本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
- 余話のまたまた余話<ワイン会と西馬音内盆踊り(4)> - <川上貞奴> |
あけましておめでとうございます。 本年も駄文《ボルドー便り》をよろしくお願い申し上げます。 さて、前回は西馬音内盆踊りとイサドラ・ダンカンについて述べてきましたが、折角の機会ですので、イサドラをもう少し眺めてみたいと思います。 著書『わが生涯』の冒頭で彼女はこう述べています。「子供の性格は、その子が母親の胎内にいる時からすでにはっきりとするものである。私が生まれる前に、母は精神的に苦しみ、悲惨な状態におかれていた。彼女は氷で冷やした生牡蠣とシャンパンしか喉を通らなかった。もし人が私に、いつごろから舞踊をはじめたのかと尋ねられたら、私は母の胎内にいる時から、たぶん、生牡蠣とシャンパン ― いずれもアフロディテ(愛と美の女神)の食物 ― のせいで、と答えるだろう」とあります。 ここにイサドラと日本演劇に関する興味深いエピソードがありますのでご紹介したいと思います。当時(1900年、明治33年)パリではちょうど万国博覧会が開催されていました。そこで、イサドラは、日本人である川上貞奴(1871-1946、東京都出身、当時29歳)の舞台を見ているのです。そしてうれしいことには、イサドラが貞奴の踊りを絶賛しています。イサドラは、バレエは機械的なもので、芸術ではない、ほんとうの舞踊はもっと自然で美しくあるべきだと論じて、バレエを否定しつづけていたことは前回述べた通りです。真の舞踊を求め、研究しつづけてきた感性の鋭い、本物を見極める目をもったイサドラが、貞奴の踊りを芸術として認めたことは大変興味の惹かれるところです。博覧会会場の入口付近に設けられたロイ・フラー館の前に大きな立て看板《Sada Yacco de la Troupe Kawakami》を掲げた劇場に、イサドラは貞奴の舞踊を見るために毎晩通ったといいます。イサドラは回想録の中で次のように記しています。「1900年の博覧会での一大印象は、日本の悲劇舞踊家川上貞奴であった。毎晩シャルル・アレと私はこの偉大な悲劇役者の驚異すべき芸術に吸い込まれていった」と。そしてイサドラは「私は日本の踊り以外はいかなる踊りも好きではありません」とまで言い切っています。 貞奴を看板女優とする川上音二郎一座の公演が、博覧会で如何に人気を呼んでいたのか。アメリカ、イギリスの海外遠征公演の旅に出ていた音二郎一座の評判はパリにまで届いていたのです。その評判を聞きつけたロイ・フラーが博覧会での公演を依頼してきました。ロイ・フラーは当時ヨーロッパの電気仕掛けの舞台で一世を風靡した舞踊家であり、興行師でもあって、パリ万博の会場に劇場をもっていました。この音二郎一座の歌舞伎もどきの芝居は、日本の伝統芸能である歌舞伎を汚すものとして、日本では全く評価されなかったものの海外では大受けだったのです。川上音二郎(1864-1911、福岡県出身)は大変機転の利く人だったようで、外国人にも分かるように、言葉より東洋的な身振りを重視し、彼らの好きな腹切りの場面をふんだんに盛り込みました。フランスは当時、文化的な影響は世界一といってもよかったわけで、とりわけヨーロッパの中でも「日本の美」に対して敏感な文化圏だったのです。特に、明治以降に動き始めた国際交流の中で、欧米では「ゲイシャ」という身分の女性に対する関心が高まっている頃でした。とりわけ「ゲイシャ」の服飾に人々は熱い眼差しを投げかけたのでした。芸者が花魁(おいらん)の着物を着用するといった服飾上の混乱、濫用も、ことさら華美な服装を用いることで日本の織物の高さを示すと共に、欧米人の美的感性を歓喜するための工夫だったように思われてなりません。それは日本語の「着物(kimono)」,「娘(Musumée)」、「芸者(Ghésha)」がフランス語に定着していく時代でもありました。同時期にオペラ『蝶々夫人』などに代表されるジャポニズム演劇への高まりをみせていた頃だったのも効を奏したのでしょう。特に、パリではジャポニズムとアールヌーヴォの絶頂期に重なるという偶然に巡り合ったのです。だが必ずしも、音二郎一座の公演成功はジャポニズムのみによるものではなく、当時欧米を席巻し始めていたモダニズムとの共通性から考えていかないと見間違うかもしれません。物語性を排し、言葉としての文学、音としての音楽、色や線、面としての造形を思考したモダニストの眼差しが日本語の台詞や日本文化を離れた地点で、一個の身体的表現者貞奴を成立させたという側面は看過し得ないように思われます。確かに、歌舞伎と比べたら川上音二郎一座の芝居は稚拙だったのかもしれませんが、パリの人たちは、この斬新な舞台と貞奴の美しさに歓喜をもって迎え絶賛したのであります。 華美な花魁の着物を着て踊る貞奴とは対照的に、シンプルなチュニックというギリシャ風の衣装を纏って踊るイサドラが何故にこの踊りに惹かれたのか。恐らく着物以上に貞奴の内面からほとばしる手や指や腰の動きの表現に魅せられたのではないでしょうか。イサドラは、バレエにない日本舞踊の静かな動きの中に秘めた情念の踊りに感動したのでしょう。つまり、イサドラの踊りも貞奴の踊りも“魂の叫び”ということで一致していたのだと思います。このことはまさに「西馬音内盆踊り」にも通じるものです。だから、イサドラは、日本の舞踊だけは芸術として認めたのでしょう。それまでイサドラはどちらかというと自然に任せて踊るだけでしたが、この頃に自分の踊りを確立することになります。つまり舞踊の源泉は、背中ではなく心であると悟ったのです。貞奴の踊りに多分に感化されたのかもしれません。 音二郎一座の公演は、7月4日の初日から10月15日までの123日間、休まずに行われたことからも、その人気ぶりが伺われます。因みに、演し物のメインは『芸者と武士(La Ghésha et le Chevalier)』で、何と期間中に218回も演じられたと当時の記録に残っております。芸術にとって重要なことは、「伝統」や「正当性」を頑なに護ることではなく、作者の意匠を、形式や技法に拘らずに作品に注ぎ込むことだと考えたのでしょう。だからイサドラをして熱狂させたのであろうと想像できます。そして観客の嗜好や反応に機敏に応えることだということを音二郎はしっかりと理解していたのだと思います。『芸者と武士』といういわば一見陳腐なタイトルも欧米人に分かりやすく、かつ興味を惹くようにという意図があったものと思われます。それは「芸者」と「武士」が当時の欧米人の興味を惹く大きな要素だったからです。 イサドラが見た貞奴の踊りとは『芸者と武士』の中で出てくる道成寺の場面の舞いであったのかもしれません。清姫が狂って変身するところを描いたピカソのスケッチがあることからも想像がつきます。まだ無名だった頃のピカソがイサドラと同じ会場で、貞奴からインスピレーションを受けていたことはまさに大きな驚きであります。ウイーン分離派のクリムトやクレーなど数々の芸術家も、貞奴に影響を受けたと言われております。 作家のアンドレ・ジッドは貞奴の舞台に5回も足を運んで、その感想を手紙に認めています。「・・・この場で3度重ね着した薄い衣装を脱いで変身する貞奴は実に見事です。すぐあとで彼女の狼藉が引き起こした混乱の中に、蒼白な、着物をはだけ、髪を振り乱した彼女が目をつり上げて再び現れた時は更に見事でした」とあります。 また、彫刻家のロダンは、こんな会話をしていたことが『ロダンの言葉抄』の中で記されています。「あなた方はあの日本の女を見ましたか」、「あれは芸術というよりも、むしろ写真ですわ」、「お待ちなさい!間違えてはいけません。私はあなたの言う意味は解ります。けれども、日本人の美しい魚、美しい花は、あれも生きた写真です。お気をつけなさい!あなた方はあの芸術を会得しない人たちの誤謬に陥ります。もう一度サダヤッコをご覧なさい。よくご覧なさい。まあ、あれは余りに外国的です。あなたがたの芸術にさほど近くない芸術です」と評しているのです。そして、ロダンは貞奴に魅了され、彼女の彫刻をつくりたいと申し出たが、貞奴はロダンの名声を知らず、時間がないとの理由で断ったというエピソードが残されています。当時の大統領エミール・ルーベが官邸で催した園遊会にも招かれ、そこで「道成寺」を踊ったといいます。踊り終えた貞奴に大統領夫人が握手を求め、官邸の庭を連れ立って散歩したそうです。こうして彼女は「マダム貞奴」の通称で、一躍フランスで有名になったのです。 因みに、貞奴が近代日本の職業女優第一号になるきっかけをつくったのは、夫の川上音二郎でありました。パリ万博前年のアメリカ巡業の際、彼が半ば無理矢理に貞奴を舞台に立たせたのです。歌舞伎に対抗する新劇の礎を築いたとされる川上音二郎は、1870年代後半に自由党の壮士として活動した後に、1891年にいわゆる壮士芝居を旗揚げしています。「権利幸福嫌いな人に自由湯をば飲ませたい、オッペケペー、オッペケペッポーペッポッポー」と歌うオッペケペー節で広く世間にその名を馳せた御仁です。 貞奴は1911年に音二郎が死去すると、遺志を継ぎ演劇活動を続けるも、ほどなく大々的な引退興行を行い、「日本の近代女優第一号」は潔く舞台から退いたのです。その後福沢諭吉の娘婿で「電力王」の異名をとった実業家福沢桃介との色恋沙汰が話題を呼びました。桃介との馴れ初めは1885年頃に遡ります。馬術をしていた貞奴が野犬に襲われるのを、当時慶應の学生だった桃介が助けたことで二人は恋に落ちるのです。福沢諭吉は有望な塾生桃介と貞奴の仲を引き裂くために、桃介に米国留学を申し付けたといいます。帰朝後、桃介は福沢家の入り婿となります。この後、貞奴と桃介は長い別離を挟むものの、女優を引退した後の貞奴は、再び悲恋の相手だった桃介と結ばれます。1920年頃から二人が同居を始めた名古屋の邸宅は「二葉御殿」と呼ばれ、政財界など各方面の著名人が集うサロンとなりました。貞奴は事業面でも実生活でも桃介を支え仲睦まじく一生を添い遂げました。作家の長谷川時雨は、初老にさしかかった桃介と貞奴を見かけた折に「まだ夢のやうな恋を楽しんでいる恋人同士のやう」だと驚き記しています。 イサドラについて語るつもりが貞奴の話に多くを割いてしまいました。洋の東西を問わず、その時代を自由奔放に生き抜いた、恋多き二人の女性には人生においても芸術においても多くの共通点があるように思えてなりません。何かとてもステキな女性に巡り会ったような気がしております。 イサドラと貞奴という二人の女性の生き様に惹きつけられたあまり、ついつい長く足を止めてしまいました。次回からは再び本題の<シャトー訪問記>に戻りたいと思います。 本年も引き続き駄文《ボルドー便り》をお楽しみいただけましたら幸甚に存じます。 |
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