本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏

 - シャトー訪問記(その10) -


<ラ・ピラミッド>
 今回はコート・デュ・ローヌ(Côtes du Rhône)地方の北部をご案内していきたいと思います。実は、この時の旅は葡萄園というよりも、リヨンから南へ40キロあまり下ったところのヴィエンヌ(Vienne)という町にあるレストラン、「ラ・ピラミッド(La Pyramide)」を訪ねるのが最大の目的でした。
 先ずは「美食の都」といわれるフランス第2の都市、リヨン(Lyon)からご案内してまいりましょう。
 永井荷風の『ふらんす物語』の中に、「フランスに来て初めて自分はフランスの風土気候の如何に感覚的(サンスエル)であるかを知った」という有名な一節があります。荷風はそこで秋の日々のもの悲しさ、霧雨に煙る都会の憂鬱を描きだしています。そして「かう云う晩である ― バルコンに滴る雨の音がわけもなく人を泣かせるのは」と切りだしてから、「巷に雨の濺(そそ)ぐが如く、わが心にも雨が降る。(・・・)憎むでもなく、愛するでもなくて、わが心には無量の悲しみが宿る・・・」とヴェルレーヌの詩を引用しています。荷風は1907年(明治40年)の晩秋、古都リヨンの街で霧雨に滅入るわが心をヴェルレーヌの詩に託したのでしょうか。
 現役時代に私は妻と共にボルドーから中央山塊を横断する列車の長旅をして、憧れのリヨンの地を訪れました。新市街からフルヴィエールの丘に向ってソーヌ河を渡ると、そこはテラコッタ色をした屋根と石畳の路地のまるで中世の世界に迷い込んだような旧市街(ヴィユ・リヨン、Vieux Lyon)に入ります。この丘の中腹にステキなプティ・ホテル、「ヴィラ・フロランティーヌ(Villa Florentine)」があります。このホテルは「レ・テラス・ド・リヨン(Les Terrasses de Lyon)」というミシュラン1星の美味しいレストランをもっています。私たちはちょっと贅沢をしてホテルの最上階にあるメゾネット・タイプの部屋に2泊しました。部屋のテラスからはリヨンの新・旧両市街、ソーヌ河、ローヌ河を一望に見渡せ、遥か彼方にはアルプスまで臨めるすばらしい眺めでした。ここを拠点にリヨン探訪に出掛けました。ホテルの裏手を登るとフルヴィエールの丘の頂に辿り着き、ノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ大聖堂が聳え立っています。大聖堂から少し下ったところには紀元前43年に建造されたローマ劇場とガロ・ロマン文化博物館があり、また中腹にはサン・ジャン大司教教会などがあって見物するところには事欠きません。そういえば『星の王子さま』で有名なアントワーヌ・ド・サンテグジュペリ(ボルドー便りvol.38)は1900年6月29日にリヨンで生まれており、ベルクール広場近くに像が立っておりました。昼食はリヨン地方独特の「ブション(Bouchon)」と呼ばれるビストロでとりましたが、さすが「美食の都」といわれるだけあってリヨン風クネルをはじめ、どれを食べてもその美味しさにはうなずけました。
 でも、私の興味はむしろ「印刷博物館」をはじめ「織物博物館」、「装飾博物館」、「リヨン美術館」にあり、特に「印刷博物館」でルネサンス期の稀覯本や印刷道具を眺めるのを楽しみにしていました。ここはマインツのグーテンベルグ博物館とアントウェルペンのプランタン・モレトゥス博物館と並び称せられ、正式名称が実は「印刷・銀行博物館」なのです。この奇妙な取り合わせは、地元金融界随一のクレディ・リヨネが16世紀リヨンの印刷業の発展を支えてきたからです。リヨンはかつて指折りの金融都市でありました。そして15世紀後半にリヨンはパリに次いで活字本を出現させ、16世紀になると首都パリと出版の分野で鎬を削るまでになります。16世紀にフランソワ・ラブレーが著したあの奇想天外な物語『パンタグリュエール』や『ガルガンチュア』をはじめノストラダムスの『大予言』なども、ローヌ河とソーヌ河の合流するこのリヨンで印刷されたのです。
 ところが不思議なことにこの金融・出版都市として栄えたリヨンは、16世紀末になると少なくとも歴史の表舞台からは姿を消してしまい、以降文化の中心地として脚光を浴びることはなくなってしまいます。だがむろん、20世紀初頭に永井荷風が「横浜正金銀行」社員として駐在したことは、その後もなお続いた金融都市としてのリヨンの重さを示すものですし、今なおフランス第2の都市としてその地位を保っています。だが今日のフランスは、何といってもパリというメガロポリスを中心とする一極集中の国家です。これに対し、ルネサンス期のフランス社会は、パリ、リヨンの2大都市を中心として回っていました。それぞれの個々のユニークさもあり多様性があって面白かったのです。
 ただ、リヨンの「美食の都」としての伝統は今なお歴然として続いています。かの有名な『美味礼賛』の著者ブリア・サヴァランはリヨンをこう持ち上げています。「リヨンは美食の都市である。その位置がボルドーのワインとエルミタージュのワインとブルゴーニュのワインを、同じように易々とそこに満ち溢れさせている。近隣のジビエ(野禽獣)がまたすばらしい。ジュネーヴとブールジェの湖からは世界一の魚がとれる。この都市が集散地となっているブレスの肥育鶏を見ると、美食家たちは陶然としてしまう」と。
 次は18世紀の貴族の館にある「装飾博物館」です。当時の見事な家具や陶器などが展示してあり、日本のものも展示してありました。その隣には「織物博物館」があり、リヨンが絹織物を中心とする紡績業が盛んであったことがよく分かります。
 ここに興味深いひとつの話があります。1865年早春、フランスの著名な生化学者、細菌学者のルイ・パストゥールは恩師から一通の手紙を受け取ります。そこには「フランス全土を襲っている蚕の病気の調査・研究に着手して欲しい。現地の惨状はあまりあるものだ」と書いてありました。早速パストゥールは原因究明に取り組みましたが、究明されるまでには7年の歳月を要したといわれています。最初のうちは、フランスの蚕はイタリア北部のロンバルディアから買い求めて、その急場を凌いでいましたが、そこにも同じ病気が伝播し、次第にギリシャ、トルコ、コーカサスと感染していきました。その間にフランス国内での繭の生産は原因不明のまま壊滅状態に陥りました。ここで養蚕業をはじめリヨンの絹織物工業に大いに貢献したのが日本の蚕なのです。フランスは被害の及んでいない日本の蚕に全面的に依存することとなり、1868年(明治元年)に245万匹という大量の蚕が海を渡ってフランスに持ち込まれました。これによりリヨンの絹織物工業が壊滅を免れたのでした。
 余談ですが、それから100年ほど後になって、1960年代の終わりから70年代にかけてブルターニュ地方の牡蠣が全滅しかけた時も、日本から三陸産の牡蠣の稚貝が送られ、奇跡的にフランスの牡蠣を救ったのです。2つの余り知られざる日仏友好にかかわるいい話しだと思いますのでここに紹介しておきます。
 リヨンについてはワインに余り関係ないことをいろいろ語り過ぎてしまいましたので、これから本題のヴィエンヌに話を移すことにします。ヴィエンヌはリヨン・ペラーシュ駅から急行で20分ほどのローヌ河の畔にある、ローマ時代からの美しい古都です。
 さて、第一次大戦が終わると、鉄道と共に誕生した美食への旅のスタイルが自動車に取って代わられてしまいます。それは美食家のために、ミシュランのガイドブックが美食の休憩地点を示すようになったからです。“ビバンダム(Bibendum,ミシュランのマスコット)”は美食王キュルノンスキーのアイデアから生まれたといいます。まさに自動車と美食の新しい結びつきの印です。
 1950年になると「国道7号線は実に快適!」とシャンソン歌手のシャルル・トルネは歌います ― 昼食をソリューのコート・ドールのデュメーヌか、アヴァロンのユールでとり、夕食はリヨンのラ・メール・ブラジェか、ヴィエンヌのフェルナン・ポワンの「ラ・ピラミッド」でとる ― と。そのフェルナン・ポワン(1897-1955)のつくったレストラン、「ラ・ピラミッド」を訪れるのが今回私たちの旅のハイライトでした。
 リヨンの駅で愉快なおじさんと出会い、ヴィエンヌはこの列車でいいですかと尋ねたところ、これからヴィエンヌに帰るところだからついて来なさいと親切に言ってくださいました。お陰で安心して20分ほどの楽しい列車の旅を味わうことができました。
 ヴィエンヌの駅でおじさんと別れてタクシーに乗り、一路今宵の宿、「ラ・ピラミッド」に向いました。町の中心から少し離れた静かな通りを抜けると、広場に忽然と高さ20メートルほどの石造りの古い尖塔が現れました。これがピラミッドかと、思わずタクシーを止めてもらい眺めました。エジプトのピラミッドのような形ではありませんでしたが、まさしく四角錘のピラミッドでした。運転手さんの説明によると、ローマ帝国が当時ガリアと呼ばれたフランスを支配下に治めていた4世紀ごろの建造物だということでした。まもなく「ブルヴァール・フェルナン・ポワン(BOULEVARD FERNAND POINT)」という「ラ・ピラミッド」のかつての主人の名前が付けられている、通りの看板が目に留まりました。フランスという国は通りの名前にまで偉大なシェフを崇めて命名するのかと感心したものです。50メートルも行かないうちに、白い壁に囲まれた広い屋敷のような「ラ・ピラミッド」の瀟洒な館に着きました。今晩は念願の「ラ・ピラミッド」のアパルトマンで1泊すると思うと喜びもひとしおです。今は亡きフェルナン・ポワンの伝統を引き継ぐレストランで、ゆっくりとコート・デュ・ローヌのワインを飲みながらミシュラン2星(当時は残念ながら3星から降格していました)の料理を堪能することにしました。
 フェルナン・ポワンが20世紀のフランス人シェフのうち、最も著名で最も大きな影響力をもっていたことに異論をはさむ人はいないでしょう。ジャン・コクトー、ウインストン・チャーチルといった食通がポワンの技を味わうために、その食の殿堂「ラ・ピラミッド」をしばしば訪れたということです。そしてポワンは1920年代から1950年代半ばまで20世紀における最も才能のあるフランス人シェフの大半、アラン・シャペル、ピエール・トロワグロ、ポール・ボキューズ、ミシェル・ゲラール等に特別の影響を与えたことは誰もが知るところです。
 そして、世界で最も珍しい白ワインのひとつといわれる、コート・デュ・ローヌ北部の<コンドリュ(Condrieu)>というヴィオニエ種の葡萄からつくられるワインを、今日の名声にまで高めたのがフェルナン・ポワンその人だったのです。ポワンは「ラ・ピラミッド」のお客にブルゴーニュの銘酒モンラシェと同様に<コンドリュ>を薦めるのを好んだといわれております。それだけこの白ワインに深い愛着をもっていたのです。
 次回はもう少し「ラ・ピラミッド」の様子とコート・デュ・ローヌ北部にある<コート・ロティ>、<コンドリュ>そして<シャトー・グリエ>の葡萄畑についてご案内しようと思います。



 


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