本場ボルドー仕込み ワイン研究家 金子三郎氏 |
- シャトー訪問記(その10) - ![]() <ラ・ピラミッド> |
今回はコート・デュ・ローヌ(Côtes du Rhône)地方の北部をご案内していきたいと思います。実は、この時の旅は葡萄園というよりも、リヨンから南へ40キロあまり下ったところのヴィエンヌ(Vienne)という町にあるレストラン、「ラ・ピラミッド(La Pyramide)」を訪ねるのが最大の目的でした。 先ずは「美食の都」といわれるフランス第2の都市、リヨン(Lyon)からご案内してまいりましょう。 永井荷風の『ふらんす物語』の中に、「フランスに来て初めて自分はフランスの風土気候の如何に感覚的(サンスエル)であるかを知った」という有名な一節があります。荷風はそこで秋の日々のもの悲しさ、霧雨に煙る都会の憂鬱を描きだしています。そして「かう云う晩である ― バルコンに滴る雨の音がわけもなく人を泣かせるのは」と切りだしてから、「巷に雨の濺(そそ)ぐが如く、わが心にも雨が降る。(・・・)憎むでもなく、愛するでもなくて、わが心には無量の悲しみが宿る・・・」とヴェルレーヌの詩を引用しています。荷風は1907年(明治40年)の晩秋、古都リヨンの街で霧雨に滅入るわが心をヴェルレーヌの詩に託したのでしょうか。 現役時代に私は ![]() でも、 ![]() ところが不思議なことにこの金融・出版都市として栄えたリヨンは、16世紀末になると少なくとも歴史の表舞台からは姿を消してしまい、以降文化の中心地として脚光を浴びることはなくなってしまいます。だがむろん、20世紀初頭に永井荷風が「横浜正金銀行」社員として駐在したことは、その後もなお続いた金融都市としてのリヨンの重さを示すものですし、今なおフランス第2の都市としてその地位を保っています。だが今日のフランスは、何といってもパリというメガロポリスを中心とする一極集中の国家です。これに対し、ルネサンス期のフランス社会は、パリ、リヨンの2大都市を中心として回っていました。それぞれの個々のユニークさもあり多様性があって面白かったのです。 ただ、リヨンの「美食の都」としての伝統は今なお歴然として続いています。かの有名な『美味礼賛』の著者ブリア・サヴァランはリヨンをこう持ち上げています。「リヨンは美食の都市である。その位置がボルドーのワインとエルミタージュのワインとブルゴーニュのワインを、同じように易々とそこに満ち溢れさせている。近隣のジビエ(野禽獣)がまたすばらしい。ジュネーヴとブールジェの湖からは世界一の魚がとれる。この都市が集散地となっているブレスの肥育鶏を見ると、美食家たちは陶然としてしまう」と。 ![]() ここに興味深いひとつの話があります。1865年早春、フランスの著名な生化学者、細菌学者のルイ・パストゥールは恩師から一通の手紙を受け取ります。そこには「フランス全土を襲っている蚕の病気の調査・研究に着手して欲しい。現地の惨状はあまりあるものだ」と書いてありました。早速パストゥールは原因究明に取り組みましたが、究明されるまでには7年の歳月を要したといわれています。最初のうちは、フランスの蚕はイタリア北部のロンバルディアから買い求めて、その急場を凌いでいましたが、そこにも同じ病気が伝播し、次第にギリシャ、トルコ、コーカサスと感染していきました。その間にフランス国内での繭の生産は原因不明のまま壊滅状態に陥りました。ここで養蚕業をはじめリヨンの絹織物工業に大いに貢献したのが日本の蚕なのです。フランスは被害の及んでいない日本の蚕に全面的に依存することとなり、1868年(明治元年)に245万匹という大量の蚕が海を渡ってフランスに持ち込まれました。これによりリヨンの絹織物工業が壊滅を免れたのでした。 余談ですが、それから100年ほど後になって、1960年代の終わりから70年代にかけてブルターニュ地方の牡蠣が全滅しかけた時も、日本から三陸産の牡蠣の稚貝が送られ、奇跡的にフランスの牡蠣を救ったのです。2つの余り知られざる日仏友好にかかわるいい話しだと思いますのでここに紹介しておきます。 ![]() さて、第一次大戦が終わると、鉄道と共に誕生した美食への旅のスタイルが自動車に取って代わられてしまいます。 ![]() 1950年になると「国道7号線は実に快適!」とシャンソン歌手のシャルル・トルネは歌います ― 昼食をソリューのコート・ドールのデュメーヌか、アヴァロンのユールでとり、夕食はリヨンのラ・メール・ブラジェか、ヴィエンヌのフェルナン・ポワンの「ラ・ピラミッド」でとる ― と。そのフェルナン・ポワン(1897-1955)のつくったレストラン、「ラ・ピラミッド」を訪れるのが今回私たちの旅のハイライトでした。 リヨンの駅で愉快なおじさんと出会い、ヴィエンヌはこの列車でいいですかと尋 ![]() ヴィエンヌの駅でおじさんと別れてタクシーに乗り、一路今宵の宿、「ラ・ピラミッド」に向いました。町の中心から少し離れた静かな通りを抜けると、広場に忽然と高さ20メートルほどの石造りの古い尖塔が現れました。これがピラミッドかと、思わずタクシーを止めてもらい眺めました。エジプトのピラミッドのような形ではありませんでしたが、まさしく四角錘のピラミッドでした。運転手さんの説明によると、ローマ帝国 ![]() ![]() そして、世界で最も珍しい白ワインのひとつといわれる、コート・デュ・ローヌ北部の<コンドリュ(Condrieu)>というヴィオニエ種の葡萄からつくられるワインを、今日の名声にまで高めたのがフェルナン・ポワンその人だったのです。ポワンは「ラ・ピラミッド」のお客にブルゴーニュの銘酒モンラシェと同様に<コンドリュ>を薦めるのを好んだといわれております。それだけこの白ワインに深い愛着をもっていたのです。 次回はもう少し「ラ・ピラミッド」の様子とコート・デュ・ローヌ北部にある<コート・ロティ>、<コンドリュ>そして<シャトー・グリエ>の葡萄畑についてご案内しようと思います。 |
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