュ風、ル・マン特産の若鶏クレソン風味、ほうれん草の甘煮、チーズ各種、果物のタルト(1884年12月6日のディナーから)。正に美味なる豪華な料理が次から次に運ばれてきます。当時どのような銘柄のシャンパン、ワインが供されていたかは残念ながら分かりませんが、ボルドーやブルゴーニュをはじめすばらしい銘酒の数々がテーブルを彩り賑わしたことでしょう。今回皆様の旅のお供をするシャンパン「Lechère 1er Cru Orient Express(ルシェール・1級・オリエント・エクスプレス)」は、1982 ![]() 当時の<オリエント急行>のWAGON-LIT社の社長、ナゲルマケールス(ベルギー人)はなかなか演出の機微を心得た人物だったようで、料理のメニューにも沿線の名物や郷土色を取り入れて毎日の食事に変化を添えることを考えたようです。目に映る景色が変わるにつれて胃袋の中に入るものも変わるという、これも又それまでにはなかったアイデアであったのです。 さて、食事が終りました。人々は席を立ち、ある者はソファに座ってコニャックやポートを片手に食後のシガーの一服を楽しみ、またある者はデッキへ出て涼しい夜風にあたって酔いをさましたことでしょう。そして、夜も更けるころになると、三々五々と各自の寝室に入り、ふかふかのベッドの中に滑り込んだの ![]() ところで、<オリエント急行>というと誰もがまず思い出すのが、アガサ・クリスティーの名作ミステリー、『オリエント急行殺人事件』でしょう。この小説は、極めて古典的な探偵小説の常道を踏んで、彼女のお気に入りの名探偵エルキュール・ポワロが、“豪雪に閉じ込められたオリエント急行”を、外界から隔離された一団の人々とその中に含まれている犯人、という状況の設定を利用してその密室トリックを鮮やかに解いてみせましたが、この設定はクリスティーの純粋な想像力の産物ではなかったようです。実際に、<オリエント急行>は雪の中で立往生したことがあったからです。尤も、そこで繰り広げられた事件は殺人事件ではなく、悲劇的ではあったがコミカルでもあったようですが・・・。この英国の若き女流作家が小アジアへの旅にでた時に、この<オリエント急行>に偶然乗っていたのです。アガサという名の作家は、夫君のアーチボールド・クリスティーとの結婚生活がうまくいかず、離婚したのち、考古学に興味をもって東洋への旅を思い立ちます。そして古代遺跡の発掘の現場で次の夫となるマックス・マローウァンという考古学者と巡り会うことになります。こうして、アガサ・クリスティーにとって、<オリエント急行>は忘れ得ぬ列車となったのです。彼女はその後何十回もこの列車に乗っています。あのミステリーの傑作のすばらしいディーテイルは実際の旅の賜物だったのでしょう。アガサ・クリスティーはこうも言っています。「結婚するなら考古学者がよい。年を経て古くなればなるほど愛してくれるから」と。何か銘醸ワインの古酒のようですね。 ![]() ![]() <オリエント急行>にまつわる伝説神話エピソードは数限りなくありました。それは当時のいわば動く世界博覧会でもあったわけですから、別に不思議なことではなかったのです。政治家や、外交官や、財界人が、芸術家や、社交界の花形と出会いそして別れる、国際的な舞台であった<オリエント急行>は、常にヨーロッパの歴史の証人でもあったのです。当時の鉄道地図を見ると、<オリエント急行>の路線がヨーロッパの全域にクモの巣のように張り巡らされていることは一目で見てとれます。<オリエント急行>は、正に社交界そして小説や映画の格好の舞台になっていったのです。 <オリエント急行>は、単一の路線を結ぶひとつの急行の名前だけではなく、この同じ<オリエント急行>の名前のもとに、幾多の路線をワゴン・リ(寝台列車)は走っていたのです。1889年以来欧州大陸をわがもののように走りはじめた<オリエント急行>は、その後ドナウ河に沿った道を、トランスシルバニアの平原を走る道を、あるいはアルプスの南ないし北の道を、またチロルを貫く道を、縦横無尽に走るようになっていました。そうして走っているうちに、ある国の名は消えてなくなり、代わりに新しい国ができたりもしたように、歴史は刻々とその姿を変えていきました。 その後の<オリエント急行>の栄光に満ちた歴史は常にワゴン・リ社と共にありました。第一次世界大戦、第二次世界大戦の戦火をくぐり抜けながらも<オリエント急行>とワゴン・リ社とは<オリエント急行>の名において、世界最上級の列車の旅を提供し続けました。しかしながら栄枯盛衰のたとえのとおり、この名門列車にも終焉の日が訪れました。<オリエント急行>を廃止に追い込んだのは戦争ではなく、実は戦争によって飛躍的に発達した航空機だったのです。かくて、 ![]() ここで漸くシャンパンの話に辿り着きました。その復活した記念すべき19 ![]() 読者の皆様には、シャンパンを味わっていただくこともできずに拙文の表現だけで申訳ありませんでした。でも、超豪華列車<オリエント急行>に乗車し、シャンパンを飲んだ積りになって少しでも旅した気分になれましたら筆者としては誠に嬉しい限りです。 最後になりましたが、私の大好きな作家、須賀敦子さんの著書『ヴェネツィアの宿』の中に<オリエント・エクスプレス>に関する名文(ここをクリックしてください)がありますのでご紹介させていただき、この稿を終わることにします。 |
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なお、この3月には懐かしのボルドーとスペインを旅してきますので、誠に勝手ながら駄文《ボルドー便り》の3月号は休みとさせていただきます。申訳ございません。今回の旅については次号以降順次掲載していく積りです。どうぞご期待ください。 |
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