本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
大阪の思い出の味(1)
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今回は懐かしい大阪の味についてお話ししたいと思います。「江戸の履き倒れ、京の着倒れ、大阪の食い倒れ」という古い言い習わしがあることをご存知でありましょう。江戸・東京では下駄・雪駄に法外なお金をかけ、 ![]() さて、大阪というと高級料理はさておき、庶民の味から入っていくのが常道でしょう。先ずはその代表格として道頓堀にある、おでん屋<たこ梅>をご紹介しましょう。そもそも「おでん」の発祥は幕末期の江戸で、豆腐を熱した石にあてて焼き、それに味噌をつけた田楽から発生したものらしい。後に、豆腐の代わりに蒟蒻(こんにゃく)を、焼くかわりに煮込むようになったのです。更に大根、芋、竹輪等を加え、ここに「おでん」ができ上がりました。これが関西へ入ってきたので、関西では「おでん」のことをいつしか「関東煮」呼ぶようになったのです。これを“かんとうに”と読まずに、“かんとうだき”と読みます。 関西に住んでいた時に、いつか誰かに、「ま、行ってごらん。今の世の中にも、こんなに安くてうまいというものがあるのだから・・・」と奨められたのが<たこ梅>でした。高い銭を払ってうまいのは当り前、店の構えや体裁はどうでもいい、安いお金でうまいものを食べなければ損だという精神が「食い倒れ」の街を久しく支えてきたのでしょう。 ![]() 店内には昔の日本橋を模した、赤いギボシがたてられたコの字型のカウンターがしつらえられ、目の前でグツグツと煮えた丸いおでん鍋がうまそうな匂いを漂わせています。その向こうに浅黒い顔をした、ダシのよくしみたような艶具合の頬をしたおっさんがムッツリと立っています(失礼!)。それが4代目主人の岡田正弘さんです。店内はいつも満員で順番を待つ人が壁ぎわにズラリと立ち並んでいます。夕方の混んでいる時にはそれが二重に取り巻いて、そのまた外に更に何人か、席が空くのを待っています。ただもう飲んで食べたい気持ちが店一杯に漲っていて、騒々しいものさえも感じられません。何処か寂しくて賑やかなのが、夜の大阪の関東煮屋であるとはっきり思わせてくれるのであります。 竹輪、蒟蒻、ヒロウス(飛竜頭)、大根、茹で卵、里芋、牛蒡天、蒲鉾などが、 ![]() ご主人は浅黒い顔をしてだまりこくっていますが、何も聞こえないような表情なのに、あちらから「お酒」、こちらから「牛蒡天おくれ」などと声がかかると、正確に聞き取り、ゆっくりとした身ごなしで動きます。アルミの凸凹になった皿(今は陶器の皿になっている)に関東煮を入れ、ちょっとおつゆをかけ、タバコの焦げ跡やおつゆや酒で汚れたカウンターに置きます。 店の名前通り、ここはタコが名物です。1キロぐらいのタコを丸煮し、味醂と醤油で味付けをするだけですが、勿論、関東煮とは別に煮上げます。さっくりと抵抗なく歯で噛み切れるほど柔らかい逸品。ここのタコのうまかったこと!あんな柔らかいタコは東京ではまず食べられません。そしてこれにつける芥子は、和芥子に、白味噌、砂糖、醤油、酢を加えて練ったもの。皿に取ると変に薄くて頼りないのですが、口に入れるとすごく効きます。これがまたタコによく合うのです。 ![]() でも、何といっても絶品はタコと並ぶ目玉の“サエズリ”です。これは鯨の舌から脂肪分を抽出したあとの煎りガラのことです。巨大な鯨の舌にこういう可愛い名前をつけたのは果たして誰の知恵でありましょうか。親代々の凝り性であるご主人によると、この店で使うのは日本近海で捕れた鯨の“サエズリ”を、北海道の厚岸辺りで冬の風と寒気で乾燥させたもので、これが一番おいしいのだそうです。カチンカチンに乾燥したのを水で戻してからコマ切れにして串にさしておでん鍋で煮るのです。初めてこの店を訪ねた時は“サエズリ”のことを知らなかったのですが、周りの客が盛んに「サエズリおくれ」と注文していたのを見て、次回に初めて食してみました。蛍光燈の光でない電燈の光のもとで、 ![]() ![]() ゆらめく湯気越しに「黒松白鹿」を味わいつつ眺めていると、ある時は、祖父、父、子の3代揃った客の一組、二組が仲良く並んで串を横ぐわえにしているのを見かけたり、またある時は子供連れでやって来たおやじさんが酒のコップを傾ける傍らで、子供たちが関東煮をぱくついているという微笑ましい光景も見られる親しみ易い店でもありました。こういう店は食い倒れの大阪でも昨今珍しくなってしまったのではないでしょうか。 ![]() ところで、居酒屋や屋台のコップ酒というと大抵は下に受け皿があって、これになみなみと溜まる。注いでくれる方も手慣れたもので、この受け皿からまで溢れさすようなヘマはしません。で、先ずコップの酒をチュウッと吸ってから、手に取り上げ、二口三口味わう。そこで、受け皿の酒をあけて再びコップを山盛りにする。表面張力というもので、正にコップの縁から溢れようとして、ユラユラ揺れ動きながらも、際どいところで留まっています。その豊にも満ち足りた山吹色に、言い知れぬ快感を覚えながら、さて愈々本格的に飲みはじめる ― これが、居酒屋や屋台における酒飲みのエチケットでありました。いかなる紳士然たる人でも、これをやっているから愉快なのであります。 でも、<たこ梅>はそのようなコップ酒をしないのです。店の威厳でもあり、錫のコップで味わう「黒松白鹿」と“サエズリ”をはじめとする関東煮で、客には充分に満足してもらえるとの店の並々ならぬ自信があるからなのでしょう。私もこの方が<たこ梅>にはスマートで相応しいと思いました。当時、ワインにかぶれ始めていた頃でしたが、この「黒松白鹿」一種のみと関東煮の組み合わせには脱帽し、日本酒もいいものだなとしみじみ思ったものです。ただ、「黒松白鹿」といえども、<たこ梅>で、それもこのように錫の大徳利から錫のコップに注いでもらうのでなければ、この味は出ないようにも思いました。私にとって、<たこ梅>は大阪の貴重な店であり、関西に住んでいた時は会社帰りによく立ち寄った店でもありました。遠い昔のことなれど、鮮やかで懐かしい味の記憶が蘇ってまいります。 ![]() このようにおでん発祥の地の東京を差しおいて、「おでんは大阪の方がうまい」と一方的に言えば、江戸・東京崇拝者の皆様からは「東京っ子のあなたが、そんなことを言い出しては困るな」とお叱りを受けそうですが、正直に感じたままを述べさせていただきました。何卒ご容赦ください。でも、吉川英治、小島政二郎、獅子文六、小林秀雄、吉田健一といった食へのこだわりをもった文豪たちもよく食べにきたそうです。これは東京人たちにも、この店の西の味は完全に受け入れられていたことを物語っているようにも思います。 江戸・東京はたかだか四百年の文化、上方の関西は一千年の文化、遠く及ばないのは理の当然でありましょう。四百年の舌は一千年の舌に及ばないのも確かのように思うのですが、如何でしょうか。このことについては次回で少し詳しく述べてみたいと思います。 付記 私のボルドー留学時代の若き友人の坂本尚志さん(哲学博士(ボルドー第3大学)、専門は20世紀フランス思想史、現在京都薬科大学薬学部准教授)が、この度初の単著となる ![]() そして『幸福論』というテーマを通して、様々な哲学者の幸福に関する考え方を端的に述べつつ、教授と学生の対話形式でもって、考えるプロセスを分かり易く解明していきます。若き日本の哲学者がフランスの『バカロレア幸福論』について論述し、誰でもこの「思考の型」を身につけ活用することによって広く社会一般にも通用するという、非常に興味深い著書です。私はこの本に大いに刺激と感銘を受けました。高校生、大学生、教育関係者はもとより多くの層の皆様に手に取って是非読んで貰いたい一冊です。新書版ですので気軽にお読みいただけると思います。 なお、鹿島茂氏(明治大学国際日本学部教授、フランス文学者)による『バカロレア幸福論』の書評が毎日新聞(2018年3月25日付朝刊)に掲載されました。大変好意的な評であり、書評の最後には「議論の渦中にある日本の教育改革におおいに参考になる一冊」と結んでおります(ここをクリックください)。 また、昨年末には『共にあることの哲学と現実』(書肆心水)の共著者の一人として、「合理性の共同体の存続のために 哲学的思考と教育」と題し論述しております。この本は前著『共にあることの哲学』(vol.152をご参照ください)の実践・状況編です。今こそ対話やコミュニケーションを成り立たせる「共同性」、「共同体」の必要が求められている時です。見事な知性溢れる論文を併せお読みいただければうれしく思います。 ![]() |
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