ボルドー便り vol.29

本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

- 閑話(その2):ポイヤック村の思い出 -




ポイヤック駅

 今回も全くプライベートな出来事で恐縮ですが、暫しお付き合い願えれば幸甚です。
10年ほど前に妻と一緒にフランスの葡萄畑を訪ねる旅に出掛けました。先ずはトゥール(Tours)に向かい、ここで2泊して、ロワール地方の美しい城と白ワインで有名なヴーヴレー(Vouvray)を訪ねました。トゥールからTGVに乗ると2時間ほどで「ボルドー・サン・ジャン駅」に着きます。ここから普通列車(月~金曜日は8本、土・日曜日・祝日は3本しか走らないローカル線)に乗換えて次なる目的地、ボルドーの有名なワイン産地であるメドック地方に向かいます。暫く走るとそこは右を向いても左を向いても美しい葡萄畑が果てしなくつづき、これまでワインの本で何度も見てきた憧れのシャトーの建物が目に入りテンションが高まります。有名な<シャトー・マルゴー(Château Margaux)>のある<マルゴー駅>にさしかかろうとする頃、車窓の右手にはオランダとフランスそしてイギリスの三国の国旗をかざした<シャトー・パルメ(Château Palmer)>の瀟洒な城が目に留まります。私たちを乗せた列車は、秋の陽射しにきらめく葡萄畑の中をゆっくりと走っています。
 漸く目的地<ポイヤック駅>に着きました。重いスーツケースを持って列車を降りると、そこは日本のローカル駅そのものです。でも、ここがワイン愛好家にとってはまさに憧れの地、「ポイヤック(Pauillac)村」なのです。それもそのはず、ボルドーの5つの珠玉の第一級畑のうち3つ(シャトー・ラフィット・ロートシルト(Château Lafite-Rothschild)、シャトー・ラトゥール(Château Latour),シャトー・ムートン・ロートシルト(Château Mouton-Rothschild))を持っているのが、この村なのです。
 運悪く、今までの天気は何処へやら、雨が降り出してきました。てっきり駅前の広場には何台もタクシーが待っていると思いきや、一台のタクシーも見当たりません。取敢えず駅員に話すと、親切にタクシー会社に何度も電話をかけてくれたのですが、生憎昼時で誰も電話に出ないとのこと。「弱ったな、ここから今日泊まるホテルまで歩くと何分くらいかかりますか?」と尋ねると、「そうですね、40~50分はかかるでしょう」との答えが返ってきました。これはいよいよ困ったことになった。この雨の降りしきる中を、傘をさして大きなスーツケースを2つも携えながら知らない道を歩いて行くのは大変だし、これからのボルドーでの楽しい旅もスタートからつまずいてしまう。広場を見渡すと遠くに一台の公衆電話があるのに気付きました。これでホテルに電話して迎えに来てもらえると勇んで行ってみると、テレフォンカードしか使えない。カードを買うにも売店ひとつないのです。日本であればどんな田舎の駅でもキオスクくらいはあるのにと独り言をいっても詮無しです。当時、便利な携帯電話などはなかったし、今考えると駅で電話を借りて、ホテルに連絡すればよかったのにと思いますが、その時は残念ながら頭が回りませんでした。
駅前を見渡しても人っ子一人おりません。いよいよ困り果てて、ふっと見ると駅前の一軒の家からまさに今買い物にでも出掛けようとしている一人のご婦人が目に留ったのです。粋なスカーフを巻いてきれいな身なりをした美しい中年のご婦人です。これぞ天の助けとばかり、飛んでいって夢中で知っている限りのフランス語を並び立てて、身振り手振りを交えて困っている状況を話しました。こういう時には習いたての数少ないフランス語が思い浮かびますから摩訶不思議です。間もなく雨の中を、駅前の広場に5、6人が集まり、東洋の地から遥々ポイヤック村にやって来た男を誰がホテルまで車で送るかの相談をはじめたようです。程なく、やはりかのご婦人が送ってくれることに決ったようで、「小さな車ですがどうぞお乗りください」と言ってくださいました。「実は・・・、駅に妻が待っており、それと大きなスーツケースが二つほどあるのですが・・・」と言いますと肩をすくめられちょっと困った様子でしたが、「何とかなるでしょう」と言ってくださいました。
大きなスーツケースひとつをやっとトランクに押し込み、そしてもうひとつを助手席に置き、私たち二人が後部座席に座って、いざ出発と相成りました。とたんに安堵感が広がり、感謝の気持ちで一杯になりました。雨の降りしきる中をしばらく走って、やがて目的地のホテル「シャトー・コルデヤン・バージュ(Château Cordeillan―Bages)」に無事到着しました。道すがら車の中で、妻とどうやってお礼をしたらいいだろうかと話し合いました。日本からの風呂敷や千代紙等のお土産の類はスーツケースの底の方に入っているし、スーツケースを開いて取り出すわけにもいかないし、もう考えていてもしょうがない、感謝の気持ちと共に失礼になるかもしれないがお金をと、上着の内ポケットの財布に手をやると、「ノン、ノン」と窘められてしまいました。恥かしい思いをしたものです。
ひたすら妻と共に感謝の気持ちを精一杯身体で表し、ご婦人をお見送りしました。
 駅からあの雨の中を大きなスーツケースを引きずって、定かでない道を辿ってホテルまで行き着いたとしても、それからのメドックの旅は恐らく違ったものになっていたことでしょう。かのご婦人のお陰で、葡萄畑に囲まれて建つ17世紀のシャトー・ホテルに泊まり、好天にも恵まれマウンテンバイクに乗って、シャトー巡りの楽しい旅を思う存分に味わうことができました。ご婦人に只々感謝のみです。
この旅で、フランス人の心のやさしさを知ることができました。
 ホテルに着くなり帰りのタクシーを予約しておいたので今度は安心です。二泊した後、次なるサンテミリオンとポムロールへ出掛けるため早い列車に乗らなくてはならず、まだ早朝の薄暗いうちにタクシーに迎えに来てもらい、ポイヤック駅に向かいました。手には、前の晩に辞書と首っ引きで書いたご婦人への感謝の手紙と日本から持参した手土産を持って・・・。残念ながら、肝心のご婦人の家が何処か分からなくなってしまいましたが、幸いにも送っていただいたプジョの車だけはハッキリと憶えておりました。この日は霧雨が降っていたため妻がビニールの袋に手紙と手土産を入れ、車のフロントガラスのワイパーに挟んで置いてきました。感謝の気持ちを込めて私の名前と住所を手紙に認めておいたのが良かったのか、却ってご迷惑をかけてしまったのか、後日ご婦人から丁寧なお手紙と共にポイヤック村の隣のサン・ジュリアン村の<シャトー・レオヴィル・ポワフレ(Château Léoville-Poyferré)の大瓶(マグナムボトル)に入ったワインが届きました。まさかお手紙をいただけるとは思っていなかったし、況してや好物のワインの贈り物が届くとは!
正直びっくりしてしまいました。
 その後もご婦人とは年に何回か手紙のやり取りをし、クリスマスにはプレゼントの交換をしながら、ワインのメッカであるポイヤック村に想いを馳せ、そこに一度だけお会いした美しいご婦人がいらっしゃると思うだけで独り勝手にロマンを感じておりました。妻からは当時ベストセラーの『マジソン郡の橋』みたいなことを想っているのではないですかと冷やかされたものです。
 私がボルドーの地に留学することを知って、かのご婦人は大層喜んでくださいました。是非再会しましょうと。ところがボルドーに行ったらいつでもお会いできると思っているうちに瞬く間に時が過ぎていってしまいました。友人の車でメドック地方を訪れた時に、一度だけポイヤックの駅に立ち寄ってもらい、ご婦人をお訪ねしようと思ったのですが、何の連絡もなしに突然の訪問はご迷惑をかけるだろうと遠慮をして、家の前まで行ったもののその時は訪ねずに帰ってきてしまいました。その後はポイヤック村を訪れる機会がないままに、結局は会わずじまいで帰国してしまったのです。何故あの時遠慮なんかしてしまったのかと後悔の気持ち頻りですが、私にとってはいまだに何かほろ苦くもちょっぴり甘酸っぱいなつかしい想いが交錯しております。
 ボルドー・ポイヤック村の思い出です。


 


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