本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
懐かしのバー物語(1)
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銀座の老舗バー《ボルドー》が昨年末に哀しいかな閉店してしまったことは前回で述べた通りです。変転と時の流れのほかに、永遠なものはこの世にはないのでしょう。銀座のバーに輝かしい一時代を築いた《ボルドー》が、せめて建築物だけでも文化遺産として何らかの形で残ることを願ってやみません。 ところで、バー《ボルドー》で見せて貰った昭和2年開店当初の『和洋酒目録ボルドー』に綺羅星の如く載っていたボルドーの銘酒中の銘酒<シャトー・イケーム>、<シャトー・ラツール>、<シャトー・ラフヰット>、<シャトー・マルゴー> ― 当時本場フランスでもなかなか手に入り難かったであろうワインが、何故銀座で入手できたのか不思議でなりませんでした。この機会に調べてみますと、三井物産外国仕入掛りでボルドー葡萄酒を売り出していたことが分りました。「葡萄酒の良品といえばボルドー」といって、日本の一手販売所であることを誇らかに広告する時代が明治21年頃に既に生まれていたのです。これを銀座で売っていた店が現在の銀座4丁目にあった辻屋久米吉と銀座3丁目にあった豊浦松造の両店でした。両店とも相当手広く商売をしていたようで、銀座でボルドーの銘酒を随分と売り捌いていたものと思われます。バー《ボルドー》がこの両店から仕入れていたのかは定かでありませんが、ボルドーの銘醸葡萄酒の数々が銀座に登場していたことは紛れもない事実でした。明治時代の進取の気性に富んだ好奇心旺盛な日本の商社そして商店は天晴れです。 ![]() 赤レンガの外壁にステンドグラスの窓、扉にもステンドグラスが嵌め込まれていました。ここは《ボルドー》と違ってスムーズに扉を開けて入っていけましたが、やはり若輩者の私は一瞬緊張したことを憶えております。中に入ると、カウンターの奥にも大きな立派なステンドグラスが嵌め込まれていました。窓と扉にドイツ製のステンドグラス、カウンターの奥のものは英国製のものだと。壁にはタイルの焼き物を組み合わせた素敵な額も掲げられていました。《ボルドー》とは趣の違う十数坪のこじんまりとしたお店でしたが、それはそれでなかなか味わいのある空間でした。ステンドグラスの放つ色とりどりの光の中に、昭和の初めからこの空間が見つめてきた長い時間と、ここで交わされた沢山の物語がたゆたっているようでありました。 初めて訪れた時は少し早めだったのか、後ろのテーブルに先客が一組いるだけだったよう思います。私はカウンターの丸椅子に座りました。戦前は《ボルドー》と同じく椅子は一切置いていないスタンディング式のバーカウンターだったようです。ここは日本酒は勿論、ビールも置いておりませんでした。何しろ頑固一徹に洋酒だけを出していました。そういったシンプルなスタイルこそが、ここ銀座で本格派バーの独特な雰囲気を醸し出していたように思います。そして《ボルドー》同様にここも女性たちだけのお客はお断りでした。 ![]() 当時《サンスーシー》の2代目のマダムは着物姿の似合う綺麗なお方(初代の養女西川と志)で、若輩者の私の話に丁寧に耳を傾けていただき、時にはいろいろ相談にも乗ってくださったように思います。そのマダムのお話によると、昭和4年に《サンスーシー》が開店した時の初代オーナー兼マダムは明治時代にフェリス女学院を卒業された才女で、横浜の西川ピアノという会社の御曹司と結婚(後に夫と死別)した西川千代というお方とのこと。清楚で上品な女性だったそうです。 ![]() 寿屋が日本最初の本格的国産ウイスキーを発売し、洋画のトーキーが初めて上陸し、巷では♪昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて あけりゃダンサーの 涙雨♪と西条八十の作詞で有名な、私も子供の頃に聞いたことのある「東京行進曲」がヒットした昭和4年、この当時の世相とは正にこんな雰囲気だったのでありましょう。因みに、翌昭和5年(1930年)3月に、銀座は1丁目から8丁目までの、いわゆる“銀座8丁”に統合されました。ここに尾張町、竹川町、出雲町などの歴史的な町名は消えてしまったのです。 《ボルドー》といい、《サンスーシー》といい、紳士たちに混じって当時の若者も大切にされ、誠に居心地の良いバー ― 洗練された女性オーナーの魅力とバーテンダーの技量を売りものとした本格派のバーが銀座に次々に生まれていったのです。《ルパン》(昭和3年開店)も然りです。こうして昭和初めに女性の手で“格”のあるバーが銀座でつくられたということは大変興味深いことです。でも悲しいかな《サンスーシー》も「交詢社」ビルの改築と共に姿を消し、《ボルドー》も昨年末に閉店してしまい、私が通っていたバーで現存するのは《ルパン》だけになってしまいました。 ![]() ここで銀座を語る上で欠かせない、《サンスーシー》が入居していた「交詢社」ビルについて少し述べていきたいと思います。そもそも「交詢社」とは福沢諭吉が明治13年につくった日本最古の社交クラブです。「知識を交換し世務を諮詢する」ことを目的とし、「交詢社」という名称をそこから付けました。 ![]() ![]() “最後の晩餐会”当日は「交詢社クラブ」のバーでアペリティフを飲みながら歓談し、あの風格ある大食堂でワインを傾けながら大変お元気なご様子で談論風発され、晩餐の楽しい一時は瞬く間に過ぎ去っていきました。命があれば又催しようと言われておりましたのに・・・、無常にも昨年夏にお亡くなりになりました。私にとって「交詢社」は悲しくも大変思い出に残る場所となってしまいました。 故人のご遺言により、葬儀はごく親しい人たちと教会関係者だけの限られた少人数で、しめやかに且つ厳かに祈りが執り行われていきました。そして“末期の水”は、私がご遺族から大役を仰せつかり、棺を開けて<シャトー・ディケム1993年>で口元を濡らさせていただきました。わが人生は素晴らしかった、もう十分とのお声が聞こえてくるような、穏やかないいお顔をされておりました。とても清々しい最期でありました。「前夜の祈り」にご参列いただいた皆様と故人の在りし日を偲び、ご希望通りワインを共に傾けながら語り合いお見送りいたしました。華麗なる経歴を有する御仁が、ご自身の終焉の姿までしっかりと思い描き淡々と去って行かれました。生まれる時も一年かけて生まれるけれど、死ぬ時もそれに近い幅がある、との言葉をふっと思い出しました。誠に寂しい限りですが、堂々たる人生であったと崇敬いたします。私にとっては経営者というより、むしろ文化人、国際人として謦咳に接したという印象が強く残っております。果たして天上の楽園でこの拙文をどう思われているでしょうか・・・、苦笑されておられるかもしれません。安らかなお眠りを心からお祈り申し上げます。 ![]() |
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