ボルドー便り vol.9


 − フランス語学校(その3) −



モンバジャックの風景画

 ところで一見して定年退職者(いや、彼らにはもっと若く見えたかもしれませんが・・・?)とおぼしきわたしが一体何のためにフランス語を学んでいるのか彼らには不思議に写ったかもしれません。でも彼らはわたしを仲間として快く迎え入れてくれました。彼らはわたしのことをサブローと呼ぶし、もちろんわたしもシルビーとかエリザといった具合にファースト・ネームで呼び捨てます。こんな中にいると年齢の差なんかまったく気にならなくなるから不思議です。でも人によってはわたしのことを<tu>で話してもいいですかと丁寧に聞いてくる女性もおりました。
 余談になりますが、フランス語で「あなた」の呼び方には二通りあります(英語はyouひとつだけですが)。それは<vous、ヴー>と<tu、テュ>です。これがどういう時にどちらを使うのかは簡単ではありません。それまで会ったことのないイヌやネコに対して<tu>と呼ぶのは一向に構いませんが、相手が人の場合は、先方から<tu>と呼ばれないかぎり、<tu>を使わないほうがどうもよさそうです。<tu>と呼ばれるのは、フランス人の神聖なる生活の中に入れてもらえたこと、親友として受
け入れられたことを意味するからです。<tu>か<vous>かは単なる文法の問題ではなさそうです。微妙ですが大切な社会的な合図なのでしょうか。学生の世界ではもちろんお互い<tu>です。そうそうわたしは学校でたびたび学生から教授と間違われました。学生ですよと言うと、途端に<vous>から<tu>に変わります。
 お互い完全なフランス語ではないですから、討論のときは細かいところまで説明できないことがあります。勢い、話は単純化せざるを得ず、時には自分では思ってもいないことを口走ったりします。だから、せっかく誤解を解こうと思って話したことが、更に新しい誤解を生むことになったりして、こういう時は、あとでいつもなにかしら空しい気がしてきます。言葉やそれぞれの国の文化が違う者同士のコミュニケーションの難しさ、限界を感じる時でもあります。でもいろいろの国からさまざまな個性をもった若者がいるから、この学校は面白い。このボルドーの地で、こうした若者と一緒に勉強していること自体がなんとも不思議でうれしい感じがしてきます。はるばるフランスまでやって来た甲斐があったと感じる時でもあります。
 先生方は年配者が多く、学生が興味を引く、たとえば文学、歴史、教育から映画、シャンソン、観光等にいたるまでの題材を取り揃え、そこにはかならずフランスの文化を織り交ぜて、楽しみながらフランス語を習得できるように工夫がされております。ほとんどの先生は、わたしのことを親しみを込めて「サブロー」とファースト・ネームで呼びます。ただ一人の年配者の先生だけは、この老学徒に敬意を表してか最後まで「ムッシュー、カネコ」と呼び続けました。
 先生方もわたしがワインを学びに来ていることが分ると、いろいろな情報を提供して下さいます。いついつからこの地方でシャトー(葡萄園)を開放しているので行ってらっしゃいとか、「スュド・ウエスト」(フランス南西部の地方紙)の火曜版はワイン記事が豊富で必読よとか。また新聞や雑誌のワイン記事の切抜きをいろいろ取りそろえてよく持ってきて下さいました。フランス人は自国の文化を学んでいる者にはとても寛容で親切です、時には親切すぎるくらいに。
 特に唯一のマドモワゼルであったM先生には醸造学部に行ってからも大変お世話になりました。フランス語で分らないことがあればこれからなんでも聞いて下さいと。小柄で愛くるしい目をした、いかにもフランス女性といった感じのする方でした。たまに大きなつばのあるピンクの帽子を粋にかぶって学校に来られます。帰国してからもメールのやりとりが続いています。
 ひとつおどろいたことは、先生方は欧米人の生徒の名前はもとより東洋人のむずかしい発音の名前もたちどころに覚えてしまうことです。平素から世界各国の学生を相手にしているために自然に身についたものでしょうか。これは日本のクラブやバーのママさんに通じる特技かもしれません。失礼!
 最後の授業が終ったとき、先生がモンバジャック(ボルドー南西部の甘口白ワイン)を教室に持ってきて、みんなに振舞ってくれました。とてもお洒落で粋なお別れ会でした。さすがフランス、ボルドーですね。