本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - 余話のまたまた余話<ワイン会と西馬音内盆踊り(3)> -


<イサドラ・ダンカン>
 私は「西馬音内(にしもない)盆踊り」を見た瞬間に、何故かモダン・ダンスの創始者といわれるイサドラ・ダンカン(1877-1927)が手を天空に高く突き上げた1枚の写真(冒頭の写真)をすぐに思い出したのです。勿論、私は100年も前のイサドラ・ダンカンの踊りは知りません。でも「西馬音内盆踊り」の指先の動きを見た瞬間に不思議な感情にゆさぶられたのです。この民俗的な盆踊りとモダン・ダンスという一見相容れないように思われる両者が、“魂の叫び”を表現するところでは、指使いから足捌きの先端の動きまで何ら変わりないのではとフッと思ったのです。それは「西馬音内盆踊り」が、この世のものとは思われぬほど美しかったからです。私の目は釘付けになり、踊りの世界に自然と引き込まれ深い感動が私を襲いました。
 イサドラ・ダンカンと「西馬音内盆踊り」の関係を述べる前に、イサドラ・ダンカンとはどのような人物(女性)であったのかをご紹介してみます。イサドラ・ダンカンの名前は、わが国でも有名ですのでご存知の方も多いかと思います。イサドラは、舞台でも日常でもギリシャ風のドレスを身に着けていたことからギリシャ人だと思っている人も多いのですが、カリフォルニア生まれの生粋のアメリカ人です。イサドラは自由の女神が象徴するフロンティア精神の国、アメリカの生んだ偉大な天才芸術家であり、自然崇拝をもとにした古代ギリシャ的思想をもった女性なのです。イサドラを理解する上で、このことは重要な鍵でもあります。アメリカとギリシャ、新しいものと古いもの、一見相反するように見えますが、そのどちらもイサドラであり、ふたつが融合したもの、それが彼女自身です。イサドラはトゥシューズを履かずに初めて素足で踊った舞踊家として有名ですが、これは映画が邦題『裸足のイサドラ』(原題:Isadora)として公開されたことからも分かります。だから、殆どの人が「裸足のダンサーで、恋多き女性で、最後は首に巻いたスカーフが車輪に絡まり死んだ悲劇のヒロイン」と答えます。その舞踊法、舞踊哲学には殆ど言及されていません。でも、コルセットで締め上げた衣装がまだ主流の時代に、薄い絹の衣を纏っただけで、特にバレエにおいてシューズもタイツも履かずに踊ること自体が革命的であったように思います。そこには保守的な社会に対する批評と、女性は自由であるべきだというイサドラの主張が込められているように思います。そういう意味から、彼女は一舞踊家というより、むしろ革命家であり宗教家であるといってもいいかもしれません。
 イサドラの舞台はこんな風だったといわれます。幕が上がると、ステージの中央に青いカーテンが下がっている。グランドピアノが一台。あとは何もない。イサドラの衣装は、薄い絹でつくった古代ギリシャ風のチュニック。限りなく裸に近い。踊りに使う音楽は、ショパン、シューベルト、ベートーベンなどのクラシック音楽であった。今では珍しくもないですが、当時バレエの豪華絢爛な舞台しか見たことがなかった観客には、イサドラのこの簡素な舞台装置にさぞ度肝を抜かれたことは想像にかたくありません。イサドラはどんな場所で踊る時も、この青いカーテンを持参したといいます。イサドラが舞踊の動きのインスピレーションを海の波から得たといっていることから、青いカーテンは、彼女が育ち愛したカリフォルニアの海をイメージしていたのかもしれません。
 余談になりますが、イサドラにみるような古代ギリシャ風の簡素なスタイルへの指向は、1789年のフランス革命以降フランスを中心にヨーロッパで顕著になりました。古代への強い憧憬と共に、ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)の「自然に帰れ」という思想の流行を背景として、新たな美の規範が形成されていったのです。ファッションもそうした動向を反映し、20世紀になって女性からウエストを締め付けるコルセットを取り除くという革新的なモードのスタイルを生み出しました。それがフランスのポール・ポワレ(1879-1944)でありイタリアのマリアノ・フォルチュニイ(1871-1949)であったのです(vol.28vol.51をご参照ください)。ポワレの代表作であるハイ・ウエストのドレスも、フォルチュニイの布地に細かいプリーツを施した「デルフォス」というドレスも、共に古代ギリシャの衣装のデザインに源流を辿ることができます。これはロココ期の過剰な装飾とは対照をなすものでありました。くつろいで佇む女性の身体とそれをなぞりながら包むほっそりとした衣服に、布というものの持つ魅力、それが女性の身体と共に生み出す造形の限りない世界の広がりに気づかされたのでしょう。モードという、うたかたの現象の中に潜む不変の美を感じずにはいられません。
 さて、前置きが少々長くなりました。「西馬音内盆踊り」との関係について述べてみたいと思います。モダン・バレエも「西馬音内盆踊り」も“魂の叫び”を表現するところでは何ら変わりがないと先述しましたが、イサドラの写真を眺めると、そこにはイサドラの“叫び”が聞こえてくるような表現美を想起するからです。先般、新国立美術館で開催された「マン・レイ展」で、<バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)>の写真を見た時に、その手の動き、長い指先がピンと糸を張ったように伸びた(指だけには留まらず手の平から伸びている感じ)手や指先の表現は首と顔の表情にも似た、否それ以上の表情を持っているように思いました。それは正にイサドラ・ダンカンの踊りにも「西馬音内盆踊り」にも通じるように感じたのです。「西馬音内盆踊り」に魅せられたのは幽玄で妖艶な踊りですが、なかでも踊り手のピンと張った指の動き、特に指のそりにたまらない魅力を感じたものです。  
 イサドラの舞踊の原点は、バレエを否定したところからはじまっています。それまでのバレエの動きの源は、背中の中央、脊柱の下方にあるとの教えで、そこを中心に腕や足が伸びていて、動きがはじまります。ところがイサドラは、それはとても不自然で機械的だ、真の舞踊はもっと自由で美しいものでなくてはならないと感じたのでした。イサドラは音楽を聴いて湧き出す感情こそが動きの第一歩であり、舞踊を創造するインスピレーションの源は、脊柱でなく、精神(魂)にあるといったのです。手足のつくり出す形ではない。真の舞踊とは、魂の発するものが動きとなって現れるもので、決して技法や形ではない。その観点からみて、魂の動きとは不釣合いな動きしかないバレエは不自然であり、真の舞踊とは言えないと喝破したのです。イサドラをして霊感の舞踊家といわしめるようになったのは、テクニックではなく魂で踊った初めての舞踊家だったからです。そして精神の動きは、いつも自然である。その時、舞踊ははじめて美しいものになると。このイサドラの舞踊理論は当時の女性の生き方を示唆していたのかもしれません。舞踊も人間も大事 なのは形でなく、魂だと、舞踊を通して女性たちに、そして民衆に訴えたのでしょう。
 従って、西馬音内盆踊りもイサドラの踊りも“魂の叫び”ということ、そしてお囃子であろうが、クラシックであろうが、音を聴いて湧き出す感情こそ動きの第一歩であること、そしてイサドラの踊りが、不思議なほどに見るものに感動を与えたのは、単に目新しかったからではなく、人間本来がもっている神聖さを呼び覚ましたからという点で両者の踊りは共通しているように思われるのです。ただ、“魂の叫び”の伝え方が両者はまるで違うように思います。「西馬音内盆踊り」の地を掃くような深々(しんしん)とした指や手や足そして腰の動きの芸術、この寡黙な叫びを伝承していくには並大抵な努力ではなかったことでしょう。どんな芸術でも芸能でも何百年という長い期間、当初のまま伝承されることなどありえないことです。「西馬音内盆踊り」も、何回かの中断と復興を繰り返しながら、その時代時代に相応しい工夫を重ねてきたと思われます。その中でも羽後町の人々が営々と築いてきた情熱・情念が“魂の叫び”として形づくられてきたのでしょう。この民俗芸能としての盆踊りを継承していくには、やはり形式美を重んじ、個性をある程度抑えたところしか「統制の美」は出てこない。それでも他の盆踊りと比べると「西馬音内盆踊り」には、野趣に富むお囃子と共に命を燃やしつづける「個の技」が確実にあるように思うのです。それに対してイサドラの踊りはまさに「個性の美」そのものであり、イサドラという一人の魂の発露・叫びであるように思います。形式や技法にこだわらない個性の爆発がそこにあったからでしょう。
 今巷でも盆踊りがとても流行っているようです。人は殺伐とした人間関係や、渇いた風土を感じる時、知らず知らずに古(いにしえ)から伝承された“魂の踊り”に帰依するのかもしれません。日本人の日本人による伝統は地の底から湧いてくる「血」によって、血脈によって保たれているような気がしてなりません。西馬音内のような確固たる所作で築かれた盆踊りでなくても、人は盆踊りという郷愁を求めて手足を動かしているだけで安堵するのだと思います。昔からお囃子にのって人は体を動かし、手足を動かして“心の叫び”を表現してきました。他に楽しみが少ない昔は一大イベントだったのでしょうからもっと気迫が違がったことでしょう。郷愁を求める血脈によって受け継がれた伝統芸術、それが盆踊りなのだと思います。盆踊りは「時代時代に生きてきたわれわれ民族の生活・情熱といったものの集団的な表現である」ということには頷けます。「西馬音内盆踊り」は、その内なる叫びを、本来日本人がもっている美意識で美しい動きが表現された集大成のような気がいたします。このことはイサドラの舞踊法・舞踊哲学に通じるように思えてならないのです。
 イサドラの踊る映像は残されていませんし、現在ご存命のお方でも、イサドラの踊りを見たことのある人はおそらくいないといっていいでしょう。従って、彼女の芸術を理解するには著書などで踊りの原点になる思想を知ることしかできません。イサドラは、「私がダンスを創造したわけではない。以前からもう存在していたのです。私はただ眠っていたのを呼び覚ましたに過ぎないのです」といっております。このことは「櫻山」の御父上様が「西馬音内盆踊りは祖先の力でできあがったもので、私たちは後から生まれて先人の遺産を引き継いだだけである。その恩恵をただで受けたのだから、われわれの世代で盆踊りをよりよくし、次世代に渡せねばならないだろう」との言葉にも通じるように思われます。
 もし、イサドラが「西馬音内盆踊り」の幽玄な世界を見たらどう思ったでしょうか。興味の湧くところです。全くの踊りの素人の私が「西馬音内盆踊り」に魅せられ、今まで関心をもっていたイサドラ・ダンカンにフッと想いを馳せて、両者を無理に結びつけてしまった感もありますが、これもひとつの見方としてお許し願えれば幸いです。



 


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