本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

ボルドーからバスク地方(ビアリッツ)の旅


<ビアリッツ(Biarritz)>
 明けましておめでとうございます。この駄文は原田先生の栄えあるHPに徒然なるままに掲載させていただいてから、今年で早や10年目に入りました。感慨深いものがあります。これも偏に原田先生の温かい変わらぬ友情と、そして何よりも読者の皆様のご支援とご愛顧のお蔭と改めて心から感謝と共に御礼申し上げます。今年もどうぞお付き合いの程よろしくお願い申し上げます。
 さて、私たちはボルドーでの最後の夜を過ごすために一路懐かしのホテル、「ヴィクトリア・ガーデン」へ向かいます。ここは私が留学時代に2年間過ごした思い出のホテルです。ちょっと予定の時刻より遅れて到着しました。実は日本で予約をする時に、できればかつて滞在していた同じ部屋(「314号室」)を取って欲しいとメールでお願いしたところ、努力しますが保証はいたしかねますとのつれない返事を受け取りました。でも、当日行ってみると、団体客等で随分混雑しておりましたが、ちゃんと「314号室」を取ってくれていたのには感激しました。
 そもそもこのホテルを留学時代の宿舎に決めるまでにはいろいろと経緯がありました。偶々、駐日フランス大使館の友人の外交官の奥様のご両親様がボルドー大学近くのタランスに住まわれているとの幸運もあって、友人から私の宿舎は両親が見つけるので安心してくださいとのうれしい話が舞い込んできたのです。私は状況が分からないままに、宿舎は葡萄畑の真ん中に見つけて欲しいと注文をつけましたところ、ご両親様曰く、「葡萄畑の真ん中なんて、1週間もすれば飽きてしまいます。とても2年間なぞ住めるわけがありません。それよりもボルドーの街の何処へ行くにも便利なところにしなさい」と。そして学生が多く住むヴィクトワール広場に近い、誠に便利なこの「ヴィクトリア・ガーデン」を探してくださったのであります。ここは長期滞在型ホテルで、キッチンもあり、冷蔵庫やレンジをはじめ調理器具一式と食器類(勿論ワイングラスも)まで全て揃ったワンルーム・マンション(ステュディオ)です。中央に大きな窓があり、部屋の真ん中にはダブルベッドが鎮座しております。大きな浴槽のバスルームもあって、すっかり気に入ってしまいました。勿論、勉強机も整理箪笥も洋服箪笥もTVもあります。直ぐにPCも繋ぐことができました。その日から即刻生活ができるようになっているのです。そして、できるだけ上の階の部屋を希望したところ、その通り最上階の4階(因みに、フランスの階数の呼び方は日本の階数より1階少なくなります。日本でいう1階はレドゥショッセ(rez-de-chaussée)といいますので、日本でいう4階はフランスでは3階です。ですから、「314号室」は4階にあるのです)を取ってくれていました。レストランもサウナもあります。 ホテルは道路から大分奥に入っていますのでとても静かです。その上、滞在が長くなるに従ってある時期までは料金が段階的に割安になるシステムを採用しており、貧乏学生にとっては誠にありがたいところでした。さすが便利で快適ないいホテルを探してくださったと友人のご両親様に只管感謝です。ただ、フランス流のシックなホテルというわけにはいかず、機能重視のアメリカン・スタイルでした。支配人をはじめスタッフは全て女性です。ここで私は最後まで暮らすことになりました。途中ボルドーの生活に慣れてきたので、何処か大学の近辺に部屋を借りようかと思ったのですが、やはり老学徒には少々高くても清潔で安全なホテルが一番いいだろうと思い止まりました。ちょっと無駄話になったかもしれませんが、熟年留学を希望されている方の少しでもご参考になれば幸いです。
 でも、一度だけ危ない目に遭ったことがあります。それは12時を過ぎると道路に面した鉄製の高い門扉が閉ざされてしまいます。滞在初めの頃に友人と飲んで午前様になってしまい、持参のカードを入れれば門扉が開くはずなのに、その場所が分からない。ホテルの前に屯していた学生たちにも助けを求め探して貰ったのですが結局分からず、ついに私はその高い門扉をよじ登ることを決心しました。門扉の上に防犯上の電流でも流れていたら大変な目に遭っていたことでしょう。幸い門扉を無事に乗り越え降りることができました。学生たちは拍手喝采し、私のカバンを投げ入れてくれました。いい学生たちで良かったです。ホテルの玄関は同じカードでわけなく開けることができ、無事に部屋に戻ることができました。翌朝、この時の様子を受付のお嬢さんに語ったところ大笑いされ、「ムッシュ・カネコの冒険」として暫く話題になり冷やかされたものです。この門扉はここにカードを入れるのよと、お嬢さんが実践して見せてくれました。これ以降は遅く帰っても門扉をよじ登らずにすみました。ヤレヤレです。老学徒の独りでの異国生活なんてものは、こんな具合に少しずつ進展していくものだと自分自身に言い聞かせ納得したものです。
 ついでに、もう一つ怖かったことを白状します。それは一足早く帰国される女性の送別会をボルドーの老舗レストラン「ヴュー・ボルドー」で催して、帰りに騎士道精神を発揮し彼女をエスコートして、真夜中にサン・ミシェル・バシリカ大寺院(1998年に世界文化遺産登録)傍のアパルトマンまで送ったことがありました。この周辺は中近東からの移民の多いところで、ボルドー・サン・ジャン駅周辺(殺人事件が起こったばかりでした)と並び治安の極めて悪い場所でした。彼女を送ったあとで、人っ子一人いない真っ暗な夜道をホテルまで歩き続けました。あの時誰か見知らぬ人と出遭ってでもいたらと、あとから考えるとゾッとしました。友人からはよく何事もなく無事に帰れたものだと呆れられたものです。この2つだけがボルドーで怖かったことです。
 懐かしの余り、昔のことを多く語り過ぎてしまいました。今宵の「ヴィクトリア・ガーデン」の話に戻ります。留学時代と同じ「314号室」のドアを懐かしさをもって開けたのですが、大きなダブルベッドも家具の配置もキッチンも全て改装されており、特に床が絨毯からフローリングに変わってしまい、別の部屋に入ったような気持ちになりました。ちょっとがっかりです。でも、あれから10年も経っているのですからしようがないです。ただ、翌朝窓から見た風景は余り変わってなくホッとしました。窓を開けると小鳥の囀り、近くの教会から聞こえる鐘の音は以前と変わらないままでした。だが、残念ながら留学時代の支配人をはじめスタッフも全て変わっておりました。一人くらいは再会できるものと楽しみにしていたのですが・・・、やはり10年ひと昔でありました。
 早速に、ここのキッチン(私は毎日ここで自炊しました)で遅い夕食をつくるため、キロスさんと車で大学近辺のスーパーマーケット「カジノ」へ食材を買い出しに出掛けました。 懐かしい食材が揃っていました。よく食べたズッキーニやエンダイヴや日本で見かけないいろいろな形のトマト等の野菜、肉、サラミ、生ハム、サーモン、チーズや独特の味わいのあるサラダそしてパンを数種類買い揃えました。偶々、今日の昼に「ル・リオン・ドール」で飲んだ<ラ・ダーム・ド・マレスコ>の2009年があったので買ってきました。妻が昔を懐かしんで(留学時に、妻は観光ビザ(3か月滞在)で3度やって来ました)小さなキッチンでいろいろつくりはじめました。遅くまで大いに飲み、食べ、語り合った後に、キロスさんは友人宅に戻りました。明日はいよいよバスク地方です。
 早朝、キロスさんが迎えにきて、「ヴィクトリア・ガーデン」に別れを告げ、バスクへ向けていざ出発です。今回の9年振りのボルドーは、生涯の思い出に残るすばらしい旅になりました。ありがとう!ボルドー!
 ボルドーから高速道路をひた走ります。スペイン行きの大型トラックが頻繁に走る中を時速100~130キロのスピードで追い越していきます。間もなく松林が延々とつづくランド地方に入ります。ここは遠藤周作がボルドーへ向かう汽車の車窓から見た様子を、「黄昏、汽車は、松林と羊歯と喬木とに覆われた曠野(ランド)地帯を喘ぎながらくだっていった。遠く、雨雲をはらんだ空の向うに僅かに洩れる夕日に照りおとされながら、ぼくは獣のように黒々とうずくまっているボルドオの街(後略)」(『フランスの大学生』)と語っています。この高速はトゥルーズとバスクへ行く道に途中で別れますが、南仏へ行くときによく通った道です。松林の間には麦畑やトウモロコシ畑そして夏には黄色の絨毯を敷き詰めたように向日葵が咲き誇ります。これは松林が火災に遭った時に延焼を防ぐためでもあると友に教えて貰ったことを思い出しました。やがて一転俄かにかき曇り、フロントガラスを叩きつけるような猛烈な雨が降り出しましたが、幸いバスク地方に近づくにつれ小雨になりました。窓外には雨に濡れて輝く緑の田園の中に、ゆるやかにうねるバスク独特の風景が見えはじめてきました。ボルドーを出てから3時間ほど走りつづけたでしょうか。途中2回ほどサービス・エリアでコーヒーやサンドイッチを食べながら。今回バスクの旅の目的地のひとつ、ビアリッツ(Biarritz)に到着する頃には薄日が射し、時折美しい青空も顔をのぞかせていました。
 ここでバスク地方についてカンドウ神父(vol.98)の言葉を再び引用しておきます。「わたしの国はフランスでもずっと南のスペイン国境に沿うピレネー山脈の麓にある。名前はバスク地方として知られているが、実はバスクというのはフランスの一地方というよりもピレネー山脈に住むひとつの特権な人種バスク人の国というべきである。地理的にいえば、その大半はスペイン国内に含まれ、他の半分はフランスの圏内にあるという妙な国で、わたしの生まれたのはこのフランス側のバスクである」(『カンドウ全集第一巻』)。カンドウ神父がここでバスクを「国」と表現しているのが何とも面白い。このことは後に触れてみたいと思います。そしてバスクには神父の生まれたサン・ジャン・ピエ・ド・ポールのような“山バスク”とビアリッツのような“海バスク”の2つに分かれます。今回は“山バスク”も訪れたかったのですが、往復だけで2時間ほどかかり、本日中にスペイン・マドリードに到着するのが難しいとのことで諦めて、妻に一度見せたかった“海バスク”の方を選びました。その海岸は冬も温暖な上に崖や奇岩に富み、夏は美しすぎる黄金色のビーチと化し、絶好の避暑地となります。ここは正に20世紀初頭、富裕層に人気を博したリゾート地として発展してきました。「わたしはビアリッツより魅力的ですばらしい場所を知らない」とヴィクトル・ユーゴーは語り、ジャン・コクトーもこの地をこよなく愛したといわれております。今なお、海岸沿いに建ち並ぶホテルやカジノにはベル・エポックの古き良き時代の面影を漂わせています。その中でも海岸沿いにひときわ美しい姿を現しているのが、「オテル・デュ・パレ(Hôtel du Palais)」です。1854年にナポレオン3世(Napoléon Ⅲ,1808-1873)が愛する皇后ウジェニー(Eugénie,1826-1920)のために建てた別荘でしたが、残念ながら1903年に焼失してしまいました。現在は当時のままに復元して堂々たる5つ星ホテルとして生まれ変わっております。リタイアした身には贅沢でとても泊まれそうもないので、せめて中にだけでも入って眺めてみることにしました。さすが伝統と格式あるホテルならではのエレガントさが至るところで見受けられます。ナポレオンとウジェニーの頭文字をあしらった[NE]の装飾文字が目に付きます。そして、目の前に海を臨むレストラン「ラ・ロトンド」に隣接したバー「アンペリアル」でお茶を楽しみました。せめてもの贅沢な一時でした。妻はハーブ・ティー、キロスさんはエスプレッソそして私はカフェ・オレを飲みました。美味しいアーモンド・クランチとオレンジ・ピールのショコラまで付いておりました。それが吃驚するほど安いのです。その辺のカフェで飲むコーヒー代と余り変わりませんでした。年配のバーテンダーのサービスも実に丁寧で優雅でした。いつまでも長居したいと思わせるところです。絶好の穴場スポットですが、今度は果たしていつ来ることができるでしょうか・・・。

 そして、この地方ならではの手工芸品が、独特の風土の中で育まれ伝えられてきました。バスク生まれの逸品をご紹介しましょう。バスクというと誰もが思い浮かべるのはベレー帽ですが、これはナポレオン3世が「ベレー・バスク」と呼んだことからバスクの帽子として世界中に広まりました。でも、バスクはベレー帽だけではないのです。先ずは、見覚えのある、あの鮮やかなストライプ柄(縞柄)といえばバスク織です。ざっくりした優しい風合いが使うたびに手に馴染みます。こんなに潔いくっきりとした縞柄がフランスの一地方のバスクでつくられているのです。布のくっきりとした単純さは、ひょっとするとバスクの家の形にも通じるかもしれません。 因みに、縞の色は職業を表していて、青は漁師、緑は羊飼いを表しているそうです。バスクの布にも種類があって、繊細な織り柄の生地に、黒い線を1本だけ入れたもの、真ん中に3本、両端に2本ずつ、緑と赤の線を入れたりと、パターンもいろいろありますが、最もポピュラーな7本の縞柄は1960年以降に広まった比較的新しい柄とのことです。ルーツは牛のマントで、暑さよけのための布だったそうです。わたしは、この頑丈で真っ直ぐで気取りのない柄がどうもバスク人の気質を表しているよう思えてなりません。妻はお土産用と自分用にビアリッツやサン・ジャン・ド・リュズの有名店で楽しそうにいろいろ買い込んでいました。エスパドリーユはジュート麻の底をもつバスク発祥の日常靴。初めは船乗りが履く靴だったそうです。しかし、今ではシンプルなデザインと機能的なエスパドリーユの魅力はファッション業界で再び見直されているようです。軽やかな履き心地と寛いだリゾート・テイストを醸し出しているからでしょうか。その他バスク陶器もあります。お皿の縁に放射状に描かれた独特のラインと素朴な色づかいに心癒されるものがあります。と書いたところで紙数が尽きてしまいました。食べ物、飲み物については次に訪れるサン・ジャン・ド・リュズとスペイン・バスクのサン・セバスチャンのところでお話しようと思います。
 皆様にとって今年も良い年でありますことをお祈り申し上げます。
 


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