本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

奈良の思い出(3)-「味覚」

映画「暗夜行路」(1959年制作)の撮影で(志賀直哉と山本富士子、池部良)

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
 
 さて、かつて関西に住んで感じたことは、話はいささか大袈裟になりますが、この土地は都市同士の独立性が強く、東京からみて簡単に関西と一括りにしてすむというものではないということです。奈良は奈良、大阪は大阪、神戸は神戸、京都は京都と、夫々の都市は、人柄も言葉も街角の雰囲気も、更には味も異なっていて、多元的且つ複合的な文化圏を形作っているように思えたのです。夫々の都市が固有の文学者を抱えていることはいうまでもありませんが、例えば、個性ある織田作之助(1913-1947)が大阪の作家であるように、稲垣足穂(1900-1977、生まれは船場)は神戸、生田耕作(1924-1994)は京都の文学者であって、これがもし別の都市に育っていたならば、彼らは現在私たちが知っているような形では作品を遺さなかったのではないでしょうか。では、奈良はというと、残念ながら近代の作家の名は思い浮かびません。ただ、13年間(1925~1938)に亘って奈良市に暮らし、こよなく奈良を愛した文豪志賀直哉(1883-1971、宮城・石巻市生まれ)を挙げていいのかもしれません。何故なら、代表作となる長編小説『暗夜行路』(1921~1937)の後編の大部分は奈良市高畑の自宅(奈良公園に隣接し、若草山の眺望も良い処)で執筆されているからです。ここは志賀直哉を慕って、武者小路実篤をはじめ小林秀雄、尾崎一雄、亀井勝一郎、小林多喜二、桑原武夫、堂本印象、小川晴暘、入江泰吉ら白樺派の文人や画家、写真家が集い、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなって、いつしか「高畑サロン」と呼ばれるようになりました。

 志賀直哉が奈良を引きあげて東京へ戻った時には、「二、三日すると、矢も楯も堪らず、奈良に帰りたくなるのは不思議な位だ」、「こういう気持ちはこれからも何年か続きそうな気がしている。それほど、土地として何か魅力を持っている。とにかく、奈良は美しい所だ。自然が美しく、残っている建築も美しい。そして二つが互いに溶けあっている点は他に比を見ないといって差支えない。今の奈良は昔の都の一部分に過ぎないが、名画の残欠(ざんけつ)が美しいように美しい」と、奈良の土地への深い愛着が感じられます。
 それほど奈良を愛してやまなかった文豪志賀直哉が、 随筆『奈良』の中で書いたとされた「奈良にうまいものなし」という言葉は80年以上経った今でも人口に膾炙しています。正確には「食いものはうまい物のない所だ」と書かれています。そして、そのあとにつづく文章には、「私が移ってきた五、六年間は牛肉だけは大変いいのがあると思ったが、近年段々悪くなり、最近、また少しよくなった。此所では菓子が比較的ましなのではないかと思う。蕨粉(わらびこ)というものがあり、実は馬鈴薯の粉に多少の蕨粉を入れたものだという事だが、送ってやると、大概喜ばれる。豆腐、雁擬(がんもどき)の評判もいい。私の住んでいる近くに小さな豆腐屋があり、其所の年寄の作る豆腐が東京、大阪の豆腐好きの友達に大変評判がいい。私は豆腐を余り好かぬので分からないが、豆腐好きは、よくそれをいう」と、少しトーンダウンして好意的に綴っております。
 でも、何故文豪は奈良をして「食いものはうまい物のない所だ」と断定的に述べられたのでしょうか。この機会に志賀直哉について『暗夜行路』以来の興味をもち、暇に任せて『志賀直哉全集』(全十巻)を読んでみました。実は、志賀直哉は奈良に住んでいた時に東大寺の僧侶たちと深い親交があったので、「結解(けっけ)料理」の宴(vol.158)に招かれて、あの古式に則った料理を味わったのではないかとふっと思ったのであります。そして何処かにそれらしき記述があるかもしれないと全集を読み進めていったところ、『志賀直哉全集』(第七巻)の中に「結解料理」と題して、そのものずばりを書いた随筆に巡り合ったのです。そこには「奈良に十三年住んで一昨年の春、愈々東京に引き上げようという時、東大寺塔頭(たっちゅう)の諸氏が私の為に結解料理という東大寺でも二年に一度或いは三年に一度しか仕ない大変珍しい料理で送別会をして下された。上司君(勧進所、筆者註:後の東大寺住職になられた上司海雲師だと思われる)橋本君(指図堂)などは初めてということで、塔頭でも若い人達はそれを知らなかった。まして吾々普通の俗人には滅多に味わうことの出来ない珍しい饗宴で、私達は東大寺の好意をありがたく思った」とあり、当日の結解料理の様子をいろいろと書き綴っております。その中には「右側に執事の清水さんを上座に東大寺塔頭の人々が一列に、左側は吾々の家族、そのほか奈良在住の親しい友達数人が客として一列に並んだ」、「饗応というよりも何か一つの儀式のような感じがあって大変面白かった」と記述してあります。中世的な僧院の食礼を今日に伝える「結解料理」に、志賀直哉は大いに感銘を受けたものと想像されます。兎に角、「小豆餅」が出て、牡丹餅の相当大きなものを幾つか食わねばならぬことに度肝を抜かれ、更に「御替(おかわり)」を勧められて又驚いたこと。「陳皮(ちんぴ)」とある蜜柑の皮を前歯で味わったが、普段食にはない代物は案外不味いものでなかったとか、「水仙だしかけ胡桃入り」の珍しかったこと。そして「湯素麵だしかけ」は美味しく、皆お替りをしたことなどが綴られており、文豪も私たちと同じように結解料理を美味しく感じ、珍しいものには大層興味をいだかれていたことが、その筆使いからも読み取れ嬉しい気持ちになりました。

 そこで、随筆『奈良』は「結解料理」を味わう前に書かれたのではないかという推測が生まれたのです。実際調べてみますと、「食いものはうまい物のない所だ」と書いた随筆『奈良』は、『志賀直哉全集』(第六巻)に載っていて昭和12年(1937年)の執筆であり、随筆『結解料理』は『志賀直哉全集』(第七巻)の昭和15年(1940年)の執筆であることが判りました。つまり、想像した通り、随筆『奈良』は「結解料理」を食する以前に書かれていたのです。もし「結解料理」を味わったあとであれば、奈良を「食いものはうまい物のない所だ」との断定的な表現は少し和らいだものになっていただろうし、否、ひょっとすると全然違った文章になっていたかもしれません。そうであれば巷間伝えられている「奈良にうまいものなし」の言葉は広まらなかったのではないかと・・・。奈良の名誉のためにもそうであって欲しかったと、ちょっと残念な気持ちになりました。
 確かに、味覚は主観的なものでありますが、奈良にも美味しいものはいろいろあります。名物には三輪そうめん、柿の葉寿司、奈良漬など全国的に有名なものもあります。特に、私の好物の奈良漬は、東大寺境内にある明治2年(1869年)創業「森の奈良漬」です。昔ながらの酒粕と自然塩だけで漬け込んだ、全て手作りの奈良漬で、定番の奥深い味わいの〈瓜〉に加えて創業時から漬けられている〈すもも〉は絶品です。私はお世話になった方々のお歳暮に、京都上賀茂「なり田」の〈すぐき〉と交互にこの奈良漬をお送りし大変喜ばれました。
 そして、この原稿を書きはじめようとした時に不思議なことが起こりました。本棚の一冊の厚い本の上に、何と昔々行ったことのある奈良の料亭「江戸三」のコースター(鈴木信太郎画伯の画賛入り)がちょこんと乗っているではないですか。吃驚しました。そのコースターが「江戸三」のことをちゃんと書いてよと呟いているような気がしたのです。
 ここは、かつて友人等を案内して何回か訪れたことのある老舗で、奈良公園の一ノ鳥居を入った右側の高処にありました。初代の主人が、大阪の江戸堀三丁目からこの地に移り、店を開いたので「江戸三」(明治40年(1907年)創業)と名乗ったそうです。奈良公園の深い木立の中にあり、いくつもの数寄屋風の離れが点在しています。多くの国宝・世界遺産のある公園内に料亭を建てることができたとは驚きです。今日ではとても考えられないことです。さぞ当時はのんびりとした時代だったのでありましょう。
 さて、友人と小さな離れへ入り、先ずは酒を注文してから、障子を全て開け放ったところ、眼前には秋の夜の闇に広がる静かな奈良公園が浮かび出て、実に気持ちがいい。この店の名物は<若草鍋>で、炭火を使い、大きな土鍋で、鯛、鱧、蛤、伊勢海老、銀杏、湯葉、白菜など多彩な関西の旨い魚菜を入れ、煮えたところを紅葉おろしで食します。美味なり。開け放った障子の向こうから秋の冷気が流れ込んできて、熱い鍋料理を一層美味しくさせてくれました。その時は鹿たちの恋愛の季節で、公園の方々で頻りに牡鹿が鳴いています。突然、障子の向こうから、牡鹿の顔が垣根越しにぬっと現れたりします。牡鹿の両眼はらんらんと光り、部屋の中の私たちを黙ってじっと見つめていましたが、その内、すっと私たちから遠ざかり、闇に消えていきました。私たちはまた、鍋をつっつきながら奈良の旨い地酒をしこたま味わいました。店の雰囲気も料理も大いに満足したことを憶えております。こうして奈良公園の中に建つ離れで、秋の夜長の楽しい一時は瞬く間に過ぎていきました。昭和天皇陛下の奈良ご巡幸の際には、この若草鍋を献上されたそうです。「江戸三」のような独特の雰囲気の中で美味しい料理を味わえるのは古都奈良だからこそではないでしょうか。

 次にご紹介しますのは、奈良名物の茶粥です。この店は「塔の茶屋」といって、これまた国宝にして世界遺産でもある興福寺の境内の中に建つ趣のある茶屋でした(現在は移転したようです)。 座敷に上がって、風情ある小さな坪庭を眺めながら若草色の茶粥を食するのは何とも気持ちがいいものです。ここの茶粥は大和茶を使ったあっさりしたもので、お米を炊いた後にお茶を入れるので程よい苦みがあり、いい香りがして美味しいです。茶粥弁当、茶粥懐石がありますが、暖かい季節には外で五重塔を眺めながら、茶粥だけを気軽に食べるのもいい。
 なお、『古事類苑』によれば、「大和の国は農家にても一日に四、五度の茶粥を食する。聖武天皇の時代、南都大仏御建立の時、民家茶粥を食して米を食い延ばし御造営のお手伝いをした。以降奈良では茶粥を常食するようになった」とあります。 また「お水取り(修二会)」の期間中の練行僧の食事の献立を記したものに、<あげ茶>、<ごぼ>などの記載が残っております。<あげ茶>とは茶粥を煮て汁を取り去ったもの、<ごぼ>は茶粥の汁の多いものを称してこう呼びました。これらの記録からも大和では千二百五十年以上前から茶粥が食べられていたことが分かります。奈良ホテルの格調あるメインダイニングルーム「三笠」で、興福寺の五重塔を眺めながらの朝の茶粥も風情があってなかなかいいものです。
 そして、寒さがやってくる「お水取り」の頃に飲む<あま酒>はまた格別です。 二月堂の界隈で何百年ほども前から<あま酒>を売るといわれる「下の茶屋」(ここも今はなくなっています)の<あま酒>は旨かった。ここは茶店でありながら古文化財のように本瓦でふかれた重たそうな屋根をもっています。いつ頃の建造かは定かではないようです(江戸時代中期頃か)。その本瓦の屋根の上の中どころに、瓦焼きに焼いた小さな鐘馗(しょうき)さんが立っているが、肉眼だと小さくて見過ごしてしまいそうです。冬の店内は隙間だらけで寒い。でも、辛うじて火鉢と古ぼけた石油ストーブで暖を取りながら、<あま酒>を啜るのもなかなか乙なものであります。店のおやじも昔気質(むかしかたぎ)で、古木のような頑丈なる風貌が印象的でした。
 ところで、一説によれば清酒発祥の地は、奈良の「生暦寺」と言われております。神仏習合のならいから寺院でも米を使った酒を造るようになっていました。米は荘園でつくられたもので僧侶が造ることから「僧坊酒」と呼ばれており、当時「生暦寺」は「僧坊酒」を造る寺院の中でも筆頭格の寺院でありました。大量の酒を造る中、酒造りの技も次第に進歩していき、「生暦寺」の酒造りの技は室町時代になると革新的な技術であったことから、古文書『御酒之日記』にも記載されています。そうした技は、「南都諸白」(南都の<諸白(精白米)>で造られた「僧坊酒」の総称)へと引き継がれていったのです。これこそが清酒造りの原点であるとの説です。ということで、奈良には全国区とはいわないまでも、地酒の旨いのがいろいろ揃っております。
 最後にご紹介するのは、拙宅の裏の小高い山を下りると数分のところにある料亭「百楽荘」です。ここはある資産家が昭和8年(1933年)に八万坪を超える松林の敷地に数寄屋造りの離れを風光が楽しめるように配置して建てたのが始まりですが、現在は四季折々の色に彩られた一万坪の庭園の中に、個性的な離れが十棟点在しております。当時は陶板焼きが有名で、地元の大和牛や伝統野菜を豊富に取り入れて美味しかったです。外国の友人が訪れた時に案内すると大変喜ばれたのを思い出します。

 このように古都奈良ならではの独特の雰囲気の中で美味しい料理がいろいろ楽しめましたので、何故に志賀直哉が奈良は「食いものはうまい物のない所だ」と言い切ったのか、不思議さを覚えてしまいます。
 なお、先般TVで、外国人客の全国人気第2位に、近鉄奈良駅傍のイタリア料理店が紹介されており吃驚してしまいました。随分と奈良も変わってきたものです。
 
追記 『志賀直哉全集』(第六巻)に、「此間「暗夜行路」の最後を書いている最中にも丁度武者(筆者註:武者小路実篤、1885-1976)が奈良に来て何日か泊まっていった。夜、十一時、十二時まで話し、それから書くのだから、翌日はどうしても十時、十一時頃まで私は寝ている。 早起きの武者は私の家内に「志賀は未だ起きない?」と何度も訊くそうだ。或時などは私の寝ている暗い部屋へ入って来て、懐手(ふところで)をして蒲団のわきに立ち、「おい、おい」と眠っている私をおこす。然し「和解」の場合でも「暗夜行路」の場合でも武者に邪魔(?)されていた仕事は不思議に出来栄えがいい。そう仕事の話をしているわけではないが、よく書ける」とあります。十代で知り合い、八十代で共に亡くなるまで交友が続いた、文豪二人の深い友情が偲ばれるエピソードだと思います。
 武者小路実篤は大正14年(1925年)、志賀直哉を慕って奈良へ転居(依水園から戒壇院へ向かう道沿い)しています。「一言で云うと奈良は気に入っている。実際散歩の好きな自分には奈良はいい処だ。川も海もないが、なんとなく落ち着いている。(中略)奈良でいいのはなんといっても古美術であろう。博物館は僕の処から五、六町だ。(中略)矢張りいい。くわしいことは今書く気にならないが、東洋的な内面的な沈黙的な深さでは之以上ゆくのはむずかしいと思う」と『奈良通信』に記しています。でも、武者小路は志賀と違って一年足らずの奈良でした。この奈良在住時に『愛欲』、『自然・人生・社会』、『文学を志す人に』など単行本十冊を上梓したほか、新聞、雑誌に多くの原稿を寄せています。その中には「薬師寺の吉祥天図」について論じたものがあり、「吉祥天図」は日本の画の中で一番好きな画と述べ、藤原時代の絵画や西洋の油絵など縦横に比べながらその美しさを賛えております。武者小路実篤の美術への造詣の深さと愛着が改めて伝わってくる一文です。
 志賀直哉は随筆『武者小路の日本画』の中で、「武者小路の絵はもう素人芸とは云えない。(中略)小器用なものと異(ちが)ってこういう画には見厭きをするという事がない」と絶賛しています。