本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

シャトー訪問記(その27)―リュル・サリュース伯爵


<シャトー・ド・ファルグ>

 この3月に、9年振りで懐かしのボルドーそしてバスク地方(ビアリッツ、サン・ジャン・ド・リュズ、サン・セバスティアン)を経由してスペイン(マドリード、トレド)への1500キロに亘る車の旅とマドリードからバルセロまでの高速列車(AVE)の旅を妻とスペインの友、キロスさん(日本古来の言霊研究者、パリ高等研究院(博士課程))と共に楽しみました。
 成田からパリへはほぼ定刻通りだったのですが、その日パリは吹雪で、ボルドーへの乗継便エール・フランス機の出発が翼についた氷結を落とすため大幅に遅れ、ボルドーへ到着した時は夜中近くになってしまいました。でも、マドリードから一足早くボルドーへ着いていたキロスさんが車で迎えにきてくれたお蔭で、ボルドーの中心街にある今宵の宿「オテル・ブルディガラ」へと安心して向かうことができました。途中光に浮かび上がった深夜のボルドーの街はやはり大変懐かしく、翌日の散策が大いに楽しみになりました。
 翌朝、時差ボケの眠い中を早速ボルドーの街に繰り出しました。私がボルドーの醸造学部に留学していた2003年~2004年当時の煤けた18世紀の石造りの建物は、全て表面が削られて見違えるように白く、美しく様変わりしており吃驚しました。当時はトラムウエの工事で道が掘り返されていましたが、それも綺麗になり新型のトラムウエが颯爽と街中を走っています。さすが2007年に世界遺産に登録された街だけあって、見事に生まれ変わっておりました。
 今回の旅の最大のイベントであるソーテルヌの《シャトー・ド・ファルグ》へ昼前に出発しなければならないため、留学当時に何度も通って目をつぶっていても歩ける程の馴染のガンベッタ広場からノートル・ダム教会、ランタンダンス通り、グラン・テアトル(大劇場)を大急ぎで眺め、カンコンス広場のジロンド記念碑を見渡せる、大劇場前のカフェでカフェ・オ・レを一杯。店の親父は相変わらず元気で忙しそうに店内を駆け回っていました。その後サント・カトリーヌ通りに立ち寄って、パサージュの中の馴染の床屋さんを訪ねるも他の店に変わっていたのは残念でした。久し振りに粋なご主人との再会を楽しみにしていたのですが・・・、果たしてお元気なのだろうか。それからサン・タンドレ大聖堂(1998年世界遺産)へ行く。ここも何度訪れたことか。復活祭の時には司教と握手をし、お言葉をかけていただいたのも良き思い出のひとつです。大聖堂前からホテルまでトラムウエに乗りました。乗り心地は良く、快適です。
 何もかもボルドーの街は懐かしい!58歳から還暦を迎えるまでの2年の歳月をボルドーで過ごして以来、私の人生においてフランスという国とフランスで出会った若き友たちそして大好きなフランス・ワインが果たしてきた役割はとても大きかったように思います。そして老後の人生の魅力的な過ごし方も教えてくれたように思うのです。第2の故郷、ボルドーに只管感謝!
 短時間で一通りボルドーの街を駆け巡り、ホテルに戻ってソーテルヌの《シャトー・ド・ファルグ》に向かっていざ出発です。今宵はボルドーで一番美しくなったといわれる、光に照らされたブルス証券取引所前広場をガロンヌ河の対岸から眺められるレストラン「レスタカード」での夕食が楽しみになってきます。
 実は、今回の《シャトー・ド・ファルグ》の訪問について、当主のアレクサンドル・ド・リュル・サリュース伯爵(1934-)へお手紙を差し上げましたところ、思ってもいなかった昼餐へのうれしい招待状が舞い込んできたのです。ワイン愛好家にとっては近寄りがたい神様のような存在の今や伝説的御仁ですので、このまさかのご招待には本当に驚くと共に狂喜いたしました。私にとっては正に夢のようなお話です。伯爵とは12年前に東京で初めてお会いして、爾来毎年クリスマスと新年のご挨拶を兼ねて近況を手紙に認めお送りしていましたが、伯爵からも新年のご挨拶状と共に毎回自筆のお手紙が添えられていました。何年か前からそのお手紙にはvous(あなた)でなくà Saburoと書いていただけるようになり、一人の友人として認めてくださったと喜んだものです(ボルドー便りvol.57)。今回は伯爵にお会いできるだけでも光栄ですのに、その上私のような一介のワイン愛好家を何故昼餐に招いてくださるのか不思議な思いに駆られました。そのわけは昼餐の席での伯爵のお言葉から拝察することができました。このことは後程述べます。
 それでは、ボルドーの中心地から南へ車で1時間ほどのところにあるソーテルヌ地区をご案内いたしましょう。ガロンヌ河支流のシロン川を渡るとやがて小さな谷と丘陵が広がる中に、数百年の歴史が醸し出す神秘的な雰囲気をもったロマンティックな村々が見えてきます。この地区こそはボルドーにあって、宝石でも埋めこまれたように世界中から喝采をもって迎えられている甘美な貴腐ワインの生誕地なのです。目指すシャトーを見つけ出すまでには大分道に迷うだろうと思っていましたが、キロスさんの勘が見事に的中し、一遍で大きな城塞が聳え立つ《シャトー・ド・ファルグ》を見つけることができました。
予定より10数分早い到着です。長い松並木を抜けるといよいよシャトーです。1306年に建立されたというフランスの歴史的建造物に指定されている大きな城塞を仰ぎ見つつ、これから雲の上の御仁であり憧れのアレクサンドル・ド・リュル・サリュース伯爵にお会いすると思うと胸が高鳴り緊張が走ります。お会いした時のご挨拶の言葉を口の中でつぶやきます。シャトーの受付で秘書のお嬢さんが出迎えてくださいました。間もなく伯爵と初めてお会いする背の高い副社長(ウード・ドルレアン公(フランスの王位継承者オルレアン家の一員))がにこやかにお出ましになられました。伯爵は妻と私を優しく抱擁してくださいました。これで緊張していた気持ちが一遍にほぐれました。驚くことには、これから伯爵とオルレアン公は昼餐を挟んで4時間以上もの長い間ずっと私たちにお付き合いくださったのです。


 人は一生のうちに何度か至福の瞬間に出合う時があると思います。心身ともにこれこそが至福の瞬間だと心に刻みつけておける感動があるとすれば、この《シャトー・ド・ファルグ》でリュル・サリュース伯爵とオルレアン公と過ごした一時であった思います。
 先ずは、地下の塵ひとつ落ちていない清潔な酒蔵(カーヴ)に案内され、伯爵自ら甘露な貴腐ワイン《シャトー・ド・ファルグ》ができるまでを葡萄の写真を見せながら、懇切丁寧に説明してくださいました。カーヴの中は寒く、伯爵もオルレアン公も防寒コートに身をつつんでいらっしゃいました。私が12年前に初めて伯爵にお手紙を差し上げた時、<シャトー・ディケム>(当時、伯爵は<ディケム>の当主でもありました)で葡萄の収穫作業をさせていただけないかと不躾なお願いをしたのを憶えております。伯爵からのご返事は、「大変熟練した摘み手が収穫作業を行うために残念ながらあなたの願いを叶えることはできませんが、訪問は大歓迎します。その際はいかにして貴腐ワインがつくられ、どんな複雑な作業であるかをご説明しましょう」と書かれておりました。正に今、伯爵は私に12年前の約束を実現してくださったのです。
 葡萄樹には十分な手間をかけ、畑では化学肥料を使わずに動物の厩肥のみで、冬季剪定は短く行い、春から初夏にかけて過剰な脇枝や葉は切り取り、房も制限します。こうして1本の樹につく果実が限定されてこそ、葡萄の樹はその全エネルギーとエッセンスを残された果実に凝縮することができるのです。収穫時期には特別な訓練を受けた摘み手が慎重に丁度良く熟し切って貴腐状態(葡萄の果皮にボトリティス・シネレア(貴腐菌)がつき、水分が抜けて糖度が高まる)になった葡萄の実だけをひとつひとつ探します。文字通り粒を選り分けて摘むため、収穫が2か月も続くことがあるそうです。そして、貴腐葡萄と灰色かび病に冒された葡萄を区別する技術を身につけるには、何年もの歳月が掛かるとのこと。そして、どの粒が今収穫されるべきで、どの粒は次の収穫に残しておくべきなのか、これを判別するのも難しそうです。そのため伯爵は大きな写真を持ってきて、特に妻に対して、この葡萄の実は貴腐葡萄、そしてこの実は病に冒された葡萄なので取り除いて使いませんと、丁寧にご説明してくださいました。成程、《ファルグ》の葡萄樹1本からワイングラス3分の2杯分しかならないことに納得がいきました(<ディケム>のそれはワイングラス1杯分ですので、《ファルグ》がより厳しい選果をしていることがよく分かります)。葡萄樹の平均樹齢は35年、発酵と3年以上の熟成はオークの新樽で行います。清澄はするが濾過はしないそうです。カーヴには整然と年代毎にオークの大樽が横たわり、静かに出番を待っている様子は壮観としかいいようがありません。伯爵は1時間ほどかけて望み得る最も優雅な話し方で私たちに貴腐ワインの出来るまでをご紹介してくださったと思っています。
 因みに、《シャトー・ド・ファルグ》が、リュル・サリュース家の所有地となったのは、今から550年近く昔の1472年(日本では室町時代)のことでした。そして《ファルグ》に加えて1785年には<シャトー・ディケム>も同家の手に移りました。また一時期シャトー・フィローやシャトー・ド・マル等も所有していましたので、ソーテルヌはリュル・サリュース家の威光によって成り立っていたといっても過言ではないでしょう。爾来リュル・サリュース家はボルドー・ワイン界のヒエラルキーの頂点に君臨する名門中の名門として今日に至っています。リュル・サリュース家自体の歴史は1409年まで遡れる由緒ある武家貴族であって、軍功によって爵位を得た家柄です。このようにボルドーには貴族の旧家の家系が今なお実在して農民とカトリックの伝統を受け継いでいます。
 次回はいよいよ伯爵のお住まいに招かれて、《シャトー・ド・ファルグ2001年、2008年》と美味なる料理とのマリアージュを楽しみながら、2時間余に亘る昼餐の模様をお伝えしようと思います。この昼餐を催してくださった部屋こそは、1999年の初頭に多国籍企業のLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)グループの総帥ベルナール・アルノーがパリから専用機に乗り込みボルドーへと飛び、リムジンに乗り換えて《シャトー・ド・ファルグ》に馳せ参じ、リュル・サリュース伯爵と二人きりで秘密裡にソーテルヌの宝石、<シャトー・ディケム>の行く末につき話し合った歴史的な会談場所であったのではと思われます。


 


上のをクリックすると写真がスライドします。