原田義昭先生のホームページ愛読者の皆様へ
  先般は、小生の拙文《ワインのメッカ、ボルドー大学に学んで》をお読み頂きまことにありがとう存じました。
 この程、原田先生のご厚意により《ボルドー便り》とタイトルを変えて、先生のホームページに引きつづき小生のボルドーで体験した日常生活や学生生活を連載させて頂く栄に浴することになりました。たかだか二年足らずのフランス生活で、栄えある先生のホームページに拙文を載せて頂くことはまことに恐れ多いことですが、皆様に少しでもご興味をもってお読み頂けたなら望外の幸せでございます。
  末筆ながら原田先生には、このような貴重な機会を与えて頂いたことに、心から感謝申し上げます。  
金子三郎



ボルドー便り vol.1


 −プロローグ−

 
冬のボルドー市内と「ワインの館」

 神の祝福を賜ると、ノアは箱舟をあとにした。

『さて、ノアは農夫となり、ぶどう畑を作った。あるとき、ノアはぶどう酒を飲んで酔い、天幕の中で裸になっていた』(創世記九章20・21、日本聖書教会訳)

 これは間違いなく最初のぶどう栽培、そしてしたたかな酩酊の記録でありましょう。

でもこれからぶどうの苗がシーザによってガリア(現在のフランス)へ運ばれるまでには、ノアからさらに二千年という長い歳月を待たねばならなかったのです。

 わたしは、2003年1月31日にそのぶどう酒((仏)VINヴァン、(英)WINEワイン)を学ぶためにフランス南西部にあるボルドーへ旅立ちました。

  さあ、では早速にボルドーでの学生生活をご報告することに ― いやその前に、すこしわたしがフランスへ旅立つことになった動機らしきものを書いておくことにしましょう。

 前回少しふれましたように、わたしは、少々早目に35年間お世話になった会社をあとにしました。50歳になる前のころから来し方行く末を考え始めました。だれしも、このころになるといくぶん哲学者的になってくるのでしょうか。このまま安穏として定年までサラリーマン生活をしていて果たしていいものかと自問自答するようになったのです。人生は一度じゃないか、ここらでもうすこしちがった生き方をしてみてもいいのでは、と。

  それともうひとつは父親の亡くなった歳、62歳がどうしても頭から離れません。自分に残されている時間はいったいどれほどなのだろうか、意外と少ないかもしれないと考えるようになりました。そこでちょっと格好よくいえば、国からも会社からも友人たちからも、さらには暫くの間はわが家族とも離れてみよう。自分のためだけに生きてみる。自分の足でこの大地にしっかり立ってみたいと思うようになったのです。そのためには外国がいい、それも30数年来親しんできたワインを学べるフランス・、ボルドーへ行こうと決めたのです。

  爽やかに会社を辞することができました。そして妻も諦めたというのか、幸いにも小生の生き方に賛同してくれました。息子も賛成してくれました。このことはわたしにとって何よりの心の支えとなりました。もっとも他人さまからみればわがままもいいとこで、たんなる遊びじゃないかと思われるのがオチでしょう。でも本人はいたって本気でした。