ボルドー便り vol.28

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

- 閑話(その1): 一冊の本との出会い -




<注ぎ方>


 現役時代に話は遡ります。ある時古書店の若旦那から会社に電話が入り、フランスからワインに関する古書が数百冊入荷したので見にきませんかとのこと。会社が終るというか、恐らくそそくさと途中で抜け出して古書店に向かったと思います。着くとそこにはダンボールが10箱ほどまだ開けていない状態で置いてありました。早速に開梱して見はじめましたが、はじめの数箱は大した本は見当たらず、時たま自分の持っている本が現れたりしてちょっと期待はずれでガッカリしてしまいました。それでも中には年代ものの本や雑誌があり、数時間かけて目ぼしいものを20冊ほど選び出しました。少々疲れを感じながら、いよいよ最後の箱を開け、本を手にしておりますと一冊の本が目に留まったのです。
 それは今まで見たこともないような美しい挿絵と様々なワイングラスの絵が載った本でした。興奮してきました。その本のタイトルは、『Monseigneur le vin―L'Art de boire(ワイン閣下、酒飲み術)』(1927年刊)とあり、Texte de Louis FOREST(ルイ・フォレスト著),Dessins de Charles MARTIN(シャルル・マルタン画)とありました。夢中でページを繰りました。その挿絵が実に見事だったのです。男がワインを賞味する8つの段階をユーモラスなタッチで描いており、その大胆な構図と色彩、特にワインの「赤」には目を奪われてしまいました。それはエスプリに富んだ文章と挿絵が助け合って渾然一体となり、あたかもスクリーンに映る美しい映像のように思われたのです。
 もう一冊、目に留まった本があります。それは『GRANDS CRUS DE BOURGOGNE(ブルゴーニュの特級ワインたち)』というタイトルのついた、比較的新しい1955年刊の100ページほどの小冊子です。ここに載っている手彩色の挿絵がまたすばらしいのです。この本はその後ブルゴーニュ地方を訪れた時にワインの本場、ボーヌの街の古書店のショーウインドーに飾られていましたので、それなりに価値のある本だったのでしょう。
 数百冊の本を見るのに果たして何時間かかったことでしょうか。最後の箱で美本2冊を見つけたことに興奮し、先ほどまで感じていた疲れもすっかり吹き飛んでしまいました。さて、この2冊を含めて選んだ20数冊を是非購入したいと思うのですが、いったい幾らで分けていただけますかと尋ねたところ、お気に召したらどうぞ何冊でも遠慮なく持っていってくださいとのこと。まさかそうもいかないので、何がしかの安い価格で譲ってもらうことにしました。その時、古書店の若旦那からは数百冊の中からよくぞこの2冊を見つけ出しましたね、とえらく褒めていただいたのを覚えています。
 後日、彼に会ってお礼を言ったところ、あの『ワイン閣下、酒飲み術』は宝くじに当ったと思ってくださいとのことでした。只管感謝のみです。
 それから私の“シャルル・マルタン探しの旅”がはじまりました。先ず、この挿絵はフランスで<POCHOIR(ポショワール)>といって、技法としてはいたって単純で、型を抜いたステンシルの上から刷毛で絵の具を塗りつけていくもの(手彩色版画)であることが分かりました。シャルル・マルタンなる人物は1910年から1930年代にかけてフランスで活躍したアール・デコ時代のイラストレーターであることも分かりました。少しマニアックな世界に入って恐縮ですが、当時フランスで有名なモード誌、例えば『モード・エ・マニエール・ドオジュルデュイ』とか『ガゼット・デュ・ボン・トン』の中でファッション・プレートという挿絵を描いていたイラストレーターであったのです。シャルル・マルタンと共にジョルジュ・バルビエ、ジョルジュ・ルパップ、アンドレ・マルティの4人がほぼ同時期にこの世界に登場し、ファッション・プレートをはじめポスター、舞台衣装、挿絵本の分野で華々しく活躍したのです。ところが1929年の大恐慌で彼らは完全に職を奪われ、以後何十年もの長きに亘って美術史から黙殺され、その存在すら忘れ去られるという運命に追いやられてしまいます。活動の場を奪われたイラストレーターたちは失意のうちに、みな50歳前後で亡くなっております。まったく運命の皮肉としかいいようがありません。だが却って、それゆえに遺された美しい芸術作品は見るものにとって永遠にモダンであり、今でも新鮮な風のように心に吹き渡ってきます。
ところでシャルル・マルタンのファッション・プレートを見て、インスピレーションを掻き立てられたのはモードのデザイナーばかりではなかったのです。シャルル・マルタンの明るく軽快な動きは、フランスの有名な作曲家エリック・サティを魅了しました。こうしてエリック・サティの作曲した20曲それぞれにシャルル・マルタンがイラストをつけた代表作『スポーツと気晴らし(Sports et divertissements)』(1919年刊)が生まれたのです。その楽譜とイラストの入った『スポーツと気晴らし』をパリのパサージュのとある古書店で偶然見つけた時にはほんとうにうれしかったです。なけなしのお金をはたいて購入したのはいうまでもありません。
 当時、パリの古書店に入って「ポショワールはありますか」と尋ねると店主はまず吃驚します。更に「シャルル・マルタンのポショワール」と作者の個人名を出すと身構えて、奥の方から勿体ぶって次から次とファッション・プレートや挿絵本を持ってきます。何故この東洋人はわが国のポショワール、それも作者までも知っているのかと不可思議な顔をしながら。広重や歌麿を知っているフランス人と何ら変わりはないのですがね。
 私は『ワイン閣下、酒飲み術』の本をきっかけに、先ずはフランスのモード誌に興味を抱き、そして間もなくベル・エポック(古き良き時代)の伝統的なスタイルを抜け出して新しいモードを生み出そうと考えていたポール・ポワレに行き着きました。彼は『ポール・イリーブが語るポール・ポワレのドレス』というデザイン・アルバムで、それまで女性のウエストを締め付けたコルセットを取り除いたポワレの革新的なデザインとポショワールという新しい技法によってフランス・モード界において新時代を築くことになります。
 次いで当時のイラストレーターたちに多大の影響を及ぼしたといわれる<Ballet Russe(ロシア・バレー団)>に関心をもつようになりました。パリ公演でディアギレフやニジンスキーをはじめとする<ロシア・バレー団>が表現する肉体のしなやかな動きと強烈な色彩感覚から生み出されるモダンな印象は、イラストレーターに強烈な刺激を与え、これをいかに新しい技法、ポショワールで表現するかに彼らは腐心することになります。
 そして最後に辿り着いたのが、<ロシア・バレー団>と共にパリ公演でイラストレーターをはじめ若い芸術家たちを熱狂させた<イサドラ・ダンカン>というモダン・ダンスの先駆者です。彼女は20世紀初頭に活躍したアメリカ人の舞踊家で、首に巻いたスカーフが車輪に絡まるという不慮の事故で亡くなった悲劇のヒロインでもあり、映画(邦題「裸足のイサドラ」)になって日本でも公開されましたのでご存知の方もいらっしゃるかと存じます。彼女に魅せられ、著作も大分読み漁ったものです。
 暫く経ってから古書店の若旦那に会い、『ワイン閣下、酒飲み術』のお陰で<フランス・モード誌>→<エリック・サティ>→<ロシア・バレー団>→<イサドラ・ダンカン>との出会いの旅を楽しむことができましたと感謝を込めて報告したところ、「意外と早くイサドラ・ダンカンに辿り着きましたね」とサラリと言ってのけられたのには吃驚してしまいました。彼は全てお見通しのことだったようです。
 皆様には何かわけの分からない私の極めて主観的な趣味の一端を披瀝したようで気恥かしい思いがいたしますが、“一冊の本”との出会いによって、本は私たちをいろいろな未知の世界に誘(いざな)ってくれるということをここで書きたかったのです。
 この拙文とイラストの写真によって、灯火親しむ秋の夜長に虫の音を聞きながら、ワインを傾け、シャルル・マルタンをはじめアール・デコ時代に活躍し、そして数奇な運命を辿った芸術家たちに暫し思いを馳せ、興味をもっていただければ望外の幸せです。
 本との出会いとは何とすばらしいことか!


 


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