本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

シャトー訪問記(その33)


<シャトー・コス・デストゥルネル(Château Cos d'Estournel)>
 ジロンド河を北上し、ボルドーはオー・メドックの最果てに進んでいきますと、サン・テステーフの村があります。ここに至るまでは前回述べましたように、シャトー・マルゴー、ラトゥール、ムートン・ロートシルトそしてラフィット・ロートシルト等々、ボルドーの偉大なシャトーを通り抜けてきました。1855年の格付け第1級の5つのシャトーの内4つ全てを眺めてきたことになります(あとの一つはボルドー・グラーヴ地区のシャトー・オー・ブリオンです)。
 いよいよ今回の旅の目的地のひとつ、シャトー・コス・デストゥルネル(Château Cos d'Estournel)を訪ねます。この「コス(Cos)」とは古いガスコーニュ語で「小玉石のある丘」という意味ですが、この丘は、南の低湿地帯から20メートルほどの高さまで盛り上り、それをブリュイユという名の小川が対岸の偉大な隣人ラフィットを分けています。この小川を渡ると、登り坂の上に人目を惹くパゴダのような異観の殿堂が突如姿を現します。ここは今までに何度訪ねたことでしょうか。懐かしさが募ります。
 特に、今回の訪問はそこに至るまでに、あるドラマがあったのです。それは2000年に東京でシャトー・コス・デストゥルネルの総支配人をされていたジャン・ギョーム・プラッツご夫妻にお会いし、爾来13年に亘り麗しいプラッツ夫人と手紙の交換をしてまいりました。 お互いの近況やその年のワインの出来等について語り合いながら。彼女はいつも直筆で、男のような(失礼!)大きなしっかりとした字でレター・ペーパー一面にびっしりと書いて送ってくださいます。毎回その手紙を読むのを楽しみにしていました。ところが、昨年、クリスマス・カードと共に春にシャトーを訪問したい旨を手紙に書いて送りしましたところ、衝撃的な手紙を受け取ってしまったのです。ワイン界では大変な話題になりましたので、愛好家の皆様にはご存知のお方も多いかと思います。その手紙には総支配人をしておられたご主人が今年1月4日にその職を辞して、あの有名なLVMH(モエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン)社のワイン部門の最高経営責任者(CEO)に迎えられるという内容でした。私は初めてそのことを知り吃驚仰天してしまいました。ご夫人からは、久し振りにシャトーを訪問してくださるのにお会いできずに誠に申訳ありませんとのお詫びと共に、あなた方が訪問する旨を後任者に確実に伝えてお願いしておきますので訪問日時が確定したら連絡してくださいと。そこには後任者のお名前とメール・アドレスそして電話番号まで付してあり恐縮してしまいました。そして美しくなったボルドー市街を是非ご覧になってくださいとも。その後もご夫人とは何回も手紙とメールのやり取りがありました。私はこの親切な一連の手紙とメールのやり取りにすっかり感謝感激してしまいました。それは今日しばしば忘れがちになる人間本来の優しさに心を打たれたのです。リュル・サリュース伯爵と同じように、フランス人の思い遣りと善意そして親愛をそこに感じたからです。うれしかったですね。(私からのシャトー宛の手紙は全てプラッツ夫人へちゃんと回送されておりました)。
 私たちがボルドーを訪問した3月には、ご主人は既にパリに赴任され、残念ながらご夫人はお子さん3人と丁度春休みで父君のいらっしゃるスイスへ出掛けており、結果的にはお会いすることは叶いませんでした。でも、今回は人種、国は変われども人情のありがたさをしみじみ感じる旅となりました。
 驚きと感激のあまり前置きが少々長くなりましたので、本題のシャトーの話に入ります。この1855年の格付けで第2級の栄誉を受けたシャトー・コス・デストゥルネルの現在の栄光は、19世紀に登場したルイ・ガスパール・デストゥルネルという御仁の先見の明によるところが大でした。 大変な資産家で、その財力に任せてアラブ馬と世界旅行に情熱をもやしてきた人物でもあります(vol.36をご参照ください)。帰国後は何故かサン・テステーフ村に腰を落ち着け、葡萄栽培をはじめたのですが、誰もがただの道楽だと思ったそうです。まして、彼は、あろうことかボルドーの土地に、ほかでもないシラー種(コート・デュ・ローヌをはじめ南仏で栽培される黒葡萄品種。ボルドー産銘柄赤ワインには絶対に使わない)を植えたとも言い伝えられています。ボルドーのシャトーでは既に、その伝統と格式の高さを誇っていた時代にです。でも、この地のテロワールの特徴を徐々に認識し、1811年から葡萄畑の拡張をはじめ、本来の葡萄品種であるカベルネ・ソーヴィニョン、メルロ、カベルネ・フランの栽培が実を結んで、今日のシャトー発展の礎を築いたのは何と言ってもルイ・ガスパール・デストゥルネルその人でした。彼は品質を重視したワインづくりを推し進める一方で、1830年にはパゴダのある東洋風な雰囲気で、見る人を圧倒するようなシェ(ワイン貯蔵庫)を建設したのでした。しかし、彼の独創性が認められるには、時代はあまりにも早かったようです。異国情緒の粋を集めた建築も当時のボルドーの保守的な人たちには悪趣味としか映らなかったのです。彼が残りの資産全てを投じて生まれたシャトー・コス・デストゥルネルのワインが世に認められた時には、既に一文なしになってしまい、あるのは孤独の死だけだったのです。1853年に失意のうちに息を引き取りました。その2年後の1855年の格付けで、彼のワインが堂々と第2級の栄誉を得ることは知る由もありませんでした。何とも皮肉な話であります。
 ルイ・ガスパール・デストゥルネルの死後、暫くシャトーの所有権は流転し、1917年になってボルドーの名門ジネステ家が買い取りました。その後シャトーには平穏な時期が訪れ、同家が20世紀の大半を所有者としてとどまりました。 1970年になるとジャン・ギョームの父である高名な醸造家ブリューノ・プラッツ(ジネステ家の一族)がオーナーとなり、1988年にメルロー家(タイヤングループ)とアルゼンチンの投資家の手に渡るまで、シャトーの発展に限りなく尽くしました。今日フランスでは株主の家族のメンバーの合意や相続税等の関係で、家族経営のシャトーを存続させることが大変難しくなっているのが現状です。でも、経営権が移っても息子のジャン・ギョーム・プラッツが総支配人として引き続きシャトーを経営するという条件が含まれていました。これを機に父ブリューノ・プラッツはシャトー・コス・デストゥルネルを息子に任せて、シャトー・マルゴーの醸造長ポール・ポンタリエと共同で遥かなるチリの葡萄園(アキタニア・ワイナリー)の可能性に賭けて新たな挑戦をはじめることになります。残りの人生の全てをチリでのワインづくりに注ぐと。私と同年代であることにも大いに惹かれました。
 その後2000年にスイスの実業家ミシェル・レイビエに経営権が移りましたが、ジャン・ギョームが依然として総支配人にとどまり、莫大な設備投資を行ってシャトーを超近代的な施設に生まれ変わらせ、世にスーパー・セカンドとして知られていたワインの品質を更に向上させ、第1級に迫るものとしていきました。そんな中でのジャン・ギョーム・プラッツのLVMH社への転出は、ワイン界を揺るがせる大きな話題となったのです。 彼は今年2月にLVMHグループのモエ・ヘネシーのワイン部門「エステート&ワインズ」の最高経営責任者に正式に就任しました。この部門はカリフォルニアをはじめニュージーランド、オーストラリア、アルゼンチン、スペインにある有力なワイナリーを統括する部門であります。シャトー・コス・デストゥルネルでは大改造計画を成し遂げ、親子二代に亘って考えてきたことは全てやり尽くしたとの思いに至ったのではないかと思います。そして次なる目標として父親がチリのワイナリーで新たに挑戦した如く、新世界のワインに挑んでみたいとの気持ちが沸き起こったのに違いないと推察されますし、私としてはそう思いたい。彼はまだ50歳前の優れた才能を有する経営者であります。今まで培った経験と実績を生かし、新天地での輝かしい成功を祈念してやみません。
 さて、私たちが丘の上にあるシャトー・コス・デストゥルネルに着くと、外は大変寒く、その上寒風が吹きつけます。到着した旨を伝え車の中で待っていると、美しいお嬢さんがやって来られ、シャトー内に招き入れてくださいました。プラッツ夫人からの連絡が万端行き届いており、これから1時間半に亘って懇切丁寧なご案内をしていただきました。コス・デストゥルネルは城郭のようなものはありませんが、 異国情緒に溢れたパゴダのような建物 ― 怪獣の雨水落し(ガーゴイル)と、アフリカ・サンジバルから持ち帰った木彫りの大きな扉と2頭の象の置物によって完結されている ― が、私たちを出迎えてくれました。そしてそのドアを一歩入ると、2008年に完成した最新式の光輝く発酵室が目に飛び込んできます。床は総硬質ガラス張りで、下に樽が整然と並んでいるのを眺めながら進むことができます。これがジャン・ギョーム・プラッツの遺産なのだと思うと感慨深いものがありました。彼が常々「コス・デストゥルネルの特徴は、厳密性と革新性、そして他がやれないことをやる強い意志だ」との言葉が蘇ります。19ℓから115ℓまでの大きさの異なった72基のステンレス・タンクの並ぶ新設の発酵室は壮観で、小区画毎の醸造を論理的に推し進めることを可能にしました。他にも称賛すべき設備が揃っております。例えば、除梗の間の酸化を防ぎ、発酵前低温浸漬を行うための、葡萄の温度を3℃まで下げることのできる冷却トンネル、そして自重式送り込み装置等々。しかし、葡萄を優しく扱う姿勢はここでとどまることはなく、一歩先を進んでいました。それは4基の100ℓ“リフト・タンク”で、伝統的なポンプ・システムを現代的なラック・アンド・リターン・システムに変更するものでした。このようにプラッツ家二代に亘る誇り高き伝統を継承しつつ、コス・デストゥルネルを更なる高みに押し上げ、今やスーパー・セカンド、否、第1級に最も近いといわれるまでにしたのは、まさしくジャン・ギョーム・プラッツの功績と思われます。
 シャトー内を丁寧に案内していただいた後に、高級ホテルと見紛うほどの豪華で広々としたロビーで、待望の<シャトー・コス・デストゥルネル2008年>とセカンドの<レ・パゴド・ド・コス2008年>を、プラッツご夫妻を想い浮かべながらゆっくりとテイスティングさせてもらいました。実は、最近の地質調査で土壌構成が思っていた以上に複雑であり、全部で250種類もの異なった土質であることが判明したそうです。この調査結果はかなり衝撃的なもので、小区画の線引きの修正と管理の在り方の変更を迫るものであったといいます。その結果、テイスティングをした2008年というヴィンテージはボルドーの全般的傾向とは逆に、「栽培方法の見直しと、低く抑えた収量、葡萄品種と台木の入れ替えによって、以前はセカンド・ワイン用の区画であったところをグラン・ヴァンに使うことができることが分かり、結果的に、シャトー・コス・デストゥルネルの割合を従来の55%前後から78%に引き上げることができました」とのこと。今までのシャトー・コス・デストゥルネルといえば、他のワインが羨むほどエレガンスとフィネスをそなえ、サン・テステーフの堅さを芯にもちつつも柔らかなところがあり、熟成が早いワインづくりを特徴としていたのですが、それは常にブレンド中40%という高い比率を占めていたメルロによってもたらされたものでした。ところが2007年から大きな変化がおきました。カベルネ・ソーヴィニョンを60%→85%まで大幅に引き上げたのです。その結果、この<シャトー・コス・デストゥルネル2008年>は、スタイルはより凝縮され、スパイシーになり、より男性的になりました。密度が高く、タンニンは多いけれど見事なバランスをもち、素性の良さがはっきりと感じられました。 「カベルネ・ソーヴィニョンの長所を最大限に生かすためにあらゆることをやっている。そして今後もこの品種が75~85%を占めるようになる」とプラッツ総支配人は話していたとのこと。それゆえ、メルロの大半はセカンドの<レ・パゴド・ド・コス>に回っているらしい。<コス・デストゥルネル>と<レ・パゴド>の違いは明確に感じ取れました。2008年の<レ・パゴド>の滑らかに口の中に流れ込むスタイルは、上質なサン・テステーフに共通した特徴をもっていました。私たちの他は誰もいない広いロビーで、2つのワインをゆっくりと心ゆくまで楽しませて貰いました。プラッツ夫人、ありがとうございました!
 この宮殿のような建物は発酵室をはじめ超近代化された設備の集合体であり、前庭も美しく整備され、すばらしいの一言に尽きます。この大きな変わり様には、あのルイ・ガスパールでさえも驚いていることでしょう。私は初めて大改造後に訪れたシャトーで、突然のまばゆいほどの建築に接した時の衝撃、実に驚きの眩暈のような感覚を生じたものです。でも、私は何故か以前の建物の方にノスタルジーを憶えます。それはこのシャトーに、もうプラッツご夫妻がいない寂しさからでしょうか、それとも夢見る野心家ルイ・ガスパール・デストゥルネルの影が薄らいできたからでしょうか。
 旅から帰国すると、プラッツ夫人からボルドーの街とシャトー・コス・デストゥルネルは如何でしたかとのご丁寧なメールが届いておりました。そこには彼女のボルドーのご自宅の住所と電話番号が新たに記されておりました。シャトーを離れてからもプラッツ夫人とこれまで通り手紙の交換ができることを喜んでおります。シャトー・コス・デストゥルネルの今後の行方についてはおおいに関心があるものの、正直、何か複雑な心境でもあります。


 次回は、メドック最後の訪問地シャトー・ランシュ・バージュをご案内いたします。
 


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